2010-02-03[n年前へ]
■孤独に効く(安易な解決という見方もある)「○×△□」というもの
広告批評 編「私の広告術 」の岡康道の言葉から。
”孤独”って、人間の一番嫌なことだと思うんです。それが嫌だから、それに耐えるために、いろんなものが用意されているんじゃないか、とさえ思ってる。
で、「○×△□」というのは、孤独に一番効くものだと思います。それが安易な解決だとか、そういう批判はあるかもしれないけれど。
この「○×△□」の部分には、あるメディアが入る。この「○×△□」はきっと、時代・場所によって違うことだろう。ただし、その部分さえ入れ替えれば、この引用文はいつの時代にも通用する言葉であるのかもしれない。
2010-02-25[n年前へ]
■「WEBコンテンツの変化」 (初出:2005年11月20日)
twitterなど、マイクロブログが主流になっていますが、時代はいつも移り変わるものです。そろそろ、次のWEBコンテンツが現れても良さそうな気がします。
2010年の初春に、5年前に書いた記事を眺め、過去の未来の現在に立つ私たちの、その私たちの先にあるだろうWEBコンテンツの変化について、思いを馳せてみたいと思います。
「個人の"ホームページ"の時代」
私が「インターネット」を眺めるようになったのは、WWWブラウザのNCSA Mosaic が登場した1993年過ぎからでした。その直後、使うブラウザは Netscape Navigator へと変わりました。そして、1996年くらいから「さまざまな個人が書いているページ」を楽しむようになりました。例えば、その1996年に始まったサイトで例を挙げてみると、「今日の必ずトクする一言」や「我が妻との闘争」といったサイトを眺め楽しむようになったのです。その二つで代表されるような「個人が趣味的記事を書く"ホームページ"」が盛んだ、と言われた年がそれから2.3年くらい続いたような気がします。今でも、細く長く続く素晴らしい「個人の"ホームページ"」がその頃生まれました。その頃、私も自分でもサイト hirax.net を立ち上げ、そこで雑文を書くようになりました。
「WEB日記の時代」
その直後、おそらく1998年頃からだったと思うのですが、時代は(今度は)「日記サイト」だということになっていました。「個人の"ホームページ"」の時代は終わり、「個人が書くWEB日記」の時代が始まった、というのです。私のサイトが雑誌に初めて取り上げられた時も、実は「日記サイト」という扱いでした。(今でもなぜそうなったのかはよくわからないのですが…) その時代を代表するサイトは、間違いなく「ちゃろん日記(仮)」でしょう。「WEB日記の時代」からは、そんな素晴らしく高い密度の文章が生まれました。
なぜ、「個人の"ホームページ"」の時代は終わり、「個人が書くWEB日記」の時代だと言われたかというと、「個人が多くの人に読まれるような記事を書き続けることは難しい」せいだったと思います。インターネットの世界で「アクセス数が多くなる」ためには、多くの人が繰り返しそのサイトに人が訪れるためには、「続ける」ことが欠かせません。しかし、「個人が自分のオリジナルの記事を書く」「ある程度の長さの文章やコンテンツを作る」ということを頻繁に更新し、それを長く続けるのは難しいと思われたのだろう、と感じました。そしてさらに、「(けれど)個人が自分のことに関する日記を書く」ことなら、頻繁な更新もできるだろうし、それを長く続けることもできるに違いない、と考えられたせいだったような気がします。
「掲示板の時代」
そして、またしばらくして、今度は「個人のWEB日記」の時代が終わり、「掲示板」の時代がやってきました。「自分の毎日に関することでも、やはり(個人が)頻繁にある程度の長さの文章を書き続けることは難しい」けれど、複数の集団であれば「(いくら頻繁であっても)多数の人が感想文を書き連ねるなら簡単」だし、「それを長く続けることも容易だ」ということだったような気がします。似たような趣味の人が「感想やコメントを付け合う」「掲示板の時代」(という風に記事などで取り上げられる)時代が少しの間続いていたような気がします。もちろん、その頃生まれた「2ちゃんねる」は、(言うまでもなく)今では超巨大な空間になっています。「色々な問題」が指摘されたこともありましたが、そのような掲示板が色々な多くのものを生み出してきたことも確かな事実に思えます。
「ニュースサイトの時代」
そして、次の時代は「ニュースサイト」の時代でした。そういう風に言われた理由を、(強引な理屈ではありますが)作り出してしまうなら、「複数の人であっても、一つの同じ趣味の話では長く続かない」というような意識があったような気がします。「例え、複数の人であっても、自分たちの中の話題だけでは長い期間にわたって書き続けることはできない」けれど、「(種々の)他サイトの記事」に関して、「ごく短い - ひとこと - の感想を付記することで書き連ねる」ことならば、比較的頻度高く更新を続けることができる。しかも、他サイトに「面白い記事」があれば、その「面白さ」へ導くことで読者を楽しませることができる。そして、それを孫引きするなら、多くの人がすることができる。そんな風に「頻度高く・長く続ける」ことができるからこそ、読者も楽しい、というようなものだったような気がします。これも強引に例を挙げてしまうなら、「俺ニュース」「そして、その孫引きニュースサイト」のようなものがその例になるかもしれません。
「ブログの時代」
そして、次の時代は「ブログの時代」でした。「ブログの時代」を単純に言うならば、
「ブログの時代」 = ( 「WEB日記」 + 「ニュースサイト」 + 掲示板 )
というような感じです。少なくとも、私の勝手な印象ではそんな感じでした。「長く頻繁に書き続けることが難しい」ということに対して、「個人が自分の近況を書いたり」「個人が他サイトの記事の感想を書いたり」「それに対して、複数の人が(ごく短い - ひとこと - の)コメントを付け合ったり」という、これまでの時代の「メリットの貼り合わせ」をしたシステムです。そして、それがもしかしたら「現在の時代」なのかもしれません。
「コメント付きソーシャル・ブックマークの時代」
ところで、最近は「コメント付きソーシャル・ブックマーク」の時代なのかもしれない、と思うことがあります。それはつまり、「複数の人が、他のサイトに関して、 - ひとこと - の感想を付ける」というシステムです。「一人の個人が、自分のサイトで長い文章を頻繁に書くことが難しい」のであれば、ちょうど「その逆のもの」ということになります。一例を挙げるならば、「はてなブックマーク」のようなものです。「大勢の人が共同作業でニュースサイトを運営し、大勢の人がその他サイトの記事に対して - ひとこと - コメントをつける」というシステムです。いわば、
「コメント付きソーシャル・ブックマーク」 = 多数の人が運営する「"他サイト"ニュースサイト + "ひとこと"掲示板」という感じのものです。実際、WEBの世界で「ニュース」となるような記事は、「はてなブックマーク」のようなところで取り上げられたものが多いような気がします。
インターネット上のWEBコンテンツは、今のところ、「短く」「繋がる」という方向に動き続けています。これから、先の未来のWEBコンテンツはどうなるのでしょうか? (この記事を図解したものを図解 「WEBコンテンツの変化」に書きました)
2010-04-06[n年前へ]
■「メディア・ディペンデント」
十年ほど前、ある本の「あとがき」に、こんな文章を書きました。
インターネットにあふれるWEBページのことを「便所の落書き」と呼んだ人もいます。もし、インターネットのWEBページが「便所の落書き」なのだとしたら、この本は「便所の落書き帳」ということになります。ただ、思いつくままに「便所の落書き」を描き続けていたら、いつの間にかこんな本になりました。今では絶対に手に入らないだろう希少本ですし、WEBというメディアで書かれた記事を上手く紙というメディアに翻訳することができなかった…など致命的な難点が多々あったりするのですが、一番好きな落書きの「サンタが街にやってくる」が唯一収録されていることもあり、とても思い出深い最初の一冊です。
その後に出した本を考えてみると、たとえば「論理的にプレゼンする技術 聴き手の記憶に残る話し方の極意 (サイエンス・アイ新書) 」は最初から書籍として作ったもので、(本としての)ページの割り付け・ページ内のデザインなど、最初の最初から考え・設計して作り上げたものです(だから…というわけではないですが、この本は、プレゼンが苦手な人から「自分は上級者だ」という人まで幅広い人たちが、それぞれ楽しめる本になっている、と思っています)。
そしてまた、たとえば(個人的にはとても思い入れのある)「理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く! (Kobunsha Paperbacks Business 17) 」はWEBサイト用の記事として作ったものを、書籍用の手直し・書籍化に際して追加しておきたかったものなどを詰め込み(あるいは削り)、作り上げたものになります。
もしも、後者を最初から「書籍」として考えて作ったとしたら、一体どういうものになったのだろうか?と思うことがあります。そして、それでは「企画自体通らない」ものだろうな、と思ったりします。やはり、「書籍」と「WEB記事」は違います。メディアによって、作り方も作り始めのカタチもきっと違うのだろうと思います。
どんなものでも、「(コミニュケーションという)底の部分は同じだよ」と言われるような気もしますが、その舞台・調理法(表現方法)が異なる「メディア」である以上は、やはり違うものにならざるを得ないのかもしれない…と思います。
そんなことを考えながら、久々に昔書いた「便所の落書き」を読んでみたりしたのです。
2010-07-14[n年前へ]
■「正のフィードバック」と「負のフィードバック」
今日の「n年前へ」から。
電子機器・メカ機器で多く使われるフィードバックシステムは、「負のフィードバック」だ。なぜなら、それにより「システムの安定化」を実現化することができるからである。逆に言えば、そういう風にシステムを作らなければ、安定して機器を動かすことはできない。
その一方、ユーザーインターフェースをつかさどる機器は、「正のフィードバック」として動くものも多い。たとえば、車のハンドルを動かすパワーステアリングなどは、入力の増幅が出力の増幅を生み出す「正のフィードバック」システムだ。少ない力で人の手助けをするシステムを作ろうとするならば、「正のフィードバック」を使うのが自然で人に優しい、というわけである。そういった、ユーザの反応を増幅拡大して見せるポジティブ・フィードバック系が多い。
ユーザの操作・反応がとても重要であり、同時にマスメディアでもあるようなツールを作ろうとするときには、この「フィードバック」特性を意識することは、きっと何かの知見を与える、と思う。「正のフィードバック」と「負のフィードバック」、そして、それらのフィードバック・システムが生み出すシステム、そういったものの挙動をシステムに関わる人々が想像してみることは、きっと何かの役に立つのではないだろうか、と思う。
「メディアの特性」と「制御工学の安定性」
2010-12-01[n年前へ]
■「深夜ラジオ」の良さ。
めちゃイケでもお話していましたが「ムラオカタカオ」さんとして入院をしていた岡村さん。この5ヶ月、何があったのか?何をしていたのか?をたっぷり2時間お話しました!!
ヘッドホン(イヤホン)でダラダラと聞く、最後に流れる玉置浩二の「田園」まで、「深夜ラジオ」の良さを、久々に味わう。