2000-10-20[n年前へ]
■「近親婚回避のメカニズム」
恋の稲妻が距離が近いと飛ばにくい理由の一つとのウワサ。from Mail. Thank you.
■「テレビの前でゴムをはじく」
OscylinderScopeと全く同じとのウワサ。 from Mail. Thank you.
■ツリー構造と色と2次元分解
忘れないようにメモ。
2001-10-20[n年前へ]
■今日の新聞 「みる・きく・はなす」はいま 第25部
新聞記者が書いて記した、静岡県のアフガニスタン人医師の言葉。
「(差出人不明の多数の手紙について)一つの意見だと思えば腹も立ちません。怒って仕返しをしたいなどと思ったら、今世界で起きていることと同じになってしまう」
「ただ、やぱり名前は書いて欲しい。そうすれば返事が書ける。お互いを理解する一歩が踏み出せる」
■トリック comes back
えー、私、天才奇術師の山田奈緒子です。ひさしぶりだな。 「トリック」の放送終了から一年経ちました。お客様から「奈緒子さんの華麗な冒険をまた観たい」という声を沢山のハガキや伝書鳩でもらったので 「トリック2」 ってことで、またやります。でも12月までは奇術師にとっては稼ぎ時なので、来年の1月からやることにしました。
(リンク)
■今日見た景色 今週の一休み
バイクと赤い服がかっこいい。(リンク)
■今日見た景色 海の向こうの大瀬崎
を覗いてみよう、っと。(リンク)
2002-10-20[n年前へ]
2003-10-20[n年前へ]
■昼間点いてる電灯の下
昼休みに自転車を組み立てて、箱根の山の中へ入っていく。いつもは行かない細い山道へハンドルを向けてみる。すると、山の中に神社への入り口が口を開けている。昼間なのに点いている電灯の下に立つと太陽の光と電灯の光が合わさって不思議な空間。京極夏彦の書く小説の中に迷い込んだよう。
2004-10-20[n年前へ]
■武蔵溝ノ口
雨の武蔵溝ノ口。あまりの豪雨に写真も撮れず。「台風には色んな名前があって面白い」なんて楽しんでいる余裕も、新幹線が止まっていることに気づいた途端に吹っ飛んでしまう。右往左往した結果、ギューギュー詰めの東海道本線でなんとか沼津へ辿り着く…。今年はこんなシチュエーションが多すぎる。
だけど、そんな鉄道の旅ももしかしたらいい経験なのかも(次の日になったから、そんな気分になってるだけ)。
2005-10-20[n年前へ]
■「クールビズ・ウォームビズはピラミッド建設に似ている」
クールビズやウォームビズについて、少し考えたことがある。その時に思ったことが、「クールビズ・ウォームビズはピラミッド建設に似ている」ということだ。クールビズやウォームビズが、その目的とする地球温暖化防止の役に立つかは疑問だと私は思っている。「論理は間違っていないけれど、実効性に乏しい」というのではなく、その論理自体に懐疑的なのである。
しかし、その論理が「正しい」か否かとは無関係に、クールビズやウォームビズは何よりビジネスとして成り立っているようである、つまり巡り巡って人の生活維持に役にたっているようだ。それは、よく言われるピラミッド建設の「エジプト国民救済のための公共事業」という効用に似ているように思う。ピラミッド建設の目的がなんであれ、あるいはその目的達成のための論理が正しいのか迷信なのかとは関係なく、ビジネスとしての効用があるということと、クールビズやウォームビズの効用が似ている、という感じだ。
■"We must change to remain the same"
「激動の転機の時代」に、古い時代に生き残った人間が、新しい世代に生きる人々にその場を譲ってゆくというテーマの中、クライマックスの台詞に示唆されるものがあります…「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。(We must change to remain the same)」まさに逆説的な真理であり、人類の歴史をみても、長期にわたって繁栄した国は、例外なく自己の改革を怠ってはいません。“能力とは CAN ではなく DO である”と申します。できないと投げ出す前に、理想に向かってやってみる行動力つまり意志のある若者達が改革を担ったことも忘れてはなりません。
2006-10-20[n年前へ]
■"We must change to remain the same."
from n年前へ.
変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。"We must change to remain the same." まさに、逆説的な真理であり、人類の歴史をみても、長期にわたり繁栄した国は、例外なく自己の改革を怠ってはいません。「能力とは "can" ではなく "do" である」と申します。
その論理が「正しい」か否かとは無関係に、クールビズやウォームビズはビジネスとして成り立っているようである、つまり巡り巡って人の生活維持に役にたっているようだ。
■色彩快適度の計測器
「色彩に対する人間の心理特性に基づき、色彩環境の色彩快適度を計測する」というカーラーコンフォートメータ。産業技術総合研究所とアドバンストシステムズ株式会社によるもの。産業技術総合研究所のプレスリリースを見る限り、アルゴリズムは「同系色が多いほど、快適。彩度が低いほど、快適」という具合。
2008-10-20[n年前へ]
■防振エディタ・ソフトウェアのバイナリ
昨日作った「加速度P(I)D制御の防振エディタ」で作った防振エディタのバイナリを/misc/stabilizedEditorに置いておきます。いつものように、アイデア一発・作成20分という大雑把な作りなので、できることはテキストファイルの編集と、Open・Saveだけです。
で、早速「昨夜、こんなソフト作ってみたんだけど」と前置きしながら一発芸ソフトを披露したところ、「プルプル震えて不安定ですね」「全然、綺麗に制御できてないですね」「大体、(位置値でなく)加速度値を使っているのにPD制御って、変じゃないすか?」「もう少し制御工学を勉強した方がいいんじゃないでしょうか?」と実に真っ当な技術論で喝破されていまいました。
そして、それどころか、「それ、老眼促進ソフトですか?」「だから、そんなにフォントが大きいんですか?」とまで言われたてしまったわけです。・・・確かにそうかもしれないなぁと思いながら、誰かが、iPhoneとかで防振エディタ・ブラウザ・画面表示ソフトウェアが作ってくれたらいいのにな、とも思ったのです。
2010-10-20[n年前へ]
■肥満は意外とエコロジー!?
ユニットバスに、右に貼付けたようなシールが貼ってあります。それは、「体重の程度次第で、入れるお湯の量を変えましょうね」というものです。人は体重に比例した体積を持つのだから、浴槽に入れるお湯の量は「浴槽の容積ーあなたの(体重に比例する)体積」で良いですよね?というシールです。
浴槽とシールを眺めてみると、意外なほど、体重次第で入れるお湯の量が違うことがわかります。体重40kgの人に比べると、体重100kgの人などは、まるでほとんどお湯を入れなくても良いように思えてしまうほどの量に(お湯を入れる量を示す)マーキングがされています。
このサイズの浴槽であれば、体積はおよそ150リットルくらいでしょうか。そして、体重が100kgの人であれば体積は約100リットル程度ですから、必要なお湯の量=「浴槽の容積ーあなたの(体重に比例する)体積」は、50リットル程度になります。・・・確かに、必要なお湯の量が激減しています。これが、体重50kgの人ならば、100リットルものお湯が必要なわけですから、体重100kgの肥満体型の人と体重50kg の人をくらべてみれば、肥満気味な人は、なんとバスタイムに必要なお湯の量は半分ポッキリで済むのです。
「肥満」は意外にエコロジーなのかもしれません。お風呂に入る時のお湯の量も少なくて済みますし、寒い冬にも体の冷えを抑えることができて(体重あたりの皮膚面積が小さい=熱を奪われにくい)、暖房費を抑えることもできそうです。「体重あたり」の「体重」が必要なのか!?といったツッコミはさておき、暑い夏が通り過ぎて、冬が近づく今日この頃、少し(だけ)肥満気味になってみても良いのかもしれません・・・?
2011-10-20[n年前へ]
■「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」
「asada's memorandum (ゴッホの本当のすごさを知った日)」を読みました。この内容が、実に間違った論証の典型的パターンに陥っていました。そこで、「ゴッホの本当のすごさを知った日」の論旨が「どのように間違っているか」について書きます。さらに、19世紀 後期印象派の画家であるゴッホの色彩について、「ゴッホの本当のすごさを知った日」で書かれていることとは「違うこと」を示します。
「ゴッホの本当のすごさを知った日」で書かれている内容を要約すると、次のようになります。
- ①ゴッホは色覚が異常だったのではないかと言われているそうだ。
- ②P型色覚と「普通の」色覚の中間的なものを”疑似体験”させるような色変換をゴッホのRGB画像に掛けてみた。
- ③色変換された画像は”自然で素晴らしく見えた”から、ゴッホはP型かD型の色覚特性を持っていたのだろう。
まず、①については、「言われているそうだ」を検証せず、鵜呑みにしてしまうという間違いです。 「ゴッホの色表現は○×の症状によるものではないか」という論文が書かれたりすることもあります。 たとえば、「ゴッホが黄色を使い・眩しい印象の絵を描くのはジギタリス中毒のせいでないか」といった主張などです(T.C.Lee 1981)。 しかし、そういったものは、状況証拠が足りないために、一般的に受け入れるまでには至らない「説」で終わっている、というのが実際のところです。
②については、色覚”疑似体験”ツールというのは、原理上、ある色が「どの色」に変換されるかということには、あまり意味がありません。あくまで、どういった色群が「見分けにくい色」となってしまうかを疑似体験するものに過ぎません。それらの「見分けにくい色」を、実際のところ「どういう色」として感じているかまでを追体験できるものではないのです。ましてや、その色覚”疑似体験”ツールにより変換出力された色調をもって、絵画の色表現や階調表現を論じる・感じることができるようなものではありません。ここにある「使い方への間違い」は、「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを整理しないままに作業を行ってしまったのではないか、と思います。
「シミュレーション」というものを扱う時には、「その道具の適用可能範囲」を知っていなければなりません(さらには、シミュレーション・プログラムを作るような人は、シミュレーションが出力する”結果”すら知っているべきだと私は考えています)。 しかし、「その道具を理解していないと、道具を過信して・使い方を間違える」ということをしてしまいがちです。 ②は、その典型的なパターンです。
さて、②と③の組み合わせ部分が、「ゴッホの本当のすごさを知った日」において最も「間違っている」部分です。
②③の組み合わせ部は「Aさんが作ったものに対して、”ある処理”をかけてみた」「すると、”(私には)それが自然で良く”感じられたので、Aさんは”ある処理”のような知覚を持っていたのだろう」というロジックになっています。
これは、とても主観的で、もちろん間違ったロジックです。
まず、「(私には)それが自然で良く”感じられたので」ということは理由になりませんし、主観を理由にするのは非常に良くありません。
このロジックで、例文を作ってみると、このような具合になります。
「19世紀の作曲家であるエリック・サティの音楽に”高い音を消す変換”をかけたら、”緊張感がなく自然な音”に感じられるようになった。そして、それが(私には)自然に思われるから、サティは高い音が聞こえにくい”耳が遠い”聴覚を持っていたのだろう」
…サティが精魂込めて作り出した音楽の特徴が、”耳が遠い”せいになってしまいました。
そう、「ゴッホの本当のすごさを知った日」がマズイのは、典型的な間違った論証であることだけではありません。 奥底においてマズイのは、「一見、創作者であるゴッホが感じたことを”疑似追体験”させるかのように見えるけれども、それは”創作者ではなく自分の主観”にもとづくものであって、実は”(他者である)創作者が行った作業(あるいは、その時代背景)を想像し・追体験する”ということを放棄していること」です。
典型的な間違った論証で、少し「うまくない」ことが書かれていたので、ここまでの雑文を書きました。
さて、ゴッホの色彩について、別のことを書きましょう。 書くのは「背景知識」「ゴッホの作風変化」「ゴッホがどのように色を感じていたか」という3点です。
ゴッホは、オランダで画商をしていた叔父のもとで働いた後、1986年、パリで画商をしていた弟テオのところに行きます。 ゴッホは、テオを通じてドガやスーラ、ロートレックやピサロ…といった印象派の巨匠たちと知り合います。 すべての時代の画家たちが色材・画像科学の先端技術者であったのと同じように、印象派の画家たちは当時最先端の色彩科学を自分たちの技術に反映させていました。 ゴッホは、そうした技術を先人である巨匠たちから学んだ上で、さらに流行最先端の日本の浮世絵の研究も行い、同時代の画家の中でも、屈指のロジカルな色彩考察をし始めます。 そして、ゴッホの作風は、パリに来るまでとは大きく変わります。 これから亡くなるまでの2年の間に描かれたのが、いわゆる「ゴッホの名画」とされているものです。
たとえば、下の2枚の絵は「作風が変わる前後の時期に、同じ場所でゴッホが描いた絵画」です。 左が1887年に描いたもので、右が1890年に描いた風景です。 ここでわかることのひとつは、「ゴッホの色使い」は生まれた時からの色覚特性によるものではない、ということです。 ゴッホのレゾネでも眺めれば、そうしたことを一目瞭然に見て取ることができます。
「人が色をどう感じているか」ということは、容易には知り得ないことです。 しかし、ゴッホの場合には、それででもいくつかの「手がかり」があります。 それは、友人ベルナールや弟テオに書いたたくさんの手紙です。 そこには、「どのように色を感じているか」「どのように色を考えているか」「描き方の理由・狙い」といったことも数多く書かれています。
たとえば、テオ宛の手紙中では「赤色・黄色・青色を基本色として、それらの混合で補色を作り出し、さらには白と黒を混ぜることを経て、無限の色を使ることができる」 「補色を並べることで、それらは彩度を強め合う。さらには、補色の混合と対立・類似したトーンの揺れを描きたい」といった感覚・理論を書き連ねています。 そして、そういった理論にしたがって、赤/緑(黄+青)や黄/紫(赤+青)あるいは青/オレンジ(黄+赤)といった補色同士を並べたストロークを駆使したのです。 赤/緑、黄/紫、青/オレンジといった組み合わせをゴッホが多く用いるのは、こうした理由によるものです。
黒と白は色彩と考えることができるし、二つを並置した対照は例えば緑と赤の対照と同じように刺激的だからだ。 それに日本人だってこれらを使っている。
「ベルナールへの手紙」
ここまでで十分長くなってしまいました。 ゴッホのパレット(画家がどういった色を使うか)例やその並び、あるいは、その絵具に生じる化学反応や…といった興味深いことについても書きたかったのですが、それはまた今度書くことにしましょう。
それにしても、「新しいことを知る」ということは、とても楽しいものだ、と思います。 歴史上の創作者たちが行った作業、あるいは、そこに至るまでの時代背景を想像し・追いかける、そして追体験してみる…といったことは(安易な感じ方をもとに)放棄するには実にもったいない・貴重でワクワクさせられる感覚だと思います。
わしが見てるコレって本物? わしが聞いたコレって本当? わしらはいつもそういったギモンを胸に抱き、できれば見る、何回も見る、そして聞く、何回も聞く、そして自分にいま一度問うてみる、そんな姿勢とミミ掃除が肝要だと思うのである。
「わしが見てるコレって本物?」ちゃろん日記(仮)
参考:続「ゴッホの本当のすごさを知った日」の「最も間違っている部分」
この『さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか、ということを考える』という点について、今回はもう少し詳しく書いてみることにします。
そういったことを考えながら、「ゴッホの本当のすごさを知った日」という記事を読んでいくと、あの記事が「さまざまな”光”を、各個人が自分の中でどういう”色(存在)”として位置づけるか」ということを考えないまま、思いを巡らせないまま、そして、整理しないままに書かれたのだろう、と感じてしまうのです。
2013-10-20[n年前へ]
■11月の満月の夜に、空にカメラを浮かべてみたい…
11月の満月の週は、タイのチェンマイに行きます(たぶん)。ローイ・ローイ・ロイカトーンなロイクラトン、イーペン祭りを眺めに行きます。…その3日間、チェンマイの街は、昼も夜も、あるいは学校の校庭や川べり・街の通りやホテルの窓、ありとあらゆるところで、空へ灯籠が流され続けます。
今年やってみたいと思っていることは、熱灯籠(あるいは熱気球)か凧かラジコンヘリからの、空に浮かぶ灯籠の空撮です。その準備のために、4月はバンコクで熱気球実験をしてみたりした(けれど大失敗した)のです。
…そんなこんなで、カメラ付きのクアドコプターAR.Drone 2.0 Power Editon(大容量バッテリー) を買おうかどうか悩んでいる、今日この頃です。気球にカメラを結びつけるか・空にヘリを飛ばしてみるか…とにもかくにも、空にカメラを結びつけて浮かべ、遙か彼方の上空へと流されていく灯籠を写してみたいのです。
2018-10-20[n年前へ]
■伊能忠敬メソッドで渋谷駅の地下大迷宮を可視化する!?
先週発売された「ソフトウェアデザイン 2018年11月号」に4ページ記事を書きました。題して「伊能忠敬メソッドで渋谷駅の地下大迷宮を可視化する!?」です。渋谷駅の地下内部構造の可視化とか、位置追跡とか構造物の階段角度とか、そんなことが好きな方は楽しんで頂ければ幸いです。
ちなみに、『(この記事を読めば)渋谷駅の地下が手に取るようにわかるのでしょうか?』というもらったコメントをもらいました。その答えは、『本記事で解説されているコードを使えば、3Dプリント可能な渋谷駅の可視化オブジェクトファイルも作ることができます。それはつまり、「 渋谷駅の地下を手に取ることができる」と言い換えることができます』