2005-03-26[n年前へ]
■「ピーターの法則」のまとめ資料
「階層社会では、すべての人は昇進を重ね、(いずれは)各々の「無能レベル」に到達する」で始まる、ローレンス・J・ピーター&レイモンド・ハル著 渡辺伸也 訳の「ピーターの法則」を読んでみたら、なかなかに面白かった。そこで、大雑把な内容をPowerPoint資料としてメモをしてみました。例え話が多かったのですが、それらは全て割愛し、大筋だけを並べてみました。ちなみに、順番は(私自身が納得しやすいように)大きく入れ替えました。印刷して眺めるたりするのに便利なように、PDF版(第二版)も置いておきます。ちなみに、第一版はこちらです。
「ピーターの法則」話の後半は梅森浩一 著の「出世しない技術」と同様の方法論になっていました。「ピーターの法則」の場合「無能にならないため=出世しないために」はどうしたら良いか・何をしたら良いかを提示し、「出世しない技術」の場合「給料に見合わない苦労をしないため=出世しないために」はどうしたら良いか・何をすべきか、というような話の展開ですね。
2005-04-03[n年前へ]
■文字(文章)デザイン
「カナ入力と半角文化」が面白い。「コンピュータ関係の英単語を全角アルファベットって…」というような話から始まるエトセトラ、である。一連の文章を読んで、技術系の人にとって数少ない「文章の書き方」の教育の機会が「論文書き」なんだぁ、とふと感じた。
ところで、現在のところの私自身は、次のような使い方をしている。
アルファベット → 全角は使わない
現在のところ、そういう使い方をすると
読みづらいことが多い。
日本語の中の英単語 → スペースを両端に入れておく
見やすいし、問題も起きづらい
日本語内の"()" → 全角は使わない
"()"を使うと、間隔が広すぎて読みにくい。
日本語内の"?, !" → 全角を使う
"?!"を使うと、日本語文字と組み合わせた時に、
バランスが悪く読みづらい
WEB上の文章では"、「」"を多くする。
WEBの文章を表示するデバイスは読みづらい。
その読みづらさを何らかの作業で補う
判断基準は、「表示されたものを(内部コードの話ではなく)、自分がその文章を読むときの読みやすさ」である。ちなみに、私は「読む側が少しでも読みにくいと感じる=読者にとって(書き手にとっても)支障が大いにある」だと考えている。だから、「大した支障はないよね。どっちでも良いよね」と割り切ることはできずに、こだわりを持つ人が多いのも当然だとも思う。そういう(人によって異なる)こだわりは、人によって異なる)「伝えやすくしようとする意図の現れなのかもしれない。
コメント欄中の
新聞のような縦組だと、全角大文字ローマ字が相性いいですね。には、「なるほどね」と、とても納得。
2005-05-05[n年前へ]
■「何でもやればできる、という言葉」
ところで、 「未来予想図」は多数決で想像したり決めたりするものではなく、「未来は実際に作りだしてしまえば良いもの」ということを考えるとき、例えば「技術者と作業員」の
技術者とは、大勢の人たちが無理だと思っていたり、どれだけ試行錯誤してもうまくいかないような(例えばコンピュータに関連する)技術的な難題を、人並み外れた凄まじい問題解決能力で解決し、たちどころに目的を達成してしまう能力を持つ特殊な人たちのこと。多くの場合、置換不可能である。誰でも勉強すればなれる訳ではない。のような言葉を連想してしまう。「人並み外れた凄まじい問題解決能力でたちどころに目的を達成してしまう」ような人であれば、「未来を実際に作りだしてしまう」こともすぐにできそうだ。しかし、そんなことはなかなかできることでもなさそうだけれど…とも思ったりする。
以前、ペトロ三木が「ジェネジャン!」の何かの回で、他のタレント出演者たちに向かって
(芸能界で成功するのは才能のある一部の人間だけだろ)(才能あるヤツが)「何でもやればできる」みたいな発言をするから、ありもしない才能を信じる奴らが増えるんだよ。おまえらは社会に対して無責任なんだよ。というようなことを言っていたが、その言葉が頭の中にプカプカ浮かんでくる。「ぼくは別に何かの才能があるわけじゃない。誰でもみんなやろうと思えばできると思う」と語る堂本光一に、ペトロ三木が「アンタのルックスは(みんながみんな持っているもののはない)立派な才能だろ」とツッコんでいたのを思い出す。(社会に対して無責任とは思わないが)誰でも「何でもやればできる」わけではないよなぁ、と思ったりもする。そしてまた、「(何かを) - やろう - と努力をちゃんとできること」も「才能の一つ」なのかも、と思ったりもする。あついは、「誰でもみんなやろうと思えばできる」と信じる力こそが、欠かせない才能の一つなのかもしれない、とも思う。もしかしたら、それは「夢」を見たり、「夢」を見させたりする能力なのかもしれない。
登 大遊氏は尋常でない才能の持ち主だし、伊藤直也氏だってそれは同じだ。彼らの言葉を「なるほど」と熟読しながら、ふと我に返ると「12人の怒れる男」の正義を追求するヘンリー・フォンダではなく、人の意見に激しく左右されてしまう「12人の優しい日本人」になる自分がいる。彼らの言葉を眺めていると「…_|‾|○」という気持ちにもなったりするけれど、そんなorzな気分は「アラン・ケイの直筆サイン(The best way to predict the future is to invent it !)入り高座扇」ででも吹き飛ばすことにしてみようか。
2005-08-07[n年前へ]
■昔使っていたカセットテープ
色々なカセット・テープ製品の写真が集められている projectC-90。昔、ラジカセでラジオでチェックした音楽をTDKのテープに録音していたなぁ、と思いながらTDKのカセットのページを眺めてみる。あまりの懐かしさに、その頃聞いた音楽が頭の中で流れ出す。
そして、さらに古い方を眺めていると、カセットテープからコンピュータのプログラムを読み出していた頃を思い出す。頭の中に、300 bpsの音が流れてくる。
2005-08-13[n年前へ]
■「自分を正当化してくれるもの」を好む
「自分がおぼろげに感じていることを上手く説明できるものを、好んで読む」人が多いような気がする。そう書くのは、「この本は面白い」と人が本を薦めるときには、「自分の考えや行動を正当化してくれるもの」が多いのだろうかと、先日ふと感じたからだ。
例えば、「○×△する上手い方法」というような本を読んで、「この本に書いてあることって、前から私が感じていたり、あるいは既にやっていたことじゃないか(もちろん、「自分がおぼろげに感じていた」ということと「文章として書き、形あるものとして表す」こととは大違いだが)」というような風に感じるときに、「この本はとても面白い」という人も多いように思う。
「自分の感じていたこと」をはっきりとした言葉にしたものを、つまりは、「自分と同じ考えや行動を言葉にしたもの」を好んで読み、「自分がおぼろげに考えていたことや、やろうとしていたことは適切なことなんだよ」と言ってくれるような文章を好む具体例を挙げると、「ハッカーと画家」とか「ピーターの法則」とか、そんな感じの本を好むようなことである。もしかしたら、多くの人にブックマークされるような文章もそうなのかもしれない。そんな、「自分を正当化してくれるもの」を好む傾向が見えるような気がする。
逆に言えば、「おまえがおぼろげに考えていることや、やろうとしていることは間違ってるぞ」と指摘するような本や文章はほとんど好まれることがない、ということになる。「アンタのやり方は良くないよ」という言葉は読まれない、という感じだろうか。