2002-04-20[n年前へ]
■「世界はきっと素数なのだ」
というアイデアを書きたい。が、世界を因数分解するテクニックが見つかりません(当たり前)。どうしたもんか。
■今日のGoogleイメージ検索
"First Kiss"。なかなかキレイかな。(リンク)
2003-04-20[n年前へ]
2004-04-20[n年前へ]
■ナンシー関に会いに行こう。
ナンシー関が今もテレビを見ていたならば、一体どんな一言を書くだろうか。どんな番組のことを書くだろうか。そして、誰を消しゴムに刻むだろうか。哀しいことに、どんなにそう思ってみても、そんなコラムを読むことができない。そして、もちろん消しゴムに刻まれた誰かの顔ももう眺めることができない。
もしも恐山に行ったなら、どこかのイタコが彼女になりかわって何か言葉をはいてくれるのだろうか。そして、消しゴムに彫刻刀で何かの姿を映し出してくれるのだろうか。そうだ、ゴールデンウィークには恐山に行こう。消しゴムと彫刻刀を持参して、誰かのもとに降りてくるかもしれない、ナンシー関を探してみよう。ゴールデンウィークにはただひたすらに北上し、恐山に行ってみよう。故郷の青森に戻っているかもしれないナンシー関に、会いに行こう。
■「ぷちナショナリズム症候群」
「ナンシー関に会いに行こう」と書いた後に、何故だか長いこと積ん読状態になっていた香山リカの「ぷちナショナリズム症候群」のページをめくった。終章は「あるコラムニストの予言から」と題し、ナンシー関について書かれていた。それは偶然かもしれないし、あるいは必然なのかもしれない。
その終章の続く「あとがき」は、
「自己決定」「自己責任」ということばが、どうしても好きになれません。という言葉で始まっていた。やはり、「自己決定」を謳う側も、そして「自己責任」を問う側も、どちらも鏡に映った姿のようによく似ている。どちらも、「自己」に重きを置いているようにも一瞬だけ見える。だけど、どちらもそんな「自己」の重きを置いていないようにも思えてしまったりもする。
2005-04-20[n年前へ]
2006-04-20[n年前へ]
■「経済のこと」を聞きに行く
経済(学)にまつわる色んなことを専門家に聞きに行く予定にしています。そして、インタビューをした後に、記事を書く予定にしています。今夜、そのための打ち合わせを東京駅「美少年」でしてきました。
これまで、経済のニュースを眺めてみることは多かったとは思うのですが、これまで経済(学)自体には全く興味が湧きませんでした。ところが、経済学とはどういう学問ですか?という言葉を眺めてから、経済(学)に興味を感じ始めたのです。だから、経済(学)にまつわる色んなことを専門家に聞きに行くことにしました。そして、(全くの素人として)色んなことをわかることができたらいいな、と思っています。
もしも、私と同じように経済にまつわる素朴な疑問がある方がいらっしゃいましたら、教えて頂けたらうれしいです。
この世は不公平なものだが、それぞれが努力すればそれに見合ったものをみんなが得られるようになる社会をどうすれば実現できるだろう、ということを愚直なまでに考えるのが経済学だ。 石川経夫
2008-04-20[n年前へ]
■「サラリーマン工学に基づいたサラリーマン体操」と「サラリーウーマン工学に基づいたサラリーウーマン体操」
最先端のサラリーマン工学に基づいて開発された体操として、NHKが開発した有名な体操メソッドに「サラリーマン体操」というものがある。これは、「サラリーマン」に必要な、色々な動き・エクササイズを体系化したものであって、役に立つと同時に楽しくもなる不思議なエクササイズである。
しかし、世の中には「サラリーマン」だけでなく「サラリーウーマン」だって多い。そんなサラリーウーマンのための、つまり、サラリーウーマン工学に基づいているらしき「サラリーウーマン体操」を観察したことがある。
確か、大崎かどこかのビジネスビルだったと思う。ビルの中のレストランで昼食をとりながら通路を眺めていると、サラリーマンだけでなく、たくさんのサラリーウーマンが行き交っている。そんな多くのサラリーウーマンたちを眺めている内に、ある規則に気がついた。それは、こんな規則・法則である。
「サラリーウーマン体操」の法則
- 同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループが互いにすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンたちは互いに「両手を肩の高さまで上げて、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
- 30代のサラリーマンと20代のサラリーウーマンが、同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループとすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンたちは、互いに「両手をへそ辺りの高さで、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
- 40代のサラリーマンと20代のサラリーウーマンたちが、同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループとすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンは互いに「片手を腰辺りの高さで、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
長時間にわたる観察の結果、その挨拶のサラリーウーマンたちの仕方は、次のようなサラリーウーマン工学に基づいているように見えた。一緒にいる人(連れ)が同世代の場合、サラリーウーマンたちは(見つけた知り合い)に最大限の挨拶をする=両手を肩の高さまで上げて、掌を揺らす(バイバイの)ポーズをする。この時、両手を肩の高さ以上に上げないのは、それではあまりに「手を振る行為」が目立ち過ぎるために、自分にも相手にもメリット(パフォーマンス/コスト)が少ないからに見えた。
そして、連れ(一緒にいる人)が同世代でない場合、サラリーウーマンたちは「見つけた知り合い」に対する挨拶度合いと、連れ(一緒にいる人)への気遣い(目立たなさ)度合いのバランス(シーソー・ゲーム)にしたがって、手を振る高さが変化するように思われた。連れが30代のサラリーマン(ウーマン)ならば、両手をヘソ辺りの高さで振るのが「ちょうど知り合いと年長者への気遣いの拮抗点」であり、一緒の人が40代の年長者である場合には、片手を腰辺りの高さで(知り合いのサラリーウーマンに対して)振るだけというのが、「知り合いと年長者への気遣いの拮抗点」となるわけである。
連れが40代のサラリーマン(ウーマン)の場合、両手でなく片手だけを腰辺りの高さで振る理由は、その観察から明らかにすることはできなかった。それは、もしかしたら、(自分の、あるいは、相手の連れに気を使い)手を振る行為をさらに目立たせたくなかったせいかもしれない。……あるいは、もしかしたら、腰の高さで両手を振ったとしたら、ペナルティ・ワッキーの「芝刈り機」状態になってしまうかもしれない。
いつかまた観察する機会に恵まれたなら、今度はその秘密を探ってみたい、と思っている。
2009-04-20[n年前へ]
■「あなた」に薦めたい「しりあがり寿のマンガ入門」と「山田ズーニーのおとなの小論文教室。」
心の中に「何かはわからないけれど、何かをしたい」という気持ちををうっすら抱えている人、「何かをしたいけれど、どうしていったらいいのかよくわからない」という悩みを抱えているひと、「今のままで、このままで、本当にいいのだろうか」と考える時があるひと、そんな「あなた」に心から読んで欲しい・薦めてみたいと思うのが、しりあがり寿の「表現したい人のためのマンガ入門 」と山田ズーニーの「おとなの小論文教室。(1)~(3)」です。これらの本の中には、タイトルからはわかりづらい、素晴らしい内容が詰まっています。
しかし自分には決定的な問題点がありました。「やりたいもの」がハッキリしないのです
しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」
しりあがり寿の「マンガ入門」が私たちに教えてくれることは決して「マンガの描き方」ではありません。そして、山田ズーニーの「おとなの小論文教室。」が私たちに伝えようとしていることも、「小論文の書き方」ではないのです。
「表現したい人のためのマンガ入門」と「おとなの小論文教室。」に書かれていることを、それをひとことで言えば、雑な表現であることを覚悟の上で一文で書けば、それは「生きていくためのコツ」「自分の活かし(生かし)方」を教えてくれる本・文章です。「自分」を知り、自分以外の世界を知り、そして、その世界の中での自分を見失わず歩いて行くためのアドバイス、が繰り返し書かれています。
自分がいま、この手で紡ぎだせないものを、自分にはちゃんとイメージする力がある。山田ズーニーは、痛々しいほど真摯にとても力強く、かつひどく繊細な言葉を重ねて。そして、しりあがり寿は、非常に論理的でいて、それでいて限りなく自然なバランスで気楽な書き方で。二人のスタイルは180°ほどに異なっているように見えても、二人が書いたこれらの本は、いずれもが同じ「自分の可能性・潜在力を見つけること」「自分を表現する・活かすこと」「他の人に伝え・繋がること」、それは一体どういうことなのかということを教えてくれます。
それが、未知で・独特で・自分で作り出すしかないから、こんなに駆り立てられるのだろう。自分で作らなければ「無い」ものだから絶望するのだろう。
山田ズーニー
「17歳は2回くる おとなの小論文教室。(3)」
人間はもともと、何かのために生まれるものではありません。何かの職業につくとか、何かの使命を果たすとか、生まれながらにして決まっていることは何もない。ただし、あえて生まれてきた目的はといえば、生まれたこの世界に受け入れられること、それ自体じゃないでしょうか。
しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」
それにしても、しりあがり寿のバランス感覚には驚かされます。不思議に敏感な感性と、データに裏付けされた論理と予測、そして、それらをまとめる絶妙なバランス感覚は、男性の私から見るとある意味で理想の大人に思えます。
読者に見捨てられると食えないから、でもとりこまれると自分を見失うから、読者とつながる小指一本に力をこめます。
自分のどこが悪いか考えることがあります。直さなきゃいけないところから順に並べたりして、でも面倒くさくなって、ほうってしまいます。
いろいろ書いてきたけれど、…必要なのは、馬が走るように、犬が吠えるように、人が祈るように、ひとコマひとコマ、1ページ1ページ、まるで息をするようにマンガを描き続けること。ただそれだけかもしれません。
しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」
2010-04-20[n年前へ]
■正規表現と「美しいコード」
しばらく前のことだったと思う。正規表現の書き方の話題になり、「美しいコード」とか「目的に対する実装のバランス」といった話になった。
その時、「コンパイル(NFA->DFA)にどの程度の時間がかかるか」という観点からのアドバイスを受けた。これまで、そういった基本的なことを考えたこともなかったので、今さらながら、そのアドバイスを消化するために、正規表現とNFA・DFAについて、さらってみた。
DFA:Deterministic Finite Automaton=決定性有限オートマトン、やら、NFA:Nondeterministic Finite Automaton=非決定性オートマトンといった文字列を眺めながら、こんなワクワクさせられる面白いことを、なぜ今まで楽しむことができなかったのだろうと、そんなことを切実に感じさせられた。
なお、オートマトンの日本語訳は、自動機械であって、自動羊肉ではないらしい。ところで、あなたの「マトン」のイメージは、どんなものでしょう?
2012-04-20[n年前へ]
■Lytro "リフォーカス" ”ライトフィールド”カメラを使ってみた。(第一回)
撮影後にピント位置を自由自在に変えることができる”リフォーカス・カメラ”、”ライト・フィールド・カメラ”とも呼ばれるLYTROカメラを使ってみました。街中や部屋の中…たくさんの場所で撮影した「写真」の一部が、たとえば、こんな写真です。顕微鏡や赤提灯、ビー玉やホログラム…たくさんのものを、とても楽しく・ワクワクしつつ、LYTROのファインダー越しに眺めました。
こうした機能(あるいは、その機能を使い得られた情報の活用)は、少なくとも数年後には「当たり前で・普通のこと」になっているはずだと思います。
「ムーアの法則」のごとく、デバイスの規模・機能は常に等比的に増大・進歩するし、それ以上に、デバイスから得た情報を処理するソフトウェアも発展しているはずだと信じます。…デバイスは、一日一歩、三日で三歩、365日で365歩進んでいるはずだと思いますし、それらの光学系デバイスから(直接)得ることができる以上の「感動」を与える機能が、ソフトウェア機能を介して、「未来のカメラ(レンズ)」には搭載されているだろうと思います。
つまり、私たちが感じる感動を120パーセント(つまり、人が感じる以上の感動を)そっと差し出す機能が、未来のLYTROには搭載されているはずだと思うのです。
2014-04-20[n年前へ]
■円周率(パイ)なんて簡単にわかるさ。「そう、指1本とおっぱいがあればね!」
フォン・ノイマンが名付け親だというモンテカルロ法の説明のために、エクセルで円周率を計算するモンテカルロ法シートを適当に作り、こんな「スライド」を描いてみました。ちなみに、そのエクセルシートを動かしてみたようすが、その下に貼り付けた動画です。
円周率(パイ)の値なんて簡単にわかるさ。
「そう、指1本とおっぱいがあればね!」
ちなみに、下のエクセル動画は、「反復計算」と「図形選択で数式記入部に”=セル番号”を入れると、図形テキストを任意に変更できる、という仕組みを使っています。