hirax.net::inside out::01月23日

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2001-01-23[n年前へ]

今日の疑問 

 次回の話は流体力学の話なのだが、某サイトでも同じく流体力学の話が出ていた。なかなかに面白い。ところで、粘性項を無視したポテンシャル流れで、最短距離の出口以外の所に先に着くのはちょっと不思議なのですけど、いかがなものでしょう? > webmaster殿

2002-01-23[n年前へ]

雲の上から 

 日曜日に富士山上空を通過していく飛行機を見た。で、どの航路かと思ったけれど、この飛行機も同じような航路みたい。台湾とか香港はあのコースなのかな。(リンク

夕方の街中 

 で、トイレに行きたくなってケンタッキーに入ると、何やらテーブルで話し込んでる人がタカノさんにそっくり。笑ってしまうくらいそっくり。話し方もそっくり。(リンク

ノートPC色々 

 東芝がPortegeを改悪(ワタシからすればね)し、PCカードスロットx2, 軽量、トラックポイント(3490のアキュポイントは最悪だが)という選択肢で選べるノートPCは消えてしまった。これから、一体どうしよう?
 松下はB5サイズXGA液晶搭載960gとトラックボール搭載B5ファイルサイズのLet'snoteとかちゃんとしてるが(バッテリー関係の故障は非常に多いが)、東芝は一体どうしてしまったのだろう?Lib20->Lib50->Portrge320->Portege7200->Portege3490ときた私はどうしたら、良いのだろう?困ったモノだ…。 そういえば、私の使ってる海外版Portege3490CT(つまりRAMがMAX256MBのヤツ)が新品16万円位で売ってた。欲しい人もいるのでは?(リンク

2003-01-23[n年前へ]

両手は聴衆の視線の地平線 

 ご存じの方はご存じのアレとは少し違うかもしれないが、今日もいつものようにグリグリ〜としたプレゼンをしてみた。朝通勤途中の車の中でポリスのシンクロニシティコンサートのLIVE CDをガンガンにかけていたので気分はスティングで、相手が誰でもとりあえず関係ないのである。いつものように、頭の中で「ステージの上では私は女優(あっ、男優か)よ」と誰かが囁くのである。というより、性格的にそうでも思わないと大勢の人に喋るなんてやってられないのである。
 で、まるでシンクロニシティのようにhardでloxseな日々経由で作品をよく見せるためのお手軽なテクニック集なんかを眺めてみた。これは、なかなか面白い。「個性的な人の顔写真を使うと安易に笑いが取れる」なんていう、一件クダラナそうに見えることこそ、特に参考になるような気がするのである。
 そうえいば、これまでに受けたプレゼンの研修の中で一番心に残っているのがこんな言葉だ。「オマエの両手は聴衆の視線の地平線だ」「つまり、聴衆はオマエの両手より下は決して見ないものだ」「ということは、両手を肩の高さ辺りでキープしておけば、聴衆はオマエの顔から目をそらせなくなるし、聴衆の視線の位置だって自由自在にコントロールできる」「だから、腕は胸の高さより下げるな」「聴衆の視線をコントロールするる努力を惜しんではいけない、絶対に」
 というわけで、私はこれ以降プレゼンの姿勢はスキーと同じだと思うことにしたのである。スキーで滑っているときに、腕が下がっているスキーヤーはスキーが下手なのと同じように、プレゼンテーションをしている時に腕を下げている発表者はプレゼンが下手なのだ。この「両手は聴衆の視線の地平線」という言葉には本当に目から鱗が落ちたのだった。

記念写真のズレずれズレ? 

 会社のトップが来るというと、林家パーとペー子のように記念写真をしたがる人もいる。私の感覚とはかなりズレがある感じだ。これがもしも長谷川京子であれば、記念写真を撮っても良いかなと思わないでもないけれど、そうじゃなかったら記念写真を撮って一体何がうれしいのかよく判らないのである。
 

2004-01-23[n年前へ]

「カミノサイコロ。」 

 かさねかさねに寺田寅彦の『Sugoroku no sai』をきっかけとして書かれた♪さいころの1は、なあに?が更新されている。重心位置のずれたサイコロの出目がどうなるだろうか、という話だ。

正二十面体の地球儀 ずっと前に、私は重心位置のずれたサイコロで就職する会社を決めた。私が自分で決めたのはもう少し研究室にいるか、あるいは就職をするかだけだった。その判断をするだけでも十分疲れてしまった私は、研究室の先輩に「紙のサイコロ」を作ってもらって、それで就職(活動)する会社を決めたのだった。どうせ、自分の頭で考えてみてもどの会社が自分に合っているかどうかなんて判らないだろうから、考えてもしょうがないことはサイコロで決めちゃえー、と思ったわけである。といっても、その不器用な先輩が作ったサイコロはとてつもなく重心位置がずれていた。その一番重心に近い面に、今の勤務先を私が自分で鉛筆で書いたのだったから、サイコロに自分の道を決めてもらったような、あるいはそれでも少しは自分で決めたような、何とも私らしい中途半端な決め方だった。しかし、今のところ、そのサイコロの目のアドバイスはそう悪くない出目だったように見える。

 そう言えば、昨日ちょうど職場でサイコロの話をしていた。「どんな少しの判断でもそれをするのが苦痛だから、どんな時でもサイコロで選択したくなる」なんて話をしていたのだった。「何かの選択をしたり、あるいは選択できなかったことをずっと後悔するのは辛いから、今はどんなことでも全てサイコロで決めたくなる」なんて相談をしかけていたのだった。仕事場で話す愚痴にしては、トンデモナイ話だと自分でも思う。

 「紙のサイコロ」は大抵の場合重心位置もすごくずれていて、出目もずいぶんと偏っているかもしれないけれど、そのサイコロに未来を時折まかせてみたりするぼくらからすれば、そのサイコロはただの「紙のサイコロ」ではなくて、それはもう「神のサイコロ」だ。「神はサイコロを振らない」とかつてアインシュタインは言ったけれど、ぼくら自身は神じゃない。神じゃないぼくらだからこそ、折に触れて「カミノサイコロ」が欲しいと思ったりもする。

Chabrier 

 Idylle.

2005-01-23[n年前へ]

北千住 

 左下の写真でディフェンスをしているカメラ(ウー)マンの写真が、現在発売中の『GQ』3月号の中野特集とジーン・クレールのページや、今週の木曜日発売の『Number』620号の卓球「愛ちゃん」ページに掲載されているというウワサ。

北千住北千住北千住北千住






「友へ/チン○」 

BLOGアクセサリー ラクガキボード 右にラクガキボードをつけてある。このラクガキ自由自在のスペースに、いつの間にか「チン○」なんていうラクガキが…。「チン○」って一体何…よくわかりませーん…と思ったら、これのことなんですね。なるほど、座布団一枚。
 チン○はさておき、このラクガキボードは愚善連盟作ってた面白法人KAYACが作成しているようですね。なんだか、世間が広いような狭いような、不思議なような面白いような。あと、「一刀参上」なんていうのもいかにもラクガキで楽しいかも。

2006-01-23[n年前へ]

OpenOSX WinTel 2.0 

 インテルCPUを積んだMacでWindowsなどを高速に動かす、という OpenOSX WinTel 2.0.

2008-01-23[n年前へ]

落語の「人情噺」にオチ(サゲ)がない理由 

 落語の原名である「落とし噺」に「オチ」がある一方、落語の「人情噺」は多くの場合、オチ(サゲ)がない。その理由を「落語の言語学」(野村雅昭 平凡社選書)はこう書く。

 人情噺の終わりでは、(中略)聞き手はほっとする。それが全部作りごとだったとしても、聴衆はそれが事実であることを信じたいのであり、わざわざ種明かしされることを望みをしない。

 NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」が、「立ち切れ線香」に入った。立ち切れ線香は人情噺だけれど、これ以上ないくらい悲しく、複雑であると同時に短く澄んだオチで、日常に戻る。

「わしの好きな唄、何で終いまで弾いてくれんのやろ?」
「もうなんぼ言うたかて、小糸、三味線弾かしません」
「何でやねん?」

「お仏壇の線香が、ちょうど立ち切りました」
 「三味線弾かしません」言葉を、「芸者としてさまざまなものに縛られているから、三味線を(弾きたいけれど)弾けない」と聞いても良いし、日本語の「可能・受身・自発」は繋がっていて、決して分けることができない同一のものだ、とする聞き方もあるだろう。「線香が、立ち切りました」と繋がるというオチ、その関西弁を眺め直してみても、また深く感じることができる。たくさんの混じり合っているものを、味わいのもよい。

2009-01-23[n年前へ]

「肌色いろいろ」なEbon-Aide 

 さまざまな「肌色」を持つ色々な人がいるから、色々な色を持つ絆創膏 がある。黒い色から明るい褐色まで何種類かの色がある。それぞれの色だけで買うこともできるけれど、さまざまな色が詰まっているバラエティーパックを買のも、カラフルで楽しそうだ。

 ペンテル社のクレヨンから「肌色」という名前が消えて「ペールオレンジ」という色名に変わったのは、何年前だったろうか。十人十色ならぬ、二十四人二十四色、よりどりみどりな「24色肌色クレヨン」や「肌色えんぴつ」「肌色えのぐ」を買って、あるいは、「肌色画用紙」を買って、色んな人や景色を描いてみると、何かふと気づいたりすることがあるかもしれない。

ebon-Aideebon-Aide






2010-01-23[n年前へ]

「右の頬を打たれたら、左の頬を…」に隠された意外な秘密  (初出:2006年08月01日頃) 

 見慣れた景色や言葉の中にも、何か心に引っかかる謎が潜んでいることは多いものです。そして、その謎に隠された秘密を解き明かそうとすると、「さらに奥にある部屋への鍵」を手渡される、ということも多いものです。

 最近、私が見たそんな「謎」は「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい "But whoever strikes you on your right cheek, turn to him the other also."」という言葉です。新約聖書マタイ伝の中に書かれているイエス・キリストの言葉です。この言葉を聞いた人が書いた、「あれ?ふつう右利きの人がほとんどですよね?だとしたら、右の手で相手をぶつんだから、(頬をぶたれる側の人からすれば)左の頬を打たれることになるんじゃないですか?最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問を眺めたのです。…確かに、不思議です。世の中の90%くらいの人が右利きだということを考えると、ぶたれる頬は「左頬」が自然です。相手から「右頬」を打たれる、というのは何だか不自然です…?

 そこで、Wikipedia の"Turn the other cheek"の項や、「右頬を…」という言葉を解説した文章を読んでみると、とても興味深い(もっとも支持されている)説を知りました。それは、この言葉で勝たれているのが、「右手の甲で相手の右頬を打つ」という状況だった、ということです。確かに、右手の甲で相手の顔を払うように打つのであれば、(頬をぶたれる側からすれば)右頬が打たれることになります。そして、古代のユダヤ世界では、「手の甲で相手の頬をたたく」ということは、非常に相手を侮辱する行為で、自分より「階級・地位」が下である者に対してのみ行うことが許されていた、というのです。また、当時は左手は「悪い」側の手とみなされていて、自分の主張などを行う際には使うことができませんでした。だから、「右手の甲で相手の頬を打つ」というのは、「自分より地位が下のものを、侮辱しつつ叱責する」という目的で「ごく自然に行われていた」行為であった、というわけです。

 なるほど、だとすると、「最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問は氷解します。…だとすると、今度は次の疑問が湧いてきます。「さらに奥にある疑問」が浮かんでくるはずです。「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」という言葉は、一体どんなことを言わんとしてるのでしょうか?

 「左の頬を向けられ」たら、(右頬を打った)相手はどうするでしょう?左手は使えませんから、左の手の甲で「左頬」を打つことはできません。だとすると、右手の掌で相手の左頬を打つことになります。…しかし、(自分より相手の地位が下だとみなす行為である)手の甲で相手を打つのではなく、「掌で相手を打つ」ということは、相手を自分と対等だとみなすことです。つまり、「自分より身分が下」だと蔑んでいる相手を、「自分と同等の人間である」と認める行為になってしまうわけです。(頬を打った側の人は)大きなジレンマを抱えてしまうことになるのです。

 つまり、この言葉は、単なる「相手の暴力・差別に対して服従・無抵抗になれ」という意味ではなく、「暴力は使わず、根本の意味におけるより強い抵抗を示せ」という言葉であった、というわけです。

 この新約聖書マタイ伝に書かれている「右の頬を打たれたら・・・」という言葉は、旧約聖書の「目には目を、歯には歯を。手には手を、火傷には火傷を、打ち傷には打ち傷を」 という言葉と対比されることが多いために、私はこれまで単なる「無抵抗主義を示す言葉」だと思っていたわけです。しかし、実はそうではなかった…ということがとても面白く、興味深く感じたのです。

 きっと、解き明かされたこの答えからも「さらに奥にある謎・秘密」が続いているのでしょう。そしてまた、この「右頬を打たれたら…」の謎と同じように、他にも何か心に引っかかる謎が日常には潜んでいそうです。今日は、そして明日には、一体どんな謎に出会うのでしょうか…?

2011-01-23[n年前へ]

作ってみたい!?「サイエンス・クックパッド」 

 台所の片隅にいる片栗粉は、馬鈴薯から作られた澱粉(デンプン)からなる粉体です。ということは、砂浜にある砂と同じ粉体というわけで、プールに片栗粉を注ぎ込むと、そこはまるで砂浜のような存在になります。つまりは、その片栗粉の上は、足をとられるながらも走ったりすることができる、というわけです。

 ところが、「海辺の足あと」と「液状化」で書いたように、粉体の中に液体が侵入してくると、液体が粉体間の摩擦・抵抗を下げ、まるで液体のような状態に姿を変えてしまいます。だから、たとえば、砂浜の砂は、波が押し寄せてきた瞬間に、まるで底知れぬ沼であるかのように姿を変えるのです。

 波に洗われている辺りの砂は、意外に締まっているものです。波が砂を洗うたびに、砂は奇麗に整列し直され、密で丈夫な構造に姿を変えます。そのため、砂の上に体重を乗せても、砂浜はびくともせず、奇麗な平面を保ち続けます。

 けれど、そんな足裏にある固い砂浜の感触は、波が砂を洗う瞬間にはどこかに消えてしまうのです。波が足下を洗った瞬間、足下にあるのは「固さというものが微塵もない液体」だけになり、足がズブズブと砂浜の中にめり込んでしまいます。
 ということは、プールに注いだ片栗粉に、さらに適度な量の水を注ぎ入れると、それは白い液体状のものに変わるわけです。

 けれど、そんな液体に見える「片栗粉の水溶き物体」も、その物体に対して力を与え・変形させてしまえば、「部分的に片栗粉=澱粉粒子の隙間に水がいない状態」ができてしまいます。・・・ということは、粉体間の抵抗が強く、液体というより、まるで粘弾性体のような”固い”感触に姿を変えます。このような現象を("dilate"=膨張するという言葉に由来して)”ダイラタンシー”と呼びます。だから、片栗粉を水に溶かした”液体”で満ちたプールの液面を走り抜ける、ということもできるわけです。

 ハインツのケチャップの粘性のナゾ?「喉越し過ぎるビールの速さ」と「ポタージュスープのトロみやら、そんな楽しさを感じさせる食材がキッチンには転がっています。

 「今ある食材で、今日は何を作ろう?」「マンネリにならないようにしたいけど・・・どうしよう?」と頭を悩ますとき、たとえば、クックパッドのようなサービスは私たちを助けてくれます。簡単だけれど、ちょっと美味しい料理のレシピを私たちに教えてくれます。

 もしも、台所にある食材で、あるいは、家の中にある小道具で、勝手に変な実験レシピを提供するサービスがあったら、どんな毎日になるだろう?と想像します。「クックパッド』ならぬ「サイエンス・クックパッド」があったとしたら、家の中はさぞかしエキサイティングで新鮮なことばかり起きる実験場に変わるに違いありません。キッチンをマッドサイエンティストのラボに変えてしまう、そんなサービスがあったら、どんな世界になるのでしょうか。

2013-01-23[n年前へ]

「ぐるぐるサイエンス」の200万は200の間違いです。 

 明日発売されるPC雑誌「アスキーPC」に「ぐるぐるサイエンス」という記事を書きました。記事中に登場する「200万」という数字は「200」の間違いです。800万÷4万=200という小学生低学年ができる計算を200万と書き入れてしまいました。もしも、該当記事を手に取った方は、記事中に登場する数字「200万」は「200」と読み替えて下さい。…すみません。

 駄菓子屋のオバちゃんがお釣りを返すとき、たとえば、お釣りの五十円玉を「はい、五十万円!」と渡したりすることがありますが、800万÷4万は200であって、200万円ではありません。…ゴメンナサイ。

 もう十年以上前、自分のサイトhirax.netに「超手動検索エンジンぐるぐる」と名付けた「検索フォーム」を貼り付けていました。どこかの誰かが「こんなことの答が欲しい!」と思ったことを、ガッツな手作業で答えてやるぜ!と、ある時は「あの頃流れた電波の行方」や「離れた二人が、同じ流れ星を見ることができる距離」を調べ、時には「仕事に使いたいという画像加工プログラムを作り・無料で納品し」、また時には…という具合の人力検索エンジンでした。今では巨大企業になったGoogleが、少しづつ広まりつつあった頃です。

 今回から始まる記事に付けられた「ぐるぐる」という名前は、十年前の「超手動検索エンジンぐるぐる」とは関係ありません。全くの偶然で付けられた名前です。…けれど、「超手動検索エンジンぐるぐる」と同じように、もしも調べたいこと・知りたいこと・手に入れたいこと…そんなことがあったなら、jun@hirax.netまで教えて頂ければ幸いです。

 …よろしくお願いいたします。