2007-09-02[n年前へ]
■タフネスとWEBアプリ
夏の夜の田舎町を、自分の足で走る。歩くようにゆっくり走る。
キャリアとは、轍(わだち)のことだ。轍が繋がり、そこに道が出来る。朝、WEBアプリケーションの管理をcookieに移行して、サーバ側を並列稼働させ始めた。そして、状態管理をRailsのコントローラからJavascript側に移行して、Railsのコントローラ機能を、Javascriptからのアクションに応える形になるように手を入れる。
少し前に、「(相手に)心の中が見える装置」を作ってみました。あるいは、「(相手に)心の中を伝える装置」といえるようなものを作ってみました。ビュー側ならぬクライアント側がコントロールする「単なるイベント駆動」に変えたい部分と、その背後でデータが全て繋がっている部分とを、うまく頭の中で整理できない。
ただ、どんな道にせよ、共通するのは、途中で必ず迷うということだ。どちらに進んで行けば良いのか、わからない時がきっとあるだろう。それでも、高速化のための処理を書く。
そして、ケータイと連携させる部分を書き始めると、Imagenerator用に書いたGmailアクセスWWW::Mechanizeが動かなくなっていることに気づく。最後の最後のsubmitが上手く動かない。しかも、その理由が何だか全然わからない。
けれど、本当に大切なのは、わからないということへのタフネスを身につけることに精力を注ぐことだと私は思う。
それが、最良のキャリア教育であると、私は信じている。
2007-09-03[n年前へ]
2007-09-04[n年前へ]
■「世界の狭さ」と「省略された以下の約十万桁」と「ネット検索」
「世界って狭い。でも逢いたい人には巡り逢えない」
( 省略された以下の約十万桁はこちらのファイルでご覧下さい )
Google検索ならきっと簡単に巡り会うこともできるのだろうけれど、現実に巡り会うのはそれとは違うからね。それに、Googleの巡り会いなんかは無い方が良いかもしれないしね。
2007-09-05[n年前へ]
■「イメージとイメージ」
画像処理+Wikiソフトに"draw"アクションを追加して、自分の手から一回放す。「コトバとコトバ」「コトバとイメージ」に加えて「イメージとイメージ」を繋げてみる。人それぞれに違う「コトバ」、人それぞれに違う「イメージ」を、ゼロ・イチの繋がりではなく繋げてみたい。少しづつ重なり、少しづつズレつつ、繋げてみたい。
2007-09-06[n年前へ]
■「バカでヘン」
男の子は皆「バカでヘン」です。女の子は「意地悪」
ちゃろん日記2000(仮)を読んだことのない人は、ぜひぜひ読んでみて下さいな。私の今でも一番のお気に入り。
ちなみにそのまま大きくなるので、「オトコ」という生き物も基本的に「バカでヘン」だと思って間違いありません。
もしも本当に、「前世」というものがあるのなら、私の「前世」は、絶対に男だったと思う。ちゃろん日記(仮) 1997/09/07
「バカ」と「意地悪」が共に暮らす人間社会。いろいろあって当たり前ですね
■関西のオバチャンになりたい
台風が日本列島に接してくる最中、品川駅から新幹線に乗る。三人掛けの席の通路側に座ると、隣の二人は、関西の何処かに帰る年配の女性2人だった。その二人の会話のペースに、聞き入ってしまった。
その最大の理由は、相手がコトバを発してから、それに対する応答がいつでもコンマ1秒以内になされてる、ということだ。コンマ1秒以上沈黙する時間はない。どんな形であれ、いつでも十分の一秒以内に、何かの相づちが入っている。そのことに、聞き入ってしまった。
以前、英語の研修を受けた時、「相手が言葉を発してから、1秒以上反応しないのは、英語としてはコミュニケーションが全くできていないということだ」と言われた。あぁ、関西のオバチャンになりたい
2007-09-07[n年前へ]
■NTSCとニガシオ
こんにちは、さようなら。
NTSCのビデオ信号のカラー情報は「ビデオ信号に重畳した3.58MHz波形」の位相で表すが、3.58MHzはappleのビデオ・クロック(7.12MHz)のちょうど1/2である。だから、2ドット分のビデオ・信号を"on""off"として出力した場合と、"off""on"して出力した場合では、NTSC信号でのカラー情報(位相)が180度ずれた色(=補色)として表すことができる。
飲食店というものは一般には十ルクスで、それ以下でやろうとするものが風俗営業になるわけですね。三ルクス以下になると違反です。
ここに、「連続する2ドットのon-offの組み合わせで色が決まる」꒤꒦appleꖫꗩꆼꆦꖰꗩꗕꖣꗃꖯ겤잤궤ꊤ겤ꌍ
「ニガシオやめたのに飽きました、アッハッハ!」
2007-09-09[n年前へ]
■「ヒューリスティクス」と「焼き肉」と「ビール」
NTTがテレホンカードを導入した頃、20年くらい前、KORGのM1を抱えながら、武蔵野線に乗って初めて柏に行った。夏休みを迎える頃、「運河」近くで2,3日過ごしたような気がする。朝から晩まで技術工作をして、夜は運河へ蛍を見に行って、確か2,3日の時間を過ごしたような気がする。
70年前の「いかにして問題をとくか」を読んで、ようやく「ヒューリスティクス(発見的論法)」の意味がわかった気になりました。その時のいつかの早朝に、ゴミ捨て場でFtbというカメラを拾った。1年もしない内に、そのカメラは永眠したけれど、そのカメラには色んな影響を受けた。少なくとも、その後の20年くらいは、そのカメラに影響を受け続けた。
人はやがて いつかみんな 死んでしまうのですからそれから何年も経ってから、繰り返し柏近くへ行くようになった。その近くで、1月半ほど過ごしていたこともある。午前の5分間の休憩と、45分間の昼休みと、午後の7分間の休みを経て、いつも夜には中華料理屋でビールを飲んだ。
今年の初め、東京大学大学院 新領域創成科学研究科で話をしてきました。その夜は、基盤情報学専攻の某研究室の人たちと焼き肉屋で美味しいビールを飲んでいたわけですとても美味しかった焼き肉は、ふと思い返してみれば「牛鈴」だった気もする。 いや、違ったかもしれないけれど、茨城の県道沿いにある、焼き肉屋までテクテク歩いて行った気がする。…つまり、それをひとことで言うならば、つまりは「最高に美味しい焼き肉」だ。
ヒューリスティクス(発見的論法) AならばBであるとき、Bだった→Aは正しいらしい確実なことも、100%正しいことも、きっと世の中には存在しない。そんな世界で、ポリア教授が書くヒューリスティクス(発見的論法)は、とても新鮮に響く。
"How to Solve It" George Polya@1945
なにか心配事があってもだいじょうぶですよそれから、繰り返し柏に行くようになった。行く目的や、行く立場は変わっていったけれど、何度も何度も柏へ、あるいは、柏近くへ行くために柏を通り過ぎた。
「女性を感じさせないから(感じる前に終わるし)、体内を(女の子になるX精子が生き残りやすい)酸性のまま」にしておけるし、「ゴールから遙か遠くから、精子耐久レースを始めることができるから、酸性に弱い(男の子になる)Y精子を最後まで行かせない」ことができる…というような告白が「遺伝的アルゴリズム、遺伝的プログラミング、人工生命」というキーワードとともに語られたのです。「こんなものがあったらいいな」と思うことがある。けれど、そんな時「そんなものがあったらいいな」と思ってくれる人がいないことは多い。「そんなもの」が「どんなもの」なのかわかってくれる人はいないのが普通の当たり前だ。
だって、人には 限界があるのですから人にはできないことも あるのですからだから 一生懸命がんばったらあとは神様に おまかせすればいいのですそんな時、「そんなもの」が「どんなもの」なのかを実際に作り出すことになる。そのための長い時間が、一番楽しい時間だと私は思う。作り出した瞬間はほんの一瞬で、その峠を過ぎる一瞬が訪れたと同時に、その瞬間は過去の事象に変わる。だから、「そんなもの」が「どんなもの」なのかを作り出すための長い時間が、一番楽しい時間だと私は思う。
だって、人はやがて いつかみんな 死んでしまうのですから
2007-09-10[n年前へ]
■Railsと線路
「科学技術が世間に浸透するには20年かかる」と坂村健が言っていた。コンピュータもインターネットも、どんなものも人々の生活に広まるには20年かかる、と言っていた。
時代とともに弱者は変化していくため、ある時期に特定のグループに所属する人たちを弱者と認定しても、将来そうでなくなることがある。Ruby on Railsを触り始めて半年経った。「Railsって面白いですね」と言ったら、「そういえば一昨年くらいにRailsが流行りましたね」と言われたりもして、そんな言葉を背中の汗と共に聞きつつ、Railsを、楽しくいじってきた。
Rails をいじっていて、"Rest of us"として「良いな」と思ったのが、「簡単に遊べて、簡単に沼の深みに足を踏み出して行ける」という感じだった。もう少し言い換えると、「そこまでの筋道を全部ちゃんと作ってくれる」という感じだ。
たとえば、Rails で気楽にコードを書くと、JavaScriptまで本当に簡単に生成してくれる。JavaScript に対する苦手心に満ちあふれていた私にも、Rails はJavaScriptのコードを優しくちゃんと生成してくれる。
経済学はどのような人間の行動もありのままに受け入れてくれる。なぜなら、人間の行動に合理性があるということが経済学の考え方の基本にあるからだ。けれど、Rails のヘルパーやRJSが作ってくれるコードは、やりたいことには少しだけ足りない。やりたいことはできなかったりする。その「少しだけ足りないお手本のコード」に少しだけ付け足しをすると、やりたいことができるようになる。そして、少しだけJavaScriptへの苦手心とキライ心が減って、ヘルパーに頼る量が減っていく。
同じように、とても簡単に使うことができるActiveRecordは、SQLの世界へ近づく「少し足りない良いお手本」だ。
あの日描いた未来とは何か少し違ってるけどRails というレールは、Edgeな人たちだけでなくて、"Rest of us"な私たちにもいいのかも、とふと思う。最初の「レール」は敷いてもらった方が楽な私たちにこそ良いのかな、と思う。
思うに希望とは、もともと、あるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは、地上の道のようなものである。もともと、地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
2007-09-11[n年前へ]
■新陳代謝と海面を歩く
「ソースティン・ヴェブレンというアメリカの経済学者」を知ったのは、つい最近だ。ヘアカタログを題材にしたプログラムを書くために、グラント・マクラッケンが書いた「ヘア・カルチャー(もうひとつの女性文化論)」を読んでいるときに、そのソースティン・ヴェブレンという名前に出会った。
ブログと呼ばれる個人サイトでも、昔見たネタが少しの時間をおいて流行ることが多いように見えます。古くから眺めている人にとって見れば、飽き飽きしたネタが繰り返し流行ることがよくあります。この本の原題は、"Big Hair (A jouney into the transformation of self)"だ。
夕暮れ近くの海を自転車で巡る。潮が満ちてきて、防波堤が海に沈む。防波堤の上を歩いていく人がいる。防波堤はずっと波に洗われているから、その人はまるで波の上を歩いているように見える。その原題にも入っている"Big Hair"に関する章の中に、"代理消費"ヴェブレンがいた。黒柳徹子や横浜銀蠅や、ツッパリ・ハイスクール・ロックンロールたちの源流が解説される中で、ヴェブレンの姿を見かけた。
今まさに誰かが傷んでいるまだ飛べない雛たちみたいに僕はこの非力を嘆いているどんなミステリーも、どんな構造物も、すべては螺旋階段のようだ、とある時に聞いた。何度も同じような景色を、けれど少しづつ違うところから眺めていくものだ、と聞いた。
一年の周期で、技術雑誌が同じような特集記事を繰り返す。どの雑誌でも5月号は必ず「新人フレッシャーズのための」という特集を組み、それから少し時を経た2月号辺では、画像関係の特集を組む。「学研の科学と学習」が、毎年同じような特集を繰り返すのと同じだ。それは、ウンベルト・エーコが書いたバラの名前を輪講で読んでいる時だったか、レイモンド・カーバーを読んでいるときだったか、そんな教室で聞いた言葉だった気がする。
不思議だけれど、「海面を歩くこと」が当たり前のように見える場所もある。グルグル回る螺旋階段のように、技術雑誌は一年周期で、必ず同じような特集記事を繰り返す。それは、絵に描いたような「何度も同じような景色を、少しづつ違うところから眺める」というビューティフル・ドリーマーな景色だ。
「会社にはメカ・ソフト・電気の三人がいれば十分です」三人編成のバンドっていいな、と良く思う。見た目のバランスもいいし、音もなかなか飽きない。
雑誌の読者層は入れ替わっていきますから、毎年同じ特集を繰り返しても、「読者にはいつも新鮮な記事」になります。そう思わない古い読者は、いずれ読者ではなくなるのです。色んな人たちがいる。朝顔の蔓のように、DNAが形作る螺旋階段を時をおいて昇る色んな人がいる。
バーベキューをしている人もいるし、パラグライダーで空に浮いている人もいる。走っている人もいて、スケートで滑っている人もいる。 そして、海辺でゴルフをしている人もいる。海の水面を歩く人もいるし、月面を歩く人もいる。仕事が終わらなくて唸っている人もいる。
しかし、それを技術雑誌の特集記事のように新陳代謝に対応するためだと考えてみれば、少し面白いような気がします。
そう思わない古い読者は、いずれ読者ではなくなるのです。
2007-09-12[n年前へ]
■「理系」と「希望」
『理系ってどういう人かなぁ?』って聞いたらずっと海を眺めている人の荷物に目がいく。ビニール袋と紙袋をまとめ、その荷物の近くで海を眺めてる。紙袋の一番上にはくまのぬいぐるみが入ってる。
最終回の仮題は「希望」です。これまで「満足・価値・魅力・選択肢・感情・技術革新」といったことを聞いてきたつもりですが、その最後は、やはり「希望」です。希望という文字を見ると、いつも「希ガス…」という変な文末が目に浮かぶ。もう少し言い換えれば、いつも「希ガス…」という変な文末を連想するような「気がする」…。
ただ、どんな道にせよ、共通するのは、途中で必ず迷うということだ。迷うの語源を検索すると、迷う=真酔うだと書いてある。そして、「迷える者は、道を訊かない」という言葉を読む。
科学者たちは魂の力も電気や磁力とおんなじようなものであるという、まことしとやかなおとぎばなしをつくります。どんな道でも人は途中で必ず迷い、そして、迷える者は道を訊かないのだとしたら、道を聞こうとする人は道に迷っていない人で、地を聞かない人は迷っている人だということなのだろうか。それとも、単にその瞬間に迷っていない人だということなのだろうか。
大切なのは、わからないということへのタフネスを身につけることに精力を注ぐことだと私は思う。そんな論理を考えようとしても、わからないことばかりだ。迷える者は道を訊かないという論理と同じフレイズを繰り返すなら、わからない時には人は訊くことをしないのだろうか。
海辺には色んな人たちが住んでいる。松林の中に場所を作っている人もいるし、廃車を家にしている人もいる。この小さな町は、それでも人に優しい。雨をしのぐことができる「私有地でない場所」から人を排除することはない。人が日々を過ごす場所から、その人を移動させることもない。
どちらに進んで行けば良いのか、わからない時がきっとあるだろう。年が明けようとする頃、週末、一日二度見ていた人が亡くなった。何年も見つ続けた景色、何年もとり続けた景色、何年も「今日見た景色」として針続けた景色の中で人が亡くなった。
十五で世の中をわかっちまったようなヤツラから見れば 馬鹿げた話さ
それが、最良のキャリア教育であると、私は信じている。
2007-09-13[n年前へ]
■「理系」と「化けもの」
「それのどこが未踏なんですか?」という뿉떿쳤ꓤ죣좽꒬ꓞ꒹ꆣ人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。
宇宙は永久に怪異に満ちている。しかも、私は記憶力が悪い。だから、次に書く言葉も多分間違っている。そして、自分の都合の良いように、きっと書き換わっている。だから、きっと間違っていることが、次に続く。
あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。寺田寅彦の葬式で、誰かが「君はとても孤独な人だった」というようなことを言った。
化け物の出入りする世界は科学の世界である。今では、寺田寅彦が書いた随筆をたくさん簡単に読むことができる。青空文庫でも、それ以外の場所でも、たくさん読むことができる。
化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。けれど、寺田寅彦を書いた随筆を辿ることは、この瞬間の青空文庫からは、まだできない。
それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。そんな随筆を辿ると、寺田寅彦が書く科学の書物や芸術の書物の中に寺田寅彦が見ていた景色、人によってはそれを化け物と呼ぶだろう景色が浮かび上がってくる。そんなものを化け物と呼ぶ人もいるだろうし、人によってはそれを人生と呼ぶこともあるだろう。あるいは、人によっては、それが"世界"だと言うかもしれない。
あらゆる科学の書物は同時にまた芸術の世界でもある。「根っからの理系人間を自認する人には使えない言葉」でも「定量的に評価不能じゃないですか」と突っ込まれる表現でも、きっと社会や人生は根っからの理系世界でも定量的に評価可能な世界でもない世界にはそんな見方・現し方ことふさわしい。だから、
ぼくが恰好悪いと感じるだけで作る理由としては充分じゃないですか。だから、他の何の誰かの名前を借りた理由も頼るわけでなく「ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか」という言葉はシンプル、かつ、綺麗に響く。たぶん、これ以上綺麗なものはない。それを、他の何の誰かの名前を借りて表現しようとした途端、綺麗でなくなるように思う。
ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか。他の何の名前も借りず、他の何のルールも借りず、自分自身の言葉で書く「ぼくが恰好悪いと感じる」ということ、その正しさは、本当にシンプルで綺麗に響く。それを、社会が追いかけるかどうかは別にしても、その言葉は、本当にシンプルに綺麗に響く。
人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。そして、その人の中の真実でしかない「人の記憶・人の過去や経験」は自分の都合の良いように変わり、そして新たな未来が形作られて行く。
人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。人の未来は、人が作る。
2007-09-14[n年前へ]
■「モーレツ科学教室」と「MatLab」
「キーワード」を介して繋がっているものは多い。そんなものを眺めながら、「そういうものではなくて、こういうものを作りたいな」と思うイメージが、今もまだ満たされていない。
最近、越前屋俵太の「モーレツ科学教室」のDVDを出張帰りに新幹線の中で観ている。京都にいた頃、時折、日本海に行った。といっても、京都は日本海に面してるのだから、県の中を「ちょっとそこまで」移動した、という程度のことに過ぎない。その途中の辺りに、越前屋俵太が住んでいるという。越前屋俵太の「モーレツ科学教室」は本当に面白い。これを小さな頃に観ていたら、きっと科学が何の根拠もなく好きになっていたに違いない。
MathematicaのプログラムをMatlabに変換する作業とビールのテイスティングを深夜まで。MatLabの拡張コードの勉強をする。数年わからなかったことが、今日この瞬間にわかる。いや、わかったような気になる。きっと、本当はわかってない。
そして、数年前には簡単に理解したことを、きっと、今はもうわからなくなっている。私のMatLabのイメージは、「綺麗な未来の計画でなくて、汚い現実の机の上」という感じだ。「趣味」でなく「仕事」という感じだ。新しさや夢はないけれど、着実に仕事をこなす。そんな、感じだ。
MathematicaやMatlabと、Photoshopを繋ぐインターフェースがあればなぁ。そう思うなら、思った時に作れば良かったんだな、と思う。価値を感じるものに、時間を使ってみれば良かったのにな、と思う。だから、作らなきゃ、と思う。
そして、数年前には簡単に理解したことを、きっと、今はもうわからなくなっている。
2007-09-15[n年前へ]
■「線路」と「人生の方程式」
朝早くは晴れていたけれど、10時を過ぎる頃には雨と霧で包まれる。高原特有の、白い霧が風に早く運ばれていく。
√a = 18 旅路(ルート)の中では、人はいつも18(age)である。青春18切符をポケットに入れて、京都と東京の間を11時間かけてよく移動した。
河から海へ船が出て行く。後ろの港には船が帰っていく。風の流れがそのまま波を動かして、その波の上に立っている人たちがいる。風が吹くともっと潮の匂いが強くなる。安いPCでグリッド・システムを組むと、どうしても巨大なハードディスク領域ができあがる。そんな領域を有効活用しようと思うと、Gmailみたいなものになるのだろうか、と昔考えた。
この方程式で使われている"="は、いわゆる等号"=="ではなく、代入の"="かもしれません。"=="が"="に変化した途端に、「人生の方程式」が「人生の定義式」に変わる。自らは決め得ない未知数を条件に応じて解くという行為が、能動的に何かを決めていくということに変わる。
素直に言い換えれば、「旅路(Route)の中では、人は誰でも18(Age)になる」というコピー文そのままに変身します。さらに言い換えるなら、「すべての人を18歳の頃に戻す」ものが「旅路(Route)」なんだと、声高らかに宣言する力強い定義式なのかもしれません。荒木経惟が撮る青春18切符が好きだった。あるビルの回転ドアを出るとき、その回転ドアの対角線上には、ビルへ入っていく荒木経惟がいた。
自分や他人のつまらない考えに沿った「道(Route)」の上を走り続けるのも、なんだかつまらなく感じられることがあります。そんな時には、そんなルートを外して色んなものを眺めてみるのも、少しだけは、良いのかもしれません。"=="が"="に変化した時、 if 文で使われる「こんな場合には」という等号が、定義という意志と行動に変わる。
「決められたレール」は無いほうがいい。 1995年 「青春18切符」冬
2007-09-16[n年前へ]
■「因果関係」と「歴史」
「イラスト化」ソフトを作ろうとした時には、スケッチの勉強をしていた。
同じ景色を見ながらも、きっと、私と彼は全く別のことを考えている。こんなに綺麗に、空が空気が青く染められている場所に一緒にいるのに、全然分かり合えていないんだ。夏過ぎには、ヘアスタイル加工のプログラムを作るために、ヘアスタイルの歴史を勉強していた。そんな風に「○×の歴史」を勉強するようになったのは、「歴史」を知ると、現状の必然やそこに至るまでの因果関係が納得できるように思うからだ。
今まで見てきたように、空気の色すら多分他人と共有しえない。少し前から、油絵の歴史を勉強している。絵やビデオや本を見ながら、油絵やテンペラ画を勉強している。
「大きな古時計」の続編の歌が有名ではないけれどあって、おじいさんの住んでた家を訪ねてみたんだ…。There is hope for the smallthere's a change for us all油絵の歴史を辿っていると、どんなものの歴史も時間という一つの軸であらわせるものなのだな、とつくづく納得する。科学という名の錬金術が経済学に影響を与えるように、錬金術が絵画のありようを形づくっている。
二つの場所に立っているからこそ、その二本の足下を確かに感じることができるんじゃないかな。その時にある色材が、その時の絵の描き方を決め、その時にある文化が、その時に描かれるものを決める。
同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。私たちがいる時間と、私たちが眺める絵画が描かれた時が、時間軸の上で違っている以上は、その絵画が描かれた時代の空気とともにその絵画を眺めることはできない。
自分が生活している国とは別の国、自分が生活することができない場所そんな場所の音楽や文化を眺めることができるのは、切なくもあるけど、それでも、とても嬉しい。だから、せめて歴史を辿ってみる。そうすれば、少しだけ、その絵画が描かれた時代の空気を想像することができるかもしれない。それに、時代の流れは、螺旋階段のように、同じような場所の上をぐるぐる回っているかもしれない。
われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが。
2007-09-18[n年前へ]
2007-09-20[n年前へ]
■油と時間
電車の中で、ゴッホの油絵の断面がどうなっているかを想像する。
カムチャツカの若者がきりんの夢をみているとき
広重「名所江戸百景 大はし阿たけの夕立」から、三十年の時を経て、ゴッホが"Bridge in the Rain (after Hiroshige)"を 描く。その二枚の絵を同時に眺めることができる動画を作ってみた。
シミュレーション計算を作ったり、使ったりするには、確信犯的でなければダメだ。
実は色は“その色”の中に“別の色”を持っていて“他の色”と組み合わされて“また別の色”を見せているのだと思います。
三十年の時間の違いも、江戸とパリの遠い距離も、アニメーションGIFではほんの一秒ほどになる。
メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている
2007-09-21[n年前へ]
■「画像処理+Wiki」 → 「画像処理」 + 「Wiki」
Rails の勉強がてら作っていた 画像処理+Wiki アプリを手放し、次のアプリを作り始めた。"Our Axes"という名前のWiki アプリケーションと、画像処理に特化したアプリケーションだ。
いつも、「今日」という日を過ごしているはずなのに、その日見た景色が「今日見た景色」でなくなっていくのは少し不思議なことです。Wiki アプリを作ろうと考えると、自分の中で「Wikiという言葉で表される、作りたいもの」が、偏っていることに気づく。作りたいのは、「言葉に対して定義を書くことができて」「言葉同士が繋がっているもの」だ。
ふたたび日曜日が そうしてふたたび月曜日がふたたび曇り ふたたび晴れしてその先に何がある?そして、画像処理+Wiki アプリ で"言葉""キーワード"を"イメージ"にすり替えようとしたように、作りたいのは、「言葉でなく"イメージ"に対して、定義を書くことができて」「その"イメージ"同士が繋がっているもの」だ。
疲れたので、明日からピラミッドの中でエネルギーを充電してきます。言葉でなく"イメージ"というからには、人それぞれによって"イメージ"が違う。もちろん、本来、言葉だって人それぞれによって定義が違うけれど、いわゆるWikiの流れを組むツールではそれが明示的に見えないのが、好みでない。
とはいえ、「昨日見た景色」が「今日見た景色」と違うわけではないし、景色を眺めている私もやっぱり同じ私です。だから、やっぱりどれも「今日見た景色」だと思うのです。とはいえ、そんな"イメージ"だけがあったところで、作ってみないことには始まらない。というわけで、曖昧なイメージを形作り始める。
2007-09-22[n年前へ]
■選択肢と幸せ
「選択肢が多いほど、人は幸せになる」という言葉を聞きました。それは、「選択肢の多さは人を幸せにしない」という友野教授の言葉 とは正反対の言葉に聞こえます。
問題は、その不幸な出来事を、ちゃんと距離を持って突き放せるかどうか、だけです。
新明解国語辞典で「座右の銘」という言葉の意味を調べてみると、こんな風に書いてありました。常に自分を高めようと心がける人が、折に触れて思い出し、自分のはげまし・戒めとする言葉
相反する選択肢が増えたとしても、選ぶことができる選択肢は一つです。選択肢が増えるということは、「選べない選択肢」が増えてしまうということに思えます。
不幸との距離は、書いていくことで生まれることが多いです。それは、日記と似ています。眠れない夜、日記を書くことで、かろうじて今日起こった出来事を整理できるのです。
2007-09-23[n年前へ]
■「前へ」進む人類
早朝に起きて、コントローラを作り、アクションを数個書く。夕方、mongrelをさらに8プロセス投げる。
外へ外へと向かっていくそういうエネルギーがなかったら、mongrelを投げてから、route.rbを眺めると、そのroutingは"私の線路は私が描く"というように見える文字列になっている。
人類はいまだに洞窟の中で暮らしてたんだろうか。
2007-09-24[n年前へ]
2007-09-27[n年前へ]
■ジェスチャーゲーム
外国文化の学習用に、ジェスチャーゲームをやった。出題された「単語」を次の人にジェスチャーで伝える、という仮題のゲームだ。"DNA"とか"Acid"が出題された時は、頭がまっ白になった覚えがある。
「あまりに複雑なものは、言葉で説明する方が楽だ」しかし、驚いたのは、"DNA"を次の人に伝えた人がいたことだ。
「できるはずだ」ということと、動くものを示して「ほらどうだ」ということの間には、天と地ほどの差がある。
「喋れない言葉」は聞こえない「喋れる言葉」は「音が消えていても」聞こえるようになる「喋れない言葉」は聞こえない。そして、「喋れる言葉」は音が消えていても、ちゃんと聞こえる。これは、不思議なくらい本当だ。
急に寒くなった。もう冬がすぐそこにある。"DNA"を知っている人が相手なら、言葉でなくてジェスチャーでもきちんと"DNA"を思い浮かべさせることができる。DNAという言葉を喋れる人になら、その言葉の音が消えていても、ちゃんと伝えることができる。
今の仕事をきちんとこなしていく、それに尽きるなあ、なんて感じています。それがどんな地味な、力作業のような仕事であっても、です。だって今の私にできる、それがベストですもの。
2007-09-30[n年前へ]
■「線形予測の未来」
線形予測は、時にスゴイ予測をする。
2156年、女は男より速く走る。8秒079で。けれど、もっとスゴイのは、そんな線形予測グラフをPowerPointのスライドに貼り付けて、そんな線形予測の計画が立ち、その線形予測の未来を現実に作り出してしまう技術者たちがいることだ。