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2009-01-01[n年前へ]

「行く年」と「動的言語」と「来る年」と 

 12月31日から1月1日に日付が変わる頃、脈絡もなく、「人生」は「動的に色々なものが定まっていくプログラム」と似ているのかもしれない、とふと考えました。

 そのどちらも、実行前に何かが定まってしまうのではなく、その時その瞬間にさまざまなことが決まっていくように思います。そんな一行一行が積み重なり動いていくさまを、なぜか連想したのです。

 Rubyスクリプトを実行できる形に変換することができるRubyScript2Exeというものがあります。このRubyスクリプトは、他の(実行形式に変えたい)Rubyスクリプトを一行一行実行しながら逐次必要ファイル情報などを集めていき、さらにRubyインタプリタも内包させた上で、最終的に実行形式に変換する、というものです。

 こういった動作でアプリケーションが作られるということは、実行形式に変換する際のプログラムの動き次第で、最終的に作成される実行形式ファイルが違ったものになる、ということです。たとえば、こんなRubyスクリプトを作ってみます。

i=2008+rand(2)
if i>2008
  puts 'in case of '+i.to_s
  sleep 3
  require 'win32GuiTest'
  gui=Win32GuiTest.new
  # (中略)
else
  puts 'in case of '+i.to_s
  sleep 3
end
 RubyScript2Exeは、Rubyスクリプトを実行しながら、必要なものを逐次集めていきますから、実行形式作成時に1行目のiが2009になったとしたら、win32GuiTest.rb ライブラリが読み込まれることになります。しかし、もしも、iに2008なったとしたらwin32GuiTest.rbは読み込まれません。

 つまり、実行形式を作成する際に、"i=2008+rand(2)"でiがどうのような値になったかで、win32GuiTest.rb ライブラリの読み込みの有無が異なる2種類の実行形式ファイルができあがるのです。試しに、実行形式作成時のiの値が異なっていたことによる、(RubyScript2Exe.rbで作成した)異なる2種類の実行形式ファイル(2008.exe, 2009.exe)を置いてみました。

 さて、実行形式ファイル作成時に、"i=2008+rand(2)"が2008になり、win32GuiTest.rb ライブラリが読み込まれていない実行形式ファイルが2008.exeです。この実行形式ファイル2008.exeを(たとえば実際にあなたが)実行するときには、"i=2008+rand(2)"は2008になるかもしれませんが、2009になることだって1/2の確率であるわけです。

 もしも、2008.exeを実行する時にiが2009になったとしたら、必要なライブラリが読み込まれていないので、未定義のクラスや関数が登場することになり例外が発生することになります。

 さて、実行形式ファイル作成時に"i=2008+rand(2)"が2009であった2009.exeの場合には、実行時にiが2008になっても2009でも動作します。2009.exeは、"i=2008+rand(2)"が2009になった場合には「ペイント」プログラムを立ち上げて、「初日の出もどき」を描きます。"i=2008+rand(2)"が2008だったら特に何もしません。

 「行く年」や「来る年」を見て、その「行く年」「来る年」の中を歩いていくたくさんの人たちをみて、なぜか「動的言語」を連想しました。これが、2009年の一番最初に作ったプログラムです。

OSX Development






2009-01-02[n年前へ]

「箱根駅伝」と「ダイナミックベースド制御」 

 正月の箱根駅伝で選手たちが下り坂を駆け下りていく姿を見ていると、「受動歩行」を連想します。人体(や動物)を模した機構を坂道に置くと、坂道の傾斜や、その機構の各部分の重さや関節のバランスで、自然に歩いたり、走り出したりします。

 基本的には「骨」と「関節」だけの機構を持つ物体ですから、何か力を使うことで足や体を動かし、歩いたり・走ったりするわけではありません。ただ、体のバランスで、体の動きが自然にそんな風に収斂していくわけです。

 力を使うのは、その定常的にな「歩き・走り」の状態から何か変化をさせたいとき、たとえば速度を上げたいとき屋下げたいとき、あるいはバランスを崩す何かの外乱があったときにだけ、ということになります。

 東京の日本橋から箱根の芦ノ湖まで、そして芦ノ湖から日本橋まで走る駅伝の選手たちは、どんな風に自分の体を動かしているのでしょう。選手たちの人体機構のバランスはどのようになっていて、その人体機構がどんな自然な動きを実現して、そして、その自然な動きからさらなる速さを求めて選手たちはいかにして力を絞り出し使っているのだろうか、と想像を巡らせくなります。選手たちが走るさまに目を奪われます。


2009-01-03[n年前へ]

色フィルターを通して色画像を見てみる 

 最近、赤外線でラクガキした画や、印刷された画集を見てました。波長が長く、目に見えない光で世界を眺めてみました。そこで、今日は、目に見える可視光の範囲、「赤い光」で印刷物を眺めたらどう見えるのかを試してみました。

 赤い光だけで眺めてみると、白い部分と赤い部分を区別することができない・・・ということがわかります。それは、当たり前といえば当たり前の現象です。けれど、「赤い色フィルター」を通した途端に赤い部分が消滅してしまうさまを見ていると、何だか不思議な手品を見ているような気分になるものです。


2009-01-04[n年前へ]

釣り用(偏光)サングラスを美術館に持って行く!? 

 光が物体を照らすとき、その表面(空気と物体の間)で反射する光は(反射面に平行な偏光方向である)S偏光の割合がとても高い。たとえば、太陽の光が水面を斜めに照らす時、水面で反射する光のほとんどはS偏光である。だから、日に照らされて輝く海面を目の前にした時でも、偏光サングラスをかければ、海の中を泳ぎ回る魚や海草をとても綺麗に見ることができる。

 下の動画は紙面上に見える反射光を、偏光フィルタを通して眺めると、偏光フィルタの方向によっては「反射光が消えて画像が色鮮やかに見える」さまを確認してみたものだ。



 たまに、ガラスに覆われた名画を目の前にしたとき、「あぁ、偏光サングラスを持ってくれば良かった」と思うことがある。絵画を覆うガラス面に写り込んだ照明を邪魔に感じるとき、邪魔な反射光を偏光フィルタで取り除きたくなる。しかし、そう思いつつも、いつもサングラスを持参することを忘れてしまう。

 もしも、釣り用(偏光)サングラスをかけて美術館に行って、ガラスに包まれた名画を見たらどんな風に見えるだろうか。ガラス表面で反射する邪魔な光を消すことができるだろうか。あるいは、それとともに画家のマチエールも見えなくなってしまうのだろうか。

2009-01-05[n年前へ]

「hirax.netのRSS」と「Apple Safariを使ってみる」 

 現在、hirax.net のテキスト類は、"inside out" "Tech-logs""Logos""Dekirukana?"という具合で、いくつかに分類されていますが、それらのコンテンツ(Contents)に関する更新内容は, すべてRSS(http://www.hirax.net/rss)から取得することができます。たとえば、Apple Safariで RSS を表示してみたのが下の動画です。タイトルだけ眺めたり、冒頭の文辺りを短めに眺めたり、あるいは全文を読んだり・・・といったことをしてみた動画です。

 Apple SafariでRSSを直接眺める場合には、動画やスクリプトなどによる表示内容を見ることができなかったり、あるいは、画像のレイアウトなどが汚くなってしまったりもするわけです。それでも「流し見」する程度には使えるのだろうかと思ったりもしますし、動画や画像のレイアウトが自然でなければ、「流し見」はできないかもしれない、と感じたりもします。

 時折、RSSと同じように、"Logos""Tech-logs"はなくし、"inside out"で全て表示してしまおうかと考えます。けれど、そう考えるたび、「何かやってみる」ものと「ブックマーク・メモ」的なものが一緒になってしまうのも良くないような気がして、現状のままにしてしまうのです。道具としての書きやすさ、道具としての読みやすさを考えると、どのようにしたらいいのだろうか、といつも悩みます。


2009-01-06[n年前へ]

「モノを作る」「モノを必要な場所に運ぶ」 

 「なるほど。資本主義とは確かにそういうものなのだな」と思わされたのは、岩井克人の「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」という言葉だった。

 井上ひさしが、闇米とアメリカ煙草の仲買で儲けていた母親を批難したところ、こう言い返されたという。

 紀伊国屋文左衛門をみてごらん、三井や三菱をみてごらん。みんな、モノやカネを動かして儲けた連中じゃないか。モノをつくるより、モノを動かす方が儲かるという世の中の仕組みに文句を言いなさい。
 この言葉も、「なるほど、確かにそうだったのかもしれない」と感じさせられる言葉だ。地方の農家も闇米で潤ったかもしれないが、それ以上に煙草を欲しがる田舎の名士と、米を必要とする都会の人々の間で流通業を行う方が大きな利益を得ることができたのかもしれない。

 こういった資本主義を表現した「ひとこと」を集めて、読んでみたいと思う。そして、そこから現れてくるものを眺めてみたい、とも思う。

2009-01-07[n年前へ]

Mathematica 7で「ミニチュア模型風写真」 

 少し高いところからアオリを付けて写真を撮り、「ミニチュア模型風にした写真」に惹かれる人は多いようだ。撮影手法自体は昔からあるけれど、広告写真などでよく使われるようになったり、画像加工アプリケーションを使うことで特殊なカメラを使わなくてもともそういった写真画像を作ることが簡単にできるようになったために、流行り続けているようだ。

 今日、数式処理プログラムのMathematica 7が出荷され始めた。Mathematica 7のデモンストレーション・アプリケーションの中にも、Digital Tilt-Shift Photographyという「ミニチュア模型風写真」アプリがある。「こんなことは簡単にできる」という題材としては、使いやすい例題なのだろう。

 Mathematica 7のデモンストレーション・アプリケーションが並ぶ「Wolfram Demonstrations Project」は、面白く眺めることができる」ものも多い。色々な分野のデモをクリックして楽しみ、その後、「自分ならこんな道具でこう作る」という一種のパズルを解き続けてみると、とても頭と手の練習になるに違いない。

2009-01-08[n年前へ]

人は「分類」や「単純化」を好むのだろうか? 

 ふと、「分類する」ということについて考えた。さまざまなものを、私たちは分類して整理したつもりになって安心してみたりする。あるいは、上手く整理することができなくて悩んでみたり、人ごとに分類の仕方が違って議論になったりする。

 本当の理科人間は理屈を言い争うディベートを好みません。どんな結論にも理屈はつけられるので、このようなコトバによる議論が、意味ある結論に導くとは思わないからです。

 今、hirax.netはRuby on Railsを使い作ったシステム上で動いている。そして、記事には、手動であるいは自動でタグが付けられている。そして、個別のタグが付けられた記事は、たとえば、hirax.net::Keywords::「才能」のブログ「才能」のブログという具合で、そのタグ付けされた記事だけを読むことができる(1,2)。とりあえずは、「分類」ということは諦めてタグ(キーワード)を付けることだけにしてしまっている。いや、もう少し正確に言えば、「分類」「分ける」ということははなからできない、と思っている。色々な見方があって、どんな見方をする人が多くて、自分の見方がどう偏っているかなかなかわからない以上は、「分類」「分ける」ということをしてみてもしょうがない、と感じてしまうことが多い。

 しかし、分けることはできなくとも、「近いもの」を見つけることはできるだろうは思う。近視眼的に、それぞれの色々な見方で「近いもの」を見る・見つけることができて、そんな近いものを想像してみたり・繋げてみたりすることは比較的簡単にできるだろう。頭の中で思い浮かべてみたり、あるいは、システム上で「距離」を計算してみたりすることだ。

 「分類」「分ける」ということは不可能なことのくせに、そのくせ、やたらに人を惹きつけるものであるように見える。それは、やはり、人が単純化したものを好むからなのだろうか。・・・と思うこと自体が、単純化・カテゴライズになっているのかもしれない。

ラクガキ






2009-01-09[n年前へ]

経済に関する時系列データを眺めてみる 

 Mathematica は数式処理向けアプリケーションというよりも、数式処理も得意な「プログラミング言語」です。最近のバージョンでは各種データ取得関数が豊富ですから、さまざまなデータを眺めた後に解析する、といったことが簡単にできます。

 不景気なニュースばかりが続きます。そんな今が、一体どんな時代なのかを眺めてみたくて、今日は経済統計データをMathematicaで(まずは)眺めてみることにしました。

 右のグラフは、1930年頃から現在までのダウ平均株価(工業株30種平均株価)です。工業株と名付けられてはいますが、30種の採用銘柄を見ればわかるように、平均株価を算出する30の会社は、社会の動きを反映するような広い業種から選ばれています。

 80年近くにわたる「ダウ平均株価の変化」を眺めていると、「データ解析」「要因解析」などをしたい、と感じる人が多いのではないでしょうか。何だか20年ほどの上昇と20年ほどの下降(停滞)を繰り返しているように見えてきたり、短周期の上下動があるように思えてきたりします。そこで、そういったものが本当にあるのか・理由は何なのか、ということを知りたくなる、つまり、長期的なトレンド(傾向)、周期的な変化、それらをもたらす要因・・・そんなことを調べ・知りたくなる人も決して少なくないだろう、と思うのです。

 さて、次に眺める右のグラフは、(人口で正規化した)日本の国内総生産(GDP)です。1970年から現在までのデータですが、大雑把にはダウ平均株価と同じ動きになっています。また、1990年半ばから現在までは、上下動はあるものの、停滞し続けているように見えてきます。

 こうした統計データをグラフにし眺めていると、世界全体や各国の「景気」の変化というものについて、もっと詳しく知りたくなります。たとえば、景気の動きが持つ周期性、景気循環というものについて知りたくなったり、そういったものを生み出すに至った世界史というものを、もっと知りたくなります。各時代に、世界各国で、どんな生活や文化が生まれ、どんな産業が生まれ・どんな業種が衰退していったのか、ということを学びたくなるのです。

 以前、経済学者に経済学を教えてもらいにいった時にも、経済学が生まれる少し前から現在までの歴史を知りたくなり、世界・歴史年表を自分なりに作ってみたりしました。それは、どんな経済事象も、あるいは、経済学者たちの研究もすべて(その)時代背景に応じていた、と教えられたからです。

 物理学者の寺田寅彦は、「科学と文学」の中でこう書きました。

 歴史は繰り返す。方則は不変である。それゆえに過去の記録はまた将来の予言となる。
寺田寅彦 寺田寅彦随筆集 (第4巻)
20世紀の歴史、あるいは遙か昔からの歴史を学び直し、過去の記録を通して未来の世界を覗き眺めてみたくなります。未来に向かって世界がどのように動いてゆくのか、それを知るために、過去を紐解き知りたくなります。

 今日は、図書館に行ってみることにしましょうか。過去の歴史や物語が収められている図書館は、未来への予言が詰まってる場所なのでしょうから。

DJIGDPPerCapitaJapan






2009-01-10[n年前へ]

「アメリカの高校生が学ぶ経済学」で学ぶ 

 「経済」に関する本を手当たり次第読んでみた。基礎を一番わかりやすく納得することができて、しかも、基礎原理を理解するだけでなく、実際にその原理にもとづいて身の回りのことについて応用して考えることができるように感じたのが、「アメリカの高校生が学ぶ経済学 原理から実践へ」だった。アメリカの高校で使われている教科書の抄訳だというこの本はとても、わかりやすく実践的だ。こういう本を高校の時期に読んでおきたかった、こういうことは早い時期から学んでおきたかった、とつくづく思う。

 我が国は、高校生に重要な経済問題を理解する基本的スキルを教えなければならない。…高校卒業までに経済学の充実した教育を受けなければ、ほとんどの成人は、経済の機能や富の創造過程における自らの役割を学ぶ機会がまったく与えられなかったことになる。

本書冒頭に掲げられている W.B.ウォルスタッドの言葉

 この教科書では、「経済の基本概念」「ミクロ経済学」「マクロ経済学:制度」「マクロ経済学:政策」「国際経済学」という流れに沿って、経済学を学んでいく。授業のテキストだから、各所各所に課題がはさまれている。それは、とても具体的で実践的な問いかけばかりだ。たとえば、「今日の放課後のどう過ごすか考え、その過ごし方をしたことで得られるもの、それ以外の過ごし方をしていたら得られていただろうこと」を考えなさい、というようなものだ。

 そんな、何かの選択をするときに得られるものや失うもの、あるいは、それ以外の選択をしたら得られていたはずのこと(機会費用)を考えた後に、「将来への投資」の項目では、教育レベルと男女別の平均年収の表が載っていて、それを眺めることになったりもする。
 そして、「ミクロ経済学」の「需要の弾力性の推定」の項では、「購入延期が可能か」「適当な代替物はあるか」「購入には所得の多くの部分が必要か」という3つの条件を大学教育に当てはめると、大学教育の「需要の弾力性」はどうなるだろうか?ということを、高校生たちは問いかけられ考えなければいけない。
 また、身の回りのモノの価格や雇用について調べる、というような課題を通して、身の回りの社会現象を実際に眺めに行ったりもする。

 こんな授業を高校の時期に受けておきたかった。高校時代は遙かの昔になってしまったけれど、遅ればせながらでも、「アメリカの高校生が学ぶ経済学 原理から実践へ」を読めたことは良かったと思う。

 資源は稀少である。時間も稀少である。なすべきことが山のようにあるのに、どれから取りかかればよいのかわからないことがある。いろいろな選択肢から、何かを選び出さなければならない。…ところで、どれを選択すべきなのだろうか。信じられないかもしれないが、経済学を学ぶとトレード・オフや意志決定に関する「思考法」が身につき、優れた意志決定を行う素地が育まれる。

第一章「経済学とは何か」目次 から

2009-01-11[n年前へ]

カメラ付きケータイで赤外の世界を見る 

久々に「できるかな?」を書きました。題して、「カメラ付きケータイで赤外線の世界を見てみよう!?」です。銀塩カメラで赤外線写真を撮っていた頃と違って、カメラ画像を見ながら撮影できるケータイ(のカメラ)なら、露出不足・過剰になったりという失敗をすることもなく、とても簡単に赤外線写真を撮ることができます。しかも、静止画だけでなく赤外線で見た動画を撮ることも簡単です。

 という具合で、カメラ付きケータイのカメラを赤外線カメラに改造し、撮影したりするのはとても簡単なのですけれど、こういうこともありますから・・・夏の海辺で赤外線カメラ付きケータイを持ち歩くのは止めておいた方が良いでしょうね。

赤外線写真






2009-01-12[n年前へ]

オービスと同じ目で「車のナンバー」を眺めてみよう 

  「プリンタで偽造したナンバープレート」と「速度取り締まり機の撮影波長」「プリンタで偽造したナンバープレート」と「速度取り締まり機の撮影波長」 実験編 Part.1で、で、「赤外光をほとんど吸収しない通常のカラーインクで偽造したナンバープレートが、一体どのように速度取り締まり機(オービス)に写るか」ということについて考えたり、「濃い緑色の文字色でないと、偽造プレートは赤外線で見れば”のっぺらぼう”に見えてしまうかもしれない」といった簡単な実験をしてみました。

 今日は、赤外線カメラ付きケータイに改造したケータイで、車のナンバーを実際に撮影してみました。つまり、オービスと同じ目で「車のナンバー」を眺めてみたのです。その結果が、上の2枚の画像です。左が白地に濃い緑字のナンバープレートで、右が黄色時に濃い緑字の軽自動車のナンバープレートです。人が眺めた時には全然違うように見えるナンバープレートも、同じように鮮明に見えることがわかります。

 赤外線カメラ付きケータイを持ち歩き、いつか”プリンタやコピー機で偽造した”偽造ナンバープレートを付けた車を見かけたら、すかさずシャッターボタンを押してみようと思っています。オービスと同じ目で眺めたら、一体どんな風に見えるのでしょう?

軽自動車のナンバー普通自動車のナンバー






2009-01-13[n年前へ]

赤外線の目で交通標識を見てみよう 

 ”赤外線カメラ付きケータイ”を持ち、町中を歩き回りました。そして、赤外線の目で世界を眺めてみたのです。人の目に映る可視光の世界と、人には見えない赤外線の世界を比べると、何だか違う生物にでもなって景色を眺めているような気分になります。

 下に貼り付けた動画は、「可視光で見た交通標識」と「赤外線で見た交通標識」です。赤外線で見ると、交通標識はノッペラボーです。交通標識を、(900nm程度の)赤外線しか見えない動物が眺めたら、こんな風に見えるわけですね。




2009-01-14[n年前へ]

「東大安田講堂事件」と「劇作家」 

 1968年に起きた「東大安田講堂事件」を読んで、ふと鴻上尚史の「ヘルメットをかぶった君に会いたい」 を連想した。答えがない問いを前にして、その問いを振り払うことができない感じというか、トイレに行ったはずなのに残尿感が強く残り続けている夢の中のような、そんな面持ちになった。

 そして、さらに、井上ひさしが「死ぬのがこわくなくなる薬―エッセイ集〈8〉 (中公文庫)」に書いたこんな文章を思い起こした。

 "わたしには"<現在という時間・空間に、どのような形で住み込むのが、もっともよいのか>という切ない想いが彼の魂の底で暴れ狂っているようにおもわれます。さまざまな時・空間を並べて繋げて結び合わせ、作家自身がその時・空間を生きながら、現在という時・空間にどう住み込むのがよいかを、野田さんは必死に探し求めているようです。

井上ひさし 「野田秀樹の三大技法

 もしかしたら、野田秀樹に限らずとも、ほとんどの作家が作るものは、そんなものが多いのではないだろうか。少なくとも、鴻上尚史が書く戯曲はまさにそのようなものだ。世界を映し出す舞台、そんな世界の中でどう生きるか、どう立ち続けるか、そんなことをずっと書き続けているように思う。・・・そういうものを書く劇作者は、たぶん、とても多い。

 どうも作者というものは、自分のために薬を調合する人種のようである。

井上ひさし 「死ぬのがこわくなくなる薬

2009-01-15[n年前へ]

Simulinkで経済循環モデルを作ってみる 

 高校生気分になって、「アメリカの高校生が学ぶ経済学 原理から実践へ」を読み直しています。読んだ時には、でわかったつもりになったのですけれど、教科書に書いてあることを自分でやってみようと思うと、これが実に難しいもののです。・・・つまり、ひとことで言ってしまえば、全然わかっていないわけです。

 たとえば、ごく単純そうに見える、第4章「マクロ経済学:政策」を読み、経済活動の循環モデル、生産・支出モデルの説明を読んで、その応用を自分でしてみようと思ってみても、それがなかなかできないのです。・・・そこで、モデルベースのシミュレーションを行うためのツール、 Simulinkを使い、実際にモデル計算をすることで、項目ひとつひとつを納得しながら、読んでみることにしました。

 というわけで、まずは第4章「マクロ経済学:政策」の経済活動の循環モデル、生産・支出モデルの説明から、「経済活動循環・生産・支出モデル」を単純化した上で、Simulinkのモデルを作り、そしてシミュレーション計算してみました。それが右上のSimulinkモデルと、国民総生産の計算結果のグラフです。知っている人にとっては当たり前なのでしょうけれど、まだまだ難しくてよくわかりません・・・。

Simulink経済モデル






2009-01-16[n年前へ]

「オートバイ小説」と「ハッカー小説」 

 妄想半分に、「ハッカー小説」は「オートバイ小説」と似ているのかもしれない、と思うことがあります。「クルマ小説」でなく、あくまで、「オートバイ小説」です。バイク乗りたちは、どのバイクに乗るか・好きかと、とてもこだわりますが、そんな「オートバイ小説」に「ハッカー小説」に似ている、と思うのです。

 斎藤美奈子は「文学的商品学」の中で、オートバイが主題の小説は、文学的商品学

  • 男主人公がバイクを通じ成長する「ザ・男の成長譚」
  • 女主人公が二輪免許と引き替えに男を捨てる「ザ・女の自立譚」
の2つにまとまる、と書いています。そして、オートバイを「単なる道具」ではなく「人格を持ったもの」であるかのように描写し、さらに主人公がバイクに乗った瞬間には「人車一体」に同化してしまう。というのです。

 少し面白いのが、タイヤが2つ増えた「四輪」小説だと、四輪車=車は単なる「人格を持ったもの」でなく、「(男性にとっての)女性のメタファ」になってしまう、と斎藤美奈子は言うのです。たとえば、こんな具合に。

正直なところ、ぼくはあのお転婆なイタリア娘、アルファ・ロメオとのつきあいで、くたびれ果てていたのである。

五木寛之 「雨の日には車をみがいて
しかし、四輪小説と違って、バイク小説の場合には、オートバイは「人格を持ったもの」として描かれ「人車一体」になることはあっても、「(男性にとっての)女性のメタファ」にまではなっていない、というのは実に興味深いところです。

 コンピュータ管理者の仕事に就いた天文学者が、コンピュータへの侵入者を追いかけていく「ハッカー小説」である「カッコウはコンピュータに卵を産む」を読んでいると、ハッカーたちは実に「コンピュータ」にこだわります。その結果、コンピュータは単なる道具でなく「人格をもったもの」に見えてきたり、さらには、人格どころか「神格」をもった神・宗教に見えてきたりするのです。

 コンピュータ侵入者は"ps -eafg"と入力した。
デイヴはにやりと笑った。
 「バークレーUNIXには、これ(プロセスを表示する"ps"コマンドにfフラグ)はない。fはAT&T/UNIXで個々のプロセスのファイルを表示するコマンドだ。バークレーUNIXはこれを自動的にやってのけるから、fフラグは必要ない」
「コンピュータ侵入者はバークレーUNIXを知らない。旧世代のUNIX信者だ」
「異教徒だ」

 デイヴはコマンド中のただ1文字をもって西海岸の全コンピュータ人口を無罪放免にした。
 どうでしょうか?ここで描かれるコンピュータOSは、単なる道具でなく、まさに神格を持つなにものかに見えてきます。そして、ハッカーたちは、それぞれのバイクならぬコンピュータの中に一体化していくのです。ね?「ハッカー小説」は「オートバイ小説」と似ている、と思いませんか?

 さらにバイク小説との比較を続け考えてみていくと、男性ハッカーがコンピュータを通じ成長する「ザ・男の成長譚」も実際すでにたくさんありそう(書かれていそう)です。ただ、女主人公がハッカー免許と引き替えに男を捨てる「ザ・女の自立譚」がすでに書かれているのか?それを果たして女性が魅力的に感じるかどうか?ということに、頭を捻り・悩んでいるのです。

2009-01-17[n年前へ]

15秒起動・作業開始できる"SSD搭載B5サイズ"の MacOS Xマシン 

 「ThinkPad X60 で SSD の換装をしてみた」という記事で「OSの起動が速くなった!」と書いてありました。SSD(ソリッド・ステート・ドライブ)を使えばOSの起動が速くなるなら、元々比較的起動が速いMacOS XをSSDにインストールして動かしてみたらどうなるか?を知りたくなりました。そこで、SSD上でMacOS Xを使っている動画(下に貼り付けてあるものです)を元に、その起動時間を調べてみると、(起動方法の選択時間などを除けば)およそ15秒ほどで起動し、アプリケーションを立ち上げ使い始めることができるようです。

 それにしても、こういった「高速に起動し、小さいけれど、(使いやすいキーボードとポインティングデバイスを持ち)広い画面を持つノートPC」を見ていると、思わず欲しくなります。こんな道具を使うことができれば、思ったことをすぐに形にできるかもしれないと感じたりします。やはり、毎日少しづつ未来へ進んでいることを実感させられますね。




2009-01-18[n年前へ]

続:Simulinkで経済循環モデルを作ってみる 

 「Simulinkで経済循環モデルを作ってみる」の続きで、マクロ経済学の経済循環モデルを教科書を読みながら、同時にSimulinkでそのモデルを作り確認しつつ、自習しているのですが、「わかった気になるのと、わかるのは大違い」ということだけは実感できます。教科書に書いてあることを、自分できちんとなぞることがなかなかできません。

 今日は、前回作ったSimulinkモデルを単純化し、乗数理論の項を読みながら、さらに「消費を国民所得と限界消費性向を使った関数に変えてみた」のです。ついでに、「(景気の)外乱」まで付け加えてみました。

 というわけで、モデルを組んだ後に、シミュレーション計算をしてみたわけですが、何だか「教科書を読んだときの予想とは異なる結果」になってしまいます。「消費」が増減すると、その増減を「貯蓄」の項が吸収してしまうため、何だか「乗数効果」というのが体感できないのです…。

 やはり、教科書に書いてあることを、きちんと理解することができていないようです。「部分部分」はわかったつもりになれても(わかったように勘違いできても)、実際に組んでみようと思うと、自分が全くわかっていないことが本当によくわかります。




経済循環モデルのお勉強






2009-01-19[n年前へ]

続々:Simulinkで経済循環モデルを作ってみる 

 「Simulinkで経済循環モデルを作ってみる」「続:Simulinkで経済循環モデルを作ってみる」というように、教科書を読みながらマクロ経済学のイロハを学ぼうとしています。

 というわけで、まずは「スティグリッツ入門経済学 <第3版><第3版>」を読み、これが文庫本だったら持ち歩くのに・・・と思ったり、「早わかり経済学入門―経済学のイロハから最新理論まで、一気にわかる。」を読み、変な例えでの説明が出てこないせいか、個別の項目に関してはとてもわかりやすいなぁ、と感じたりしました。

 とはいえ、まだまだ自分できちんと教科書に書いてある経済循環モデルを「教科書通りに動く」ようににすることができません。数え切れないくらい色々な点について勘違いしている感じです。今日はとりあえず、下の図のようなモデルを作ってみたのですが、やはり自分で眺めてみても教科書とは違う変な感じになってしまいました。・・・自習で学ぼうとすると、実に難しいものですね。




まだ理解できない経済モデル経済制御無し経済P制御






2009-01-20[n年前へ]

2009年はリサイクルショップが増える?かも 

 2009年はリサイクルショップが増えるかもしれない、とふと考えた。2002年頃にも、リサイクルショップがとても多くあったような気がするけれど、その後の数年はあまり見かけなくなってしまった。

 そんなことを思いながら、ブックオフの株価変化を眺めてみると、やはり中古リサイクル事業が盛んになるのではないだろうか、と思えてくる。・・・その想像が当たったとしたら、やはり消費は冷え込む、ということなのだろう。


 新しいモノの販売は落ち込み、新しいもので「売れるモノ」は「現状を変える何モノか」ということになるのかもしれない。

2009-01-21[n年前へ]

コロンビアは麻薬用作物からの所得をGDPに算入している 

 「スティグリッツ入門経済学 <第3版>」を読んで、意外かつ納得したのが、こんな一節だ。

 不法な経済活動はGDPに算出されない。(中略)しかし不法な経済活動が主要な所得源泉となっている国についてはそうではないだろう。この場合には、そうした所得をGDPの一部として計算しないとなると、その経済を誤って理解することになるかもしれない。
(中略)
 コロンビア政府は、不法な麻薬作物から得られた所得をGDPに算入するように計算方法を変えた。GDPの計算において麻薬用作物を合法的な作物と同じように取り扱うと、コロンビアのGDPは1%程度増加することになる。
アメリカの高校生が学ぶ経済学 原理から実践へ」がとてもわかりやすかったのと同じように、この本も実に「全体を通した流れ」を納得しやすい。ぜひ、いつでも持ち歩くことができるような文庫本で出して欲しい。

2009-01-22[n年前へ]

電車のシートのヒーターの反射光 

 電車の座席の下に、水面の下に見えるような光の波が見えた。座席の下を覗いて見ると、座席下のヒーターを覆う金属板で反射した光が、床に当たって揺らぐ光を作り出しているようだ。

 一見、金属板は平らに見えるけれども、反射光の向きが色々な方向に揺らいでいるところを見ると、凹凸があることがわかる。平らに見えるのに反射光が模様を作り出しているそのさまは、まるで何かの魔鏡のようだ。

電車の座席下電車の座席下






2009-01-23[n年前へ]

「肌色いろいろ」なEbon-Aide 

 さまざまな「肌色」を持つ色々な人がいるから、色々な色を持つ絆創膏 がある。黒い色から明るい褐色まで何種類かの色がある。それぞれの色だけで買うこともできるけれど、さまざまな色が詰まっているバラエティーパックを買のも、カラフルで楽しそうだ。

 ペンテル社のクレヨンから「肌色」という名前が消えて「ペールオレンジ」という色名に変わったのは、何年前だったろうか。十人十色ならぬ、二十四人二十四色、よりどりみどりな「24色肌色クレヨン」や「肌色えんぴつ」「肌色えのぐ」を買って、あるいは、「肌色画用紙」を買って、色んな人や景色を描いてみると、何かふと気づいたりすることがあるかもしれない。

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2009-01-24[n年前へ]

斎藤美奈子の「本の本」 

 本の本―書評集1994-2007  人はパンのみにて生きるにあらず、というけれど「生きることを支えるパン以外のもの」の一つが本だと思う。本を読んでいくことで感じること・得られることはとても多い。

 本を読むことで得られるものはとても多いけれど、その一方、本自体の数もとても多い。だから、本屋や図書館でどの本手に取ろうか・・・と思い悩んでしまう。そんな時、誰かの書評があると、あまり悩まずにその本を手に取り読むことになる。

 そういえば、私は斎藤美奈子の書評を頼りにして、そしてその書評を念頭に置きながら本を読むことが多い。

 本を読む行為は基本的に孤独です。しかし、そこに一篇の書評が加わると、世界は何倍にも膨らみます。同じ本を読んだはずなのに、あまりの受け取り方の違いに驚いたり、その本の新しい価値を発見したり、ときには書評のおかげではじめて意味がわかったり。
(中略)
 もしこういってよければ、書評は「読書を立体的にする」のです。

斎藤美奈子 「本の本」
 自分とは違う感覚で、自分よりも圧倒的に多い読書量にもとづいた書評は、自分の読書とは異なる見方を教えてくれる。確かに、書評は読書を立体的に眺めることを可能にしてくれる。

 上に引用した文章は、斎藤美奈子の「本の本―書評集1994-2007」の最後に書かれた節だ。この本は単行本サイズなのに6cmの厚さを持っている。そして、厚さに比例したたくさんの本への書評が書かれている。それは、まるで、たくさんの本が詰まっていて、親切丁寧で、だけどサイズは小さな魅力的な図書館のようだ

2009-01-25[n年前へ]

可視光吸収・赤外線透過フィルターの入手法 

 「カメラ付きケータイで赤外線の世界を見てみよう!?」では、カメラ付きケータイを赤外線カメラに改造してみました。この改造に必要な「可視光吸収・赤外線透過フィルター」は、大きなカメラ屋さんか、あるいは、アマゾンなどでカンタンに買うことができます。たとえば、「IR 76 7.5X1 光吸収・赤外線透過フィルター(IR) 」「IR 86 7.5X1 光吸収・赤外線透過フィルター(IR) 」「IR 96 7.5X1 光吸収・赤外線透過フィルター(IR)」といったものをアマゾンで買い、携帯電話のカメラの前に貼り付けてみれば、草木輝く赤外線写真の世界を簡単に楽しむことができます。IR xxといった型式番号の数字はxx0nm以下の光を透過させず、それより波長が長い光を通過させる、という意味です。ですから、たとえば、IR 96なら、960nmより波長が長い光だけを眺めることができるわけです。

 このフィルタの大きさは7.5cm×7.5cm程度ですから、可視光とは全く異なる世界をケータイの液晶画面で楽しんでみたい人は、このフィルタを1cm×1cm程度に切り、ケータイのカメラレンズ前に貼って楽しんでみると良いかもしれません。

2009-01-26[n年前へ]

シミュレーションで学ぶ自動制御技術入門 

 制御工学の教科書はたくさんあって、しかもその一冊一冊が結構視点・書き方が違う。分類がすこしづつ違っていたり、言葉の定義が少しづつ違っていたり、10人の制御工学者がいれば、11種の制御工学があるのではないだろうか、と思ってしまうほどである。

 「シミュレーションで学ぶ自動制御技術入門―PID制御/ディジタル制御技術を基礎から学ぶ (計測・制御シリーズ)」は(特に)各種PID制御を付属CDに入っている「制御システム体験ソフト」を使い納得することができる書籍である。(最近出版されている)制御工学に関する本は根こそぎ読んでいると思うが、一番最初に、制御工学を「体感する」ために買うには本書はとても良い本だと思う。

 ところで、景気の落ち込みが激しい中で、景気対策として報道される内容を理解しようと思ったら、経済学と制御工学の基本を知っておくと良いような気がする。少なくとも「システム」の数的な動きというものに惹かれる人たちであれば、それでいて経済学と制御工学に触れたことがない人であれば、経済学と制御工学の本を手に取ってみることは、新鮮な経験だ思う。色んなことがどのように動き、それらを安定化させるためにどのような制御が行われているか、その制御は果たして実効性があるか、そんなことを知るには経済学と制御工学をかじっておくと面白いはずだ。

 そうすれば、ニュースを、これまでとは違う視点で眺めることになるのではないか、と思う。ただし、不確かなことが多いこの世界では、歯切れ悪く単純明快ではないような感想をいつも持つようになってしまうかもしれないという、両刃の剣なのだけれども。

2009-01-27[n年前へ]

「ゆでガエル現象」への警鐘 

 世界は変化に満ちている。けれど、一日一日を過ごしている中では、その変化に気づくことができなかったりする。

 「ゆでガエル現象」というのは、カエルがいきなり熱湯の中に入れられたら驚いて逃げ出すが、毎日少しづつ暖かくなっていくお湯の中にいたら、カエルは何も気づかないままに茹であがってしまう、という寓話である。中桐有道の「「ゆでガエル現象」への警鐘―あなたは大丈夫ですか?」は、そんなことへの警鐘と対策をまとめた本だ。

 この本は「ゆでガエル」現象を具体的に説明し、それがどのような背景から出てくるか、またその現象を食い止めるにはどうすればよいかを提案したものである。

 一番最初に「ゆでガエル」現象の話を聞いたのは、ある年配のエンジニア・研究者からだった。もっと、あの先生に聞いておきたかった。

 家庭の主婦の方も、仕事を持っている方も、若い方も年配の方も、独身、既婚に関係なく読んでもらいたいと思っている。

 テレビを見ると"Change"という言葉をよく聞く。けれど、その"change"のタイミングを捉えること、そして、"change"することは決して簡単なことではないだろう。

 "Change"に気づき、さらに、自ら"Change"するにはどうしたら良いかを考えることができるのが、中桐有道の「「ゆでガエル現象」への警鐘―あなたは大丈夫ですか?」だ。

2009-01-28[n年前へ]

中谷巌「入門マクロ経済学 第三版」 

 「入門 経済学」といった本の読みあさったので、次はもう少し詳しい本を読んでみることにした。そこで、選んだ一冊目が、中谷巌 「入門マクロ経済学 第三版」だ。「少し詳しい」と言っても、やはり選んだのは「入門本」なのである。

 今出ている第五版のことはわからないが、この本(第三版)を読んで一番良いなと思ったのが、数式にも、図にも数値が入っていることが多い、ということだ。「練習問題があって、離れた頁に数字が入っている」というわけでなく、教科書の文章中に数式と数字を同時に見ることができ、あるいは、お金の循環を示す図にも数字が入っていて、その収支をイメージだけでなく、数字で納得することができる。

 わかっているか、それとも、わかっていないかが、数字の収支を眺めてみると、あるいは違う例を頭の中で考えてみると、自動的にわかる。だから、納得することができる。

 歴史上、バブルは何回もありました。イギリスで起こった南海泡沫事件、米国における192o年代の株式ブームなど、回顧すると「なぜ?」と思われるような異様な事件が繰り返し発生しているのです。南海泡沫事件にはあの偉大な物理学者ニュートンさえ、南海会社に手をだして、多大の損失を蒙ったということですから、・・・・

中谷巌 「入門マクロ経済学

 この本を読みながら、同時に同氏 中谷巌氏の著書を紹介する「なぜ私は変節したか?、市場原理主義の急先鋒だった中谷巌氏」という記事を読む。

2009-01-29[n年前へ]

「数字で語る」と「プロフェッショナル」 

 中谷巌 「入門マクロ経済学 第三版」を読んでいるとき、「内容を理解・使うことができるようになっているか、それとも、そうでないかが、数字の収支を眺めてみると、あるいは違う例を用いて頭の中で考えてみると、自動的に明らかになってしまう。

 だから、この本をとても本当の意味で「なんて理解しやすいんだろう」と感じたとき、ふと「今井功の「当然!」「○」「?」」を思い出した。

「わからないこと」を無理してわかろうとしない方が良いんだ「わからないこと」というのはたいていどこかおかしい。

今井功
 単独の定性的なことがたくさん集まって、実際の現象は動く。だから、いくつもの項目を組み合わせたことを、定量的に話すことができなければ、きっと何かを作ることはできないのだろう。
数値で語れなければ、プロとは言えない。

今井功

2009-01-30[n年前へ]

hirax.net の rss 

 hirax.netの更新内容(rss)は、"inside out "Techlog" "Logos" "できるかな?" すべてを配信しています。また、ケータイ閲覧用頁も、それらを一括管理しています。けれど、その一方で通常のPC閲覧頁としては、"inside out "Techlog" "Logos" "できるかな?" すべてをひとつに集めた頁はありません。更新内容を「(動画・スクリプト使用の内容などを除き)大雑把に眺めたい」という方は、hirax.net::rssをご覧下されば、幸いです。

2009-01-31[n年前へ]

大変身した「機動戦士ガンダムさん」 

 大和田 秀樹の「機動戦士ガンダムさん」が何だかすごいことになっている。というのは、普通のパロディ・ギャグ・マンガだったはずなのに、現に今もそうなのに、不思議なほど愛おしさと物語を感じるマンガに変わってきているからだ。

 「機動戦士ガンダムさん さいしょの巻 」「機動戦士ガンダムさん (つぎの巻) 」「機動戦士ガンダムさん みっつめの巻 」ときて、 最新巻の「機動戦士ガンダムさん よっつめの巻」では、どのストーリーもなぜか涙腺が緩んでしまう。アッガイたんたち、量産ザクさん、ガルマくん・・・本来の機動戦士ガンダムでは脇役たちにまつわるそれぞれの物語とそれを描く画が、何ともたまらない。

 「機動戦士ガンダムさん」は「(泣けて)電車の中では読めないマンガ」域に達しつつある。