2008-02-01[n年前へ]
■AMスクリーンとFMスクリーンの只野仁
新聞のテレビ欄を拡大して見た。テレビ欄の番組紹介の写真や番組広告の写真を見た。 拡大してみたのは、特命係長・只野仁の番組紹介と広告と、モビットの広告だ。写真に写っている顔を拡大してみた。
特命係長・只野仁の番組紹介の記事写真に写っている高橋克典は、規則正しい周期的な画像が繰り返されるAMスクリーンになっている。けれど、モビットの桃井かおりは非周期的なドットが集まったFM系スクリーンで描かれている。…それならと思い、特命係長・只野仁の番組広告の写真を拡大してみると、番組紹介記事と違いFM系スクリーンで描かれている。
このAMスクリーンとFMスクリーンの只野仁の違いは、どこにあるのだろう。「広告」と「記事」の違いだろうか。新聞社内の記事に使われる写真はAMスクリーンで、広告写真はFM系スクリーンで印刷されるのだろうか。
2008-02-02[n年前へ]
■ビジュアル画像スクリプティング環境を作る
「ビジュアル簡易スクリプティング環境」を作ってみようと思う。画像処理プログラミングに「ビジュアル言語」が向くかどうかは疑問なのだけれど、既存の処理の「組み合わせ」だけを変えるだけですむような用途であれば、そして、GUIの設計も同時に行わなければいけないような用途であれば、「ビジュアルなスクリプト」でも良いような場合もあるかもしれない。
ひとまず、操作感はYahooPipesを模範にし、処理データはImagePipes>に準拠するようにして、叩き台を作ってみることにしよう。
2008-02-03[n年前へ]
■「降る雪」と「後幕シンクロ」と「写真」
「こんなに綺麗な景色なのに、なぜ写真には写らないんだろう」と思うことは多い。夜空に上る月を見て、大きく見える月にレンズを向け、シャッターボタンを押してみても、写真に写る月はとても小さい。…あるいは、雪が舞い降りる景色を撮影してみても、写真の中の雪は小さな埃にしか見えない。
印象に近い「降る雪」を写そうとする時、よく使われるテクニックが日中シンクロ(ストロボの強制発光)だ。小さく見えにくい雪にストロボの光をあて、ボケ気味に明るく大きく写すことで、雪を印象的に映し出す技法である。目の前を過ぎていく近くの雪だけを明るく映し出し、それ以外の背景に対してはストロボの効果がないために、結果的に雪が背景に対して浮かび上がる。
とはいえ、シャッターを切った瞬間にストロボが光る「先幕シンクロ」のカメラだったりすると、下へ降るはずの雪が、上に浮かび上がってように見えてしまう。そんな時は、シャッターが閉じる直前にストロボが光る「後幕シンクロ」にするか、ストロボが光る時以外は雪が写らないようなシャッタースピードや感度に調整しなければならない。
見た印象をそのまま写すカメラはあるのだろうか。もしも、そんなカメラがあったとしたら、そのカメラで撮影したものは「写真」なのだろうか。
2008-02-05[n年前へ]
2008-02-06[n年前へ]
■走る電車の車両から消える乗客の謎?
電車に乗ると、よく運転席を眺める。ガラスの向こうに見える運転席周りの表示計を覗く。面白いのが、「電車の一両に乗っている人の数」の表示計だ。グラフィカルに、そのとき「各車両に乗っている乗客数」が表示されている。
その「各車両に乗っている乗客数」は、車両重量で推定されているらしく、列車の運転中に少しづつ乗客数が変化したりする。駅と駅の間で、振動や加速度の影響のせいか、表示計上で2・3人の乗客が消えたりする。「走る電車の車両から消える乗客の謎」という言葉だけだと、まるで古典ミステリーのような現象で、何だか少し面白い。
2008-02-07[n年前へ]
■美しい「太陽電池」で色づいたPCバッグ
美しい「太陽電池」で色づいたバッグが、JUICE BAGSだ。ペットボトルを原料にして、(車についているのと同じシガーソケットから)6Wの電力を供給することができるソーラーパネル(太陽電池)で飾り付けら、太陽が出ていれば3時間ほどで、携帯用の電子機器を充電することができる。ビニールの部分などの耐久性は気にかかるけれど、実物を見た感じはとても綺麗だ。
「太陽が空に浮かぶ時間には、太陽電池で発電をしながら道を歩き、日暮れた頃からiPodに入れた音楽を聴く」なんていう「ザ!鉄腕!DASH!!」"ソーラーカー 一筆書きで日本一周"的生活も楽しいかも。
2008-02-08[n年前へ]
■石田純一「可能性が1%でもある限り、おれは全力を尽くす」
いつの頃からか、手帖にメモをするようになった。 目に付いたモノ、あとで読む本、感銘を受けた言葉…そんなものを、ボールペンで書き留めるようになった。本の中にある古典の言葉、目の前にいる人がふと口にした何気ない言葉、そんな、ノンジャンルな言葉を手帖に書き留めている。
その手帖の中にある言葉の一つが、こんな言葉だ。
可能性が1%でもある限り、おれは全力を尽くす。その全力を尽くす物事が「何であるか」はわからないけれど、この言葉を語ったのが石田純一なのだから、もしかしたら、それは(はたから見れば)クダラナイことなのかもしれない。けれど、だからこそ、この言葉は本当に素晴らしく素敵だと思う。
石田純一
「素人か玄人かは、其仕事に対する作者の打ち込み方の相違だ」というのは、志賀直哉の言葉だ。
素人か玄人かは、其仕事に対する作者の打ち込み方の相違だ。人が自分の好きなことに打ち込むとき、その「打ち込み方」で其仕事に対する重みが変わるのかもしれない、とも思う。石田純一と志賀直哉の言葉を、右と左の耳から聞いてみると、その二つが不思議に溶け合って聞こえる。対位法のように、一見逆方向に聞こえる旋律が、混じり合って妙に溶け合うのが絶妙に良い。
志賀直哉
2008-02-09[n年前へ]
■合成されたドコモ・コマーシャル「国境を越えて」
瑛太と蒼井優が、日本の駅やバス停のベンチで、オーストラリアの荒野を走る道の上から、あるいは、マレーシアの川を走る船に乗って、ケータイ越しに会話を続け、最後にパリの凱旋門前で運命的に出逢う、というストーリーのNTTドコモのコマーシャル「DoCoMo 2.0「国境を越えて」篇(ロングバージョン)」には、(ロケでなく)合成撮影も使われているという話が、鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」に書いてあった。CMのメイキングを見てみると、確かにニューヨーク・マンハッタンのビル屋上シーンなどで合成撮影をしていることがわかる。
ねぇ。…なのかな?
どうなんだろうね。
「最後にパリの凱旋門前で運命的に出逢うシーン」も合成撮影で作られていて、この出逢うシーンの撮影とケータイの会話の音録りが一番最初に行われており、瑛太と蒼井優が二人揃う共演はその初日が最初で最後だった、という。「最後に出逢う」シーンが、「最初に」合成撮影されていて、それが「最初で最後の一日」だった…ということを知ると、何だか少し面白い。
人に訊かれて、「たぶん」って答えた。
「たぶん」て何よ。
このコマーシャルを見ていると、その背後に「判断」とか「決定」とか「たぶん」とか、そして「運命」とか、…そんな言葉の流れが見えてくる。そんな言葉が地球の周りをグルグル電波に乗って回っている。コマーシャルは、社会を写している。
ねぇ運命って信じる?
たぶん。
また「たぶん」なんだ。
2008-02-10[n年前へ]
■ImagePipes準拠の”ビジュアル風”画像処理スクリプト
WireIt!を叩き台にして、ImagePipesフォーマットベースの”ビジュアル風”画像処理スクリプトの叩き台を描いてみる。Srcアップロードモジュール・逐次処理モジュール・遅延処理モジュール・表示モジュール…という基本形を描く。
2008-02-11[n年前へ]
■「ギャラリーフェイク」と「コピー」
美術の歴史を知ると面白く感じる。そして、ミステリー=謎解きも好きだ、と感じる人がきっと好きになるマンガが「ギャラリーフェイク」だ。時には、「カルマン渦」や経済学者でもあったマンデルブローの"株価変動予測"フラクタルを考える「連立不当方程式」といった理系心をくすぐる話も詰まっている(13巻目第2話)、そんなマンガだ。
「フェイク」つまり、「偽造した絵画」を題材にしたマンガ「ギャラリーフェイク」を読むとき、いつも思い出すのが「コピーの時代」という美術展だ。『現代の私たちの日常生活には多種多様な「コピー」が満ち溢れています』という言葉で幕が開く美術展を見たとき、感じたのは「コピー」が持つ劣化性だ。そして、「コピー」が持つ「進化能力」言い換えれば「可能性」だ。
時に、自分が何かの「コピー」になってしまいそうに感じる瞬間がある。影響を受けたものをただなぞるだけ、になってしまいそうになる。しかも、幸か不幸か「テキストをなぞるのが不得手」なせいか、劣化コピーになってしまうことが多い。
…これは困ったものだと感じながら、そんな時は、小器用なコピーでは、無限縮小コピーになってしまいそうだから、「とても質の悪いコピー」は「一種の進化だ」と眺めなおそう、と思ったりもする。小器用な縮小コピーを続けていたら、原始生物も人類も生まれなかったかもしれないし。
2008-02-12[n年前へ]
■変わりモノ「センスウチワ」と「ハリセンス」
手で持つ部分がない団扇(うちわ)は団扇(うちわ)と呼ぶのだろうか、それとも、扇子(せんす)と呼んだ方がいいのだろうか…?と思わず悩んでしまうような、変わりモノ「センスウチワ」売り文句は「柄の部分がないので持ち運びやすく」けれど「送風量は1.5倍」というもの。ネーミングは「ハートくん」「ハートちゃん」という、いわゆるひとつのメーカ的センスだ。
そして「ハリセンス」はハリセン(張扇)にも、普通の扇子(せんす)にもなる「一粒で二度美味しい王様のアイデア的な面白センス」だ。野球場で打者がホームランを打った瞬間に打ち鳴らしてもよいし、暑い熱気を冷ますのにも似合いそうだ。
2008-02-13[n年前へ]
■若狭 小浜の海 に行く
米大統領選の民主党候補選で知名度を上げたオバマ上院議員と似てる名前、NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台、そんなこんなで「小浜」の名前をよく聞く。
学生時代、よく小浜へ行った。京都市は太平洋からも日本海からも、そのどちらにも同じくらいの距離に位置している。南の海も北の海も同じくらいの距離にあるけれど、太平洋を見に大阪湾を眺めに行くよりも、日本海をの波を見に若狭湾へ行く方がいい。だから、京都から海を見に若狭湾へ行く人は多かった、と思う。
京都から比叡山の麓、大原を抜け、若狭街道を車で3時間も走れば、小浜に着く。京都の北部の山中を走る若狭街道を、ただ走るだけで小浜に着く。 この小浜と京都を結ぶ若狭街道は、「鯖街道」とも呼ばれる。かつて若狭湾から京都へと鯖を運んだ道を鯖街道と呼び、若狭街道はそんな鯖街道の一つだ。 だから、京都から小浜へ行くまでの間には、時折、昔ながらの町並みが姿を現す。
若狭小浜は、海沿いに道があって、その道沿いに家が並んでいて、それが繋がり集まり小さな町になっている、そんな海に面した小さな町だ。曲がりくねった道の隣にはいつも海が見え、その海の先にはいつも走る道の先が見える。そんなよくある日本の海沿いの町だ。
冬から春先にかけての若狭湾の海は、とても澄んでいて綺麗な青碧色をしている。暖かい夏になるともう少し濁った色になる。いつかまた小浜の町に行ってみよう。
2008-02-14[n年前へ]
■波が日本列島をノックする
「京都市は太平洋からも日本海からも、そのどちらにも同じくらいの距離に位置している」ことを知ったのは、学生時代に、地球物理関連のデータ計測に関する話を聞いている時だった。京都地殻の地面の奥底に設置された計測器のデータ解析をしようとするとき、太平洋と日本海の波によるノイズがそのデータ中に重なってくる、というような話を聞いた。
一年を通じて15℃ほどで湿度が高い坑道の中で、紙に印字された測定データを眺めていても、遠く離れた太平洋と日本海の波が日本列島を叩き続けているようすは想像できなかった。けれど、きっと測定データには「海の波が日本列島をノックし続ける」ようすが映し出されていたのだろう。
2008-02-16[n年前へ]
■「鯖街道」と「地獄八景亡者戯」
NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」で、涙なくしては見ることができない「地獄八景亡者戯」が演じられている。何週間かかけて、何人もの登場人物たちが、それぞれの人生に重ねた「地獄八景亡者戯」を演じる。その幾重にも重なる人生の姿に涙する人は多いと思う。
冥途を旅する……という話のルーツは随分古いものがありましょうが、これを滑稽なしゃれのめした物語にしたのは、(室町の狂言にもありますが)やはり江戸時代からでしょう。
「地獄八景亡者戯」は、鯖にあたって死んだ「喜ぃさん」の話で始まる。若狭の海から京都・大阪へと鯖を運んだ街道が鯖街道・若狭街道だということを思い返せば、何だか「地獄八景亡者戯」はとてもその鯖街道と似合ってる。
もともとこの話は、その時その時の事件や世相流行などをとり入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。五世笑福亭松鶴師のは、私が聞いたのは戦後でしたが、昭和初期の赤い灯青い灯の道頓堀、カフェー全盛時代や、活弁の真似なんかがはいっていました。
このはなしの一応の原典と見てよいものは江戸時代の小咄本にありますが、各地の民話にもあり、また欧州の民話にもあるそうで、木下順二氏の「陽気な地獄破り」はこのヨーロッパの民話を基にされています。本当の原典は従ってよく判らないというのが答えと言えましょう。
小浜の町から若い(わかい)主人公 若狭(わかさ)が関西の街へ出て、年を重ねつつ色んなものを見る。そんな話と「鯖街道」と「地獄八景亡者戯」は、とても自然に重なっている。
その内に、これを十八番の持ちネタとして新しい「地獄八景」を作ってくれる人が出てくることでしょう。これは滅ぼしたくない話です。
2008-02-17[n年前へ]
■「にくい」という言葉
大野晋の「日本語の年輪」(新潮文庫)を読んでいた時だったと思う、「にくい」という言葉が生まれた源・その言葉が抱えるものについて書かれていた一節に付箋紙を貼った。そして、昔の日本で使われていた本来の意味と現在とでは、その意味合いも変わってきているという一節も興味深く読んだ。個人主義が輸入された現在の日本では、昔ながらの「にくい」という言葉はないのかもしれない、という一節も面白く読んだ。何より、本来の意味を読んだ。
色んなものを抱えている人がいる。とても綺麗に澄んだものも、濁って先が見えないようなもの、ありとあらゆる抱えきれないものを、それでも抱え走る人がいる。あの人の本当に身近にいる人は、それをどう見ているのだろうか。そして、あの人はそれをどう感じているのだろうか。
なんだ、あれが僕たちの探している青い鳥なんだ。 僕たちは、ずいぶん遠くまで探しに行ったけど、本当はいつもここにいたんだ。
「青い鳥」 M.メーテルリンク
2008-02-18[n年前へ]
■新しいThinkpad にも対応した加速度センサ値取得プログラム
(新しいThinkpadにも対応したバージョンが「Thinkpad加速度センサ取得用C++クラスの手直しをしました」にあります)
新しいThinkpad(T61,X61など)にも対応(しているはず)の「加速度センサ値取得プログラム」を作成しました。少し前に、Thinkpad T60pで加速度センサ値が取得できない(意訳)」とメールが来たことをきっかけに調べてみたところ「 X61 Tablet で加速度センサを使ったアプリが動かない件」というような情報がありました。そこで、ShockMgrデバイスを直接開くのでなく、Sensor.dll中の"ShockproofGetAccelerometerData"を使うようにAccelerometerのC++クラスを書き換えました(C++ クラス ソース)。
使い方はこれまでと同じように
Accelerometer anAccelerometer;という具合になります。コマンドラインから傾斜(加速度)を取得するためのサンプルプログラムおよびソースも付けておきます。サンプルプログラムの使い方は、200msごとに100回計測を行う場合には、下記のようになります。 AccelerometerCommand.exe 200 100
anAccelerometer.GetAccelerometerData();
std::cout << pAccelerometer.X << ", ";
std::cout << pAccelerometer.Y << "\n";
これまで作った三次元画像表示プログラムなどは、順次新しいバージョンに作り直し・入れ替えなおしていこうかと思います。
2008-02-19[n年前へ]
2008-02-20[n年前へ]
■Wiiリモコンの加速度センサで姿勢検知
PC+加速度センサを使ったアプリケーションを作ろうとする場合、12インチでSXGA+程度の高解像度ディスプレイを備えたTabletPCを念頭に置いて作ることが多い。手に持つことができて、低解像度のデバイスでなく、姿勢検知センサを積んでいる…つまり、Lenovo(旧IBM) Thinkpad のX60Tか、ToshibaのPortegeという機種である。とはいえ、もちろん、その他のPCでも色々と位置・姿勢検知をして、それに応じた各種処理をして遊んでみたくなったりもする。
そこで、Wiiのリモコンを手に入れた(ありがたいことにハイヨとくれた人がいた)。加速度センサや赤外線センサを積んだWiiリモコン、つまりは、センサの塊であるWiiリモコンを使えば色んなことができる。…というわけで、下に貼り付けたのは、WiinRemote.exeによるWiiリモコンのセンサ取得例である。
こういったWiiリモコンを使った姿勢取得例のように、Wiiリモコンのセンサ取得APIを使うこともできる(もちろんThinkpadの加速度センサなどを使うことも出来る)汎用の加速度・姿勢検知用のクラスを作っておくことにしてみた。これで、Lenovo や Toshiba以外のPCでも使うことができるアプリケーションを汎用的に作る・使うことができるだろう。また、Thinkpadのような2軸加速度センサ搭載機よりも1軸多い3軸加速度(姿勢)を使うことで、色んな計算が楽になるかもしれない。
2008-02-21[n年前へ]
■Wiiリモコン接続のための四苦八苦
Thinkpad T60p付属のBluetoothインターフェース(を操作するドライバソフト)では、Wiiリモコンと接続することができなかった。Bluetooth接続の際のセキュリティをどう変えてみても、接続時にPINコードを要求されてしまったからである。ドライバを入れ替えれば良いのかもしれないが、内臓ハードのドライバはあまりいじりたくない。
そこで、USB-Bluetoothインタフェースを購入してみた。しかし、こちらの製品でも、セキュリティレベルに関わらず接続時にPINコードを要求されてしまう。そこで、今度はこの製品用のドライバを入れ替えてみたところ、ついにPINコード無しでも接続できるようになった。そういった紆余曲折があって、ようやく昨日の「Wiiリモコンの加速度センサで姿勢検知」に辿りついたのだった。
Thinkpad 内臓BluetoothインターフェースでWiiリモコンを使うことができない人がいたら、「少なくともUSB接続BluetoothアダプタBT-MicroEDR2を買って、最新ドライバを入れ直せば」Wiiリモコンを使うことができる可能性が高い、と思います。
2008-02-22[n年前へ]
■「圧力センサ」アクセサリを買う
「圧力センサ」アクセサリを、ひとつ買った。直径2cmほどの半球に液体と粒子が封入されていて、半球断面に圧力をかけるとその圧力に応じて色が変わる、というアクセサリである。深い青色や、碧がかったマゼンタや…いくつかのタイプがあったけれど、そのどれもとても綺麗なアクセサリに見えた。
小さな半球状のアクセサリを、手首にあてて眺めていると、ドクンドクンと自分の脈拍が色づきとても綺麗な模様に見える。血管中の血液の圧力が、「圧力センサ」アクセサリの平面部分を変形させ、そして、アクセサリの色味を変える。そして、その光りかたを変える。
アクセサリの製造過程での材料ブレ・組み立て精度ブレなどもとても大きいことだろう。したがって、おそらく、アクセサリの固体ごとに「見え方」はずいぶんと違っているはずだ。そして、脈拍の出方だってずいぶんと人によって異なっていると思う。
だから、このアクセサリで眺める人の脈拍は、どれ一つとして同じ色はないに違いない。色の変わり方も、みんなそれぞれ違うだろうと思う。人それぞれ違う色を、人それぞれ違う脈拍を、そんなものを眺めることができそうで、直径2cmほどの「圧力センサ」アクセサリを、ひとつ買った。
2008-02-23[n年前へ]
■「波天奈(はてな)の茶碗」と「ギャラリーフェイク」
NHKの朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」が、あと一月で終わる。その一月の間に、「はてなの茶碗」が演目に上がるようだ。「はてな」という言葉、「?」という記号から連想するものといえば、その「連想物」の一番目は、地域性・場所柄・生き生きとした人の姿、そういったものが、とても鮮やかに浮かび上がる「波天奈(はてな)の茶碗」であると思う。そうであるといい、と思う。
わいも茶金さん知ってんねん。
茶金さんがひねくりまわしてる、値打もんに違いないぞ…
芸術品の真贋を題材にしたマンガ、「ギャラリーフェイク」の中に「波天奈(はてな)の茶碗」という回がある。ギャラリーフェイクの「ニセモノ骨董品の茶碗」を題材にしたこの回「波天奈(はてな)の茶碗」は、こんな言葉・伝言で終わる。「ギャラリーフェイク」の中にあるいくつかの言葉の中でも、この言葉は、いつも心に刻み直さなければと思う一節の一つだ。
美を知るものは孤独なり。
徒党を組めば、やがて馴れ合い腐りゆくまで。
今の日本人はもう少し、胸のうちに己だけの美を
持つべきじゃないですか。
地蔵さんへの伝言さ。フジタからのな。
2008-02-24[n年前へ]
■「おいピータン!!」と「ワンダフルライフ?」
「のだめカンタービレ」が大ヒットしたKISSだけれど、この雑誌から(現在連載されているものの中から)好きなものを選べと言われたら、「のだめカンタービレ」もとても面白いけれど、きっと伊藤理佐の「おいピータン!!」とケイケイ「ワンダフルライフ?」を選ぶだろう。
前者はビックリマークが2つもついていて、後者はライフは本当にワンダフルなの「?」とハテナマークがついている。そんな感嘆詞が付けられたどちらのマンガも、そのどちらも数ページの小さなマンガに過ぎないけれど、小品には小品の良さがある。そしてその「小品」という言葉は、もしかしたら「絶品」と言い換えてもいいかもしれない。そんな二つのマンガが「おいピータン!!」と「ワンダフルライフ?」だ。
どちらのマンガにも、そのベースには「苦さ」が溢れてる。もちろん、その苦さにはそれぞれの違いがあって、「ワンダフルライフ?」の苦さは「しょっぱさ・辛さ」というものに近いし、「おいピータン!!」の苦さは「切ない甘みと、それに必ず付随する限りなく切ない痛味」が混じり合っている。つまり、どちらも、シンプルな言葉では言い表せない「味」がするマンガである。
「おいピータン!!」を書いている伊藤理佐が、吉田戦車と結婚していたことを最近知った。あぁ、そうなのか、大森さんが見せる横顔のひとつは吉田戦車だったのか。
2008-02-25[n年前へ]
■「ゴールデン/デッド・クロス」と「ナンシー版画」
株とか為替の売買のタイミングの指標である「ゴールデン・クロス」「デッド・クロス」というものを知った時に、対象ジャンルがどんなに違っていても、(専門的でない)基本的な技術はほとんど同じなのだな、と感じたのが「ナンシー版画アルゴリズム」を作った時後に、株や為替売買の指標となる「ゴールデン/デッド・クロス」を知った時だ。
ゴールデン・クロスとデッド・クロスというのは、何かの価値の「短期的な平均」が「長期的な平均」よりも上になったら(ゴールデン・クロス)、その価値が「上昇中」と判断し、その価値の「短期的な平均」が「長期的な平均」より下になったら(デッド・クロス)、その価値は「下降中」だと判断するやり方である。たとえば、何かの株価の「25日間の平均値」が「75日間の平均値」を上回ったら、その変化はなにかのノイズや誤差でなく「株価が確かに上昇傾向にある」ことを示していると判断し、その株価の「25日間の平均値」が「75日間の平均値」を下回ったら、株価が確かに下がり始めていると判断する、そういったやり方である。言い換えれば、「25日間の平均値」と「75日間の平均値」、すなわち、「短期的な平均」と「長期的な平均」が交差した瞬間が、「上げ」と「下げ」の境界地点だと判断するやり方である。そういった株や為替の上下の境界線を長期平均と短期平均の差分から判断する方法が、「ゴールデン・クロス/デッド・クロス」だ。
「ナンシー"小"関 風 パッチもん版画」作成ソフトの輪郭抽出アルゴリズムも、「ゴールデン・クロス/デッド・クロス」と完全に同じアルゴリズム(やり方)で作られている。実際のところ、このプログラムは10行に満たないほどの実にシンプルな「境界」検知プログラムに過ぎない。そして、その実現アルゴリズムは「狭い範囲で平均化した明るさ」が「広い範囲で平均化した明るさ」が等しくなる=交差する箇所がモノの「境界」だと判断するだけ、である。つまり、「ガウシアン差分」を行うことで顔や景色の境界線を描画した上で、さらに塗りつぶしを行うだけのアプリケーションが「ナンシー"小"関 風 パッチもん版画」作成ソフトである。
株や為替の売買の判断も、目に見えている画像の認識・判断も完全に同一のアルゴリズムで判断することができたりする。それは、対象とする現象(のジャンル)は違えども、どちらも「境界線」「分水嶺」判断をするという同じ作業に過ぎないのだから、至極当たり前の話であるのかもしれない。…けれど、それはやはり少し面白い話であると思う。全然違うように思える事柄が、完全に同一の処理で解決することができたり、一つの道具で全く違う(ように見える)世界を描くことができたりするのは面白いと思う。
2008-02-27[n年前へ]
■「1bit変調」と「誤差拡散法」
「ゴールデン/デッド・クロス」と「ナンシー版画」と同じように、一見違う分野の技術に見えても、実は全く同じ仕組みで動いている技術のペア(対)はたくさんある。そんな技術ペアの一つが「ΔΣ変調」と「誤差拡散法」である。ΔΣ変調の方は「1bit変調」といったキャッチフレーズとともに、オーディオ機器のAD(アナログ→デジタル)・DA(デジタル→アナログ)変換において使われることが多く、誤差拡散法はアナログ画像をデジタルの離散階調(多くの場合1bit=2値)で表現する場合によく使われる技術である。どちらも、結局のところ、離散的に表現した結果の誤差を、「将来」にフィードバック(ズレの帳尻合わせ)をするだけである。そうすれば、ちゃんと帳尻が合う、という技術である。
それは、変な例えかもしれないが、一日1200kcalのカロリー制限をしているのに、今日は「天丼詰め合わせの一杯(たとえば、1800kcal)」食べてしまったから、明日は絶食しよう、(そして、それとは逆に)必要カロリーがもしも足りなければ、次の日は天丼一杯食べよう…そういうことを続けていれば長期的には「必要カロリーと摂取カロリーの帳尻」はきちんと合うよね、というような仕組みだ。つまりは、「ただそれだけ」の仕組みである。
と書きながら、「ただそれだけ」の単純なやり方だからこそ、色々な分野に応用が利くのかもしれない、と考えた。きっと、基本的なことは色んな応用ができる、ということなのだろう。たぶん、そういうことなのだろう。
2008-02-28[n年前へ]
■風呂場の話題、ふたつ
久しぶりに、近くの銭湯に行く。一時間くらい浴槽に漬かっていると、浴場に響くエコーに乗って二つの話題が繰り返されていた。
繰り返されていた話題の一つは、イージス艦と漁船の衝突事故の話題だった。浴場に来ている人の半分近くが、漁船に何十年も乗っている人たちだった。だから、暗礁ばかりの湾を「大きな船」とすれ違う時の話、そんな時にどちらが避けることが多いのか、といった日常の話題がされていた。あるいは、遭難者を探すときの、東西南北というだけでなく「下へ、上へ、そして、下へ」といった潮の流れの話、やはりこれも悲しいことに日常の話がされていた。実経験に基づいた、聞いていて重みのある井戸端話を聞いていた。
そして、もう一つの話題はロス疑惑リバイバルの話だった。この話題では、熱い湯に漬かりつつ刺青と金のネックレスと共に聞くと、「向こうとこっちの拘置所の待遇の違いなど」やはり妙にリアルに響く。そんな井戸端会議を何だか面白く聞いていた。
2008-02-29[n年前へ]
■なんで関西弁の「松本くん」だけが特別なんだろう?
京都で過ごしていた頃、時折不思議に感じたのが「なんで松本くんだけが特別なんだろう?」ということだった。中本くんも、川本くんも、どんな「×本くん」もみんなアクセントはフラットであるか、あるいは、前の「中」や「川」にアクセントがついているように聞こえた。どの「×本くん」も、FlatかFalling なイントネーションであるように感じた。つまり、中川や「中」や「川」が強く、あるいはその音だけが高く、その後に続く「本」はそこにただ添えられるだけの音のように聞こえたように思う。
「松本くん、途中まで乗っけていくわ」
ウルフル・ケイスケ
けれど、なぜだか「松本くん」だけは違うように聞こえ、それがいつも不思議だった。関西弁の「松本くん」の「本(もと)」はとても強く・大きく、「松」という音の方はむしろ聞こえないくらい小さな音として耳元を通り過ぎるように聞こえた。「松本くん」をネイティブ風に言いたかったら「もとくん」と言った方がそれらしい、というくらいである。本当に、関西弁の「松本くん」だけが、特別なアクセントを持つ名前に聞こえたのだった。
『松本くんの曲もういいわ』って俺を捨てない限りは、俺はウルフルズで好きなことを最大限にやりたい。
トータス松本
さらに、色々聞いてみたわかったことが「松本くん」と「松本さん」のイントネーション・アクセントが違う、ということだった。「松本くん」のアクセントは「本」にあるけれど、「松本さん」のアクセントはフラットで、あえていうならアクセントは「さん」にある。(他の地域でもきっとあることのように)関西弁では、呼び手と呼ばれ手の関係で「くん」や「さん」という敬称が変わり、そしてそれだけでなく、名前自体のアクセント・イントネーションすら変わる。そんなルールが関西弁にはある。敬称だけでなく名前のアクセントすら変わる感覚が、確かにある。
そんな耳に染み付くアクセントやルール、そんなものを思い浮かべながら色んな言葉を聞くと良い、と思う。
「(ジョン・B・チョッパーからもサンコンJrからも)
僕は松本くんなんですよ」
トータス松本