2010-03-14[n年前へ]
■愛とは、見つめ合うことでなく、同じ方向を見ることである。
角田光代の「今、何してる? 」から。
(フランスの作家、「星の王子さま」の作者、サン・テクジュペリの言葉から)「愛する、それはお互いを見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである。
ふと、「お笑いパソコン日誌」に書かれていた、こんな言葉を思い出す。
仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。同じ方向を見ることはできないのかもしれない。だったら、せめて同じ方向へ、前へ、進むことならできるのだろうか。それとも、その「前方」は、やはり二人違う方向を向いているのだろうか。違う方向を向いているとしたら、それはただ離れていく方向なのだろうか、それとも、現実世界でよくあるように、やがてまたどこかで交(まじ)わったりするものだろうか。
それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが
ここでは引用していないが、サン・テクジュペリの言葉を導入部分に使いつつ書かれた、角田光代の文章はやはり魅力的だ。変なたとえだが、それは久世光彦が書く、向田邦子の魅力に、少し、似ているような気がする。
2010-03-19[n年前へ]
■同じものを見るという「奇跡」と「幻」
角田光代の「今、何してる? 」から。
親とかきょうだい、もしくは恋人は友達と、とても親密なある一日を過ごしたとする。(中略)その一日について、ともにすごした人と照合してみると、びっくりするほど記憶が違う。私は空を横切る飛行機を見ていて、彼/彼女は散歩中の巨大猫を見ている。私はサテンで男女が大喧嘩しているのを見ていて、彼/彼女は行列のできるラーメン屋を新発見している。
だれかとともに一日を過ごして、何から何まで同じものを見、うりふたつの記憶を持つという奇跡のようなことは、きっとある。そして私は気づく。恋人でも友達でもない、未知のだれかとも、同じものを見、同じ記憶を共有することは可能である、と。
繰り返し、そんな「奇跡」を夢見ます。そして、いつもこの言葉を反芻(はんすう)するのです。
仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。
それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが。
「お笑いパソコン日誌」
2011-04-10[n年前へ]
■「他人」はそれぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ
自分と違う「他」の人を他人と呼びます。他人は自分と異なる人なのですから、それぞれが使う言葉(語句)の「意味するところ」も異なるし、考え方(ロジック)も、あるいは、それらを支える根本たる感じ方(価値観)も異なるわけです。
目の前に考え方や感覚や言葉使いが未知の人がいたとして、「必ず相手を理解することができる」とも思えませんが、会話をするためには一体どうすれば良いものなのでしょう?
自分でない他の人と言葉を交わそうとする時には、その3つの違がどのような風であるかを考え・推測する、という作業が重要であるように思います。
まず、「その人の使う言葉を、自分が使う言葉とは別のものと考えて、その人が話す言葉の論理の中での矛盾を最小限にするよう、その人が持つ言葉の定義を見つけ出す」(そのようにすることで)その人の言葉の定義が決められた後に、「その人が話した言葉を通して、価値観の矛盾がないかどうか考える」 ただひたすらに、この一連の作業を、矛盾がなくなるまで反復を繰り返し続けることで、「この人はこういう感じ方・考え方をして、こういう言葉の使い方をする人なのだろうか」という推測をすることができるわけです。
そして、いつでも何らかの違和感(矛盾)を感じたならば、その違和感の元を見つけるための確認作業を行ってみる、という具合になります。何かを問いかけて、その反応を確認してみたりするわけです。
もちろん、こんな風に「その人の感じ方や言葉の使い方や考え方」といったものに対して、矛盾が存在しなくなるまでアレやコレやと考える・・・というのは少し面倒な作業です。だから、ある程度は用意された「パターン」に当てはめ・そしてテンプレートからの誤差分を修正するようにすることで、推測作業を簡素化して考えることも多いように思います。
こうした「テンプレート・マッチング」による他人の言葉や感じ方や考え方を推測する方法の欠点は、 自分がこれまで見たことがない・想定したことがない「未体験・未想定の感じ方・考え方をする」人を目の前にした時、大雑把にも対応させられそうなテンプレートがなく、さてどうしようか?と対応に困ってしまう・・・ということです。そんな時は、時間をかけつつ、新しいテンプレートを自分の中に作り上げていくことになるのでしょうか。言葉や論理あるいは価値観といったものは、本当のところ、「理解」なんていうことが可能であるのか、よくわかりません。まして、理解の先に存在しているかもしれないという「納得」ともなればなおさら、です。
それぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ人たちで溢(あふ)れ・互いにすれ違うこの時代、どんな風に考え・動くのが良いのでしょうか?
2012-09-22[n年前へ]
■「読む人の力をいつでも信じています」
『「読む人の力を信じる」という秘訣 』から。
ずっと頭の中に残っている言葉のこれまた一つが、下の言葉です。言葉を書く上で、可能な限り他人(自分以外の人や未来の自分)に伝わるように的確に書く、というのは当たり前のことです。しかし、その当たり前のことをもちろん承知の上で、この秘訣をいつも頭の中に浮かべています。
わたしは、読む人の力をいつでも信じています。そうでなかったら一行も書けません。また、見抜く目を最高に持った人を想定読者にするのが、このメディアを続けていくための秘訣でもあります。
「からーふぃくしょん」
2013-07-11[n年前へ]
■「時代は自ら前に進めるものだと信じよう」
2013年07月12日、たぶん±3歳くらいの同世代、「陰気な男でいいですか?」の日記にしびれました。
”オレの軌跡はどんなだろう。他人が見てもワクワクするものを作り、自分がワクワク出来るよう精進しよう。時代は自ら前に進めるものだと信じよう”
「勢い」というものは多分とても大事なことで、何かひとつの視点から見た景色を感じとり・的確に言葉として描き出すことができた時、その文章には「確かなリズム」が必ず伴うような気がします。それは、たとえば、 「知らないことは知らないと言おう。」の太宰治の「正義と微笑」のようなリズムです。
ぼくは、きょうから日記をつける。この頃の自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がしてきたからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格が作られる、ルソーだか誰だか言っていたそうだが、あるいは、そんなものかもしれない。
…これからは、単純に、正直に行動しよう。知らないことは、知らないと言おう。できないことは、できないと言おう。思わせ振りを捨てたなら、人生は、意外にも平坦なところらしい。岩の上に、小さい家を築こう。
僕は、来年、十八歳。
2013年07月12日の「陰気な男でいいですか?」、「オレが行かずに誰が行く。オレが読まずに誰が読む。オレの軌跡はどんな感じなんだろう」というリズムを、1980年代に青春を過ごした人が2010年代の今この瞬間に読んだなら、きっと(そこに)書かれていることと同じような心地になるに違いありません。
それぞれのコーナで紹介されている内容に偏りが感じられるが、それが筆者のマイコン人生の軌跡や時期を表していると思うとグッとくる。同じ日本でマイコンに全てを注いでいてもイロイロなルートがあったんだな。オレの軌跡はどんな感じなんだろう。
それはそれとして、当時のワクワク感を思い出して改めて感じる。他人が見てもワクワクするようなものを作って自分がワクワク出来るよう精進しよう。時代は自ら前に進めるものだと信じよう。明日も楽しく前向きに。