2006-10-29[n年前へ]
■「n年日記で見るネット時間」「3年卓上日誌」「正二十面体の地平線の向こう」
「n年日記で見るネット時間」「3年卓上日誌」「正二十面体の地平線の向こう」 from LINK n年前へ.
青い空高くを飛ぶ人と、地上にゆっくり佇む人の時間は違う。そんな風に、違う人は違う軌跡を描き、違う時間を刻んでいるような気がする。
だけど、掌の上で正二十面体の地平線を眺め、「ぼんやりした地平線」をはっきり眺めることができれば、 その地平線の向こうだってきっと見えてくるような気がします。 少しくらいは、その向こうの景色や人が心に映るような気がします。
2007-04-22[n年前へ]
■48分、月を待つ
古今集に載せられているこの紀貫之の和歌は、日本を代表する春の和歌だろう。
人はいさ心もしらずふるさとは人の心はわからないけれど、花は昔と同じようにその匂いを香らせている…という誰もが知っているこの和歌の冒頭、「いさ」は「わからないけれど」という意味だ。「いさ」は昔は「不知」と書いて、「わからない・知らない・承伏できない」ということを指していた。だから、普通は「知らず」という言葉と共に使われることが多い。
花ぞむかしの香ににほひける
大野 晋と丸谷才一が書いた「日本語で一番大事なもの」 にこんな一節がある。
十六夜というのは十五夜の次の日でしょう。十五日までは、月がだんだん大きくなるんで、毎日待っているわけですよ。そして、いよいよ満月になった、明くる日は、もっと明るく出るだろうと待っている。ところが、十六夜になると月の出は少し遅くなって、山の端にかかっているようでさっと上がってこない -- いさようわけです。それが「いさよい」広辞苑で「いさよい」をひくと、「進もうとして進まぬこと。ためらうこと」とされている。そして、「十六夜」の語源については、「陰暦16日の月は満月よりもおそく、ためらうようにして出てくるのでいう」と書かれている。この「陰暦16日の月は満月より遅い」という文は一体どのような現象を指しているのだろうか。あるいは、「いさよい」という言葉はどのような心持ちを指しているのだろう。「陰暦16日の月は満月より遅い」という言葉が語り継がれる間に、その意味が今ひとつわからなくなっているように感じられたので、この語句の背景を適当に想像し、その内容をここに書いてみることにした。
旧暦は月の満ち欠けを基準として作られている。新月(朔)となる日が1日とされていて、旧暦15日を過ぎる頃に、満月を迎えることが多い。15日を過ぎるころというのは、新月から満月までがおよそ14.8日ほどで、それに新月の1日を足すと、旧暦で言うところの15.8日になるからである。だから、旧暦15日と16日の頃に、私たちは満月を見る。
月の満ち欠けの周期、満月から次の満月までの周期は、29.5日である。つまり、先ほどの「新月から満月までの14.8日」の2倍である。朔望月と呼ばれるこの29.5日の周期は、27.3日ほどかけて月が地球の周りを回り、そして、365.3 日かけて地球が太陽の周りを公転している結果だ。地球と月が持つ二つの公転周期が組み合わさることで、地表に立って月を眺める私たちは、29.5日の周期で月が満ちたり欠けたりするように見えることになる。たとえば、地球から見て太陽と月がちょうど反対方向にある時には、地球からは太陽に照らされた月、満月が見える。そして、地球から見て太陽と月が同じ方向にある時には、太陽の光には照らされない陰の部分の月、新月しか見えない。そんな風に太陽と月と地球の位置関係が変わるにつれて、月は姿を変えていく。
満月の時は、地球を間において、太陽と月は反対方向に位置している。だから、昼夜の長さがほぼ同じになる春分の日や秋分の日であれば、太陽が東の空に昇るとき、月は西の地平線に沈むことになる。太陽が日本の私たちを照らす昼間には、月が地球と反対側で南アメリカの夜をほのかに照らしている。そして、太陽が西の空から沈むとき、ようやく月は東の地平線から夜空へと顔を見せ始める。太陽と月はいつも反対側の空にいる。
新月の時は、地球から見ると、太陽と月は同じ方向に浮かんでいる。光り輝く太陽の近くにいるために見えないことが多いけれど、そこには陰の顔を見せる月がたたずんでいるはずだ。朝日が昇る前や、夕暮れ後になら、そんな月を見ることができるかもしれない。
空を毎日眺めていれば、太陽の動きに対して月の動きが少しづつ遅れ・ずれていくことがわかる。そして、29.5日すると、また同じ太陽と月の位置関係に戻る。見かけの太陽の位置を基準にすると、月の位置は1日あたり360(°)/29.5(日) = 12°/日づつ東へとずれていく。つまり、日の出に対して月の出は遅くなり、同じように、日の入りに対して月の入りも12°/ 日づつ遅くなっていく。24時間で360°(= 1時間に15°)という地球の自転を考えて、日の出や日の入りに対する月の出や月の入りの遅れを時間換算するならば、1日あたり12/15時間 = 48分となる。日の出に対して月の出は1日あたり48分づつ遅くなっていくのである。
満月を過ぎた旧暦十六夜の頃、月は太陽と反対側の空に浮かんでいる。太陽が西の空に沈んで後に、東の空から月が昇ってくる。前日よりも、月の出が48分ほど遅いのはいつものことだ。けれど、眩しい太陽が沈んで、満月に近い輝く月が昇るまで、夕暮れ過ぎの闇の中で、私たちは十六夜の月を待つことになる。前日の15日の夜には、太陽が沈む頃には、月が地平線から昇ってくる。夕暮れの時間には、世界を照らす役割が太陽から月へと手渡されるかのように、月は明るく夜の地表を照らし始めていた。しかし、十六夜には、太陽が沈んでから明るい月が昇るまでの間、私たちは暗闇の中で48分もの時間を過ごさなければならない。
この十六夜の月を待つ心持ちが、まさに「いさ」なのだろう。48分間の暗闇は不知(いさ)の時間、わからない・知らない時間だ。明るい電灯のない時代・灯りのない場所で、日が暮れた後の景色は漆黒で塗りつぶされている。そして、暗闇の先に昇ってくるはずの十六夜の月はなかなか進まず昇ってこない。十六夜の48分の夕闇の中、私たちはいさよう月をただじっと待つ。先が見えない、わからない不知の時間、私たちは月を待つ。
人はいさ心もしらず我はただ
いつも今夜の月をしぞおもふ
松永 貞徳
- 参考文献:
- 「月の不可思議学」 竹内 均 編 同文書院
- 「日本語で一番大事なもの」 大野 晋・丸谷才一 著 中公文庫
2007-05-31[n年前へ]
■ウサギの餅つき
友人が言った。
「月のウサギはね、本当に餅つきをしてるんだよ」友人は星を見るのが好きで、箸が落ちても笑い転げる頃には天文部に入っていた。だから、こんな豆知識を私に教えてくれることが多かった。浮世離れして、突拍子もないことばかりだったような気もするけれど、そんな役に立たない話が、不思議に心をくすぐることもあった。
「月はいつも同じ顔を地球に向けてる、って思ってない?」「28日間の周期で、本当はグルリグルリと顔を揺らしているんだよ」私は、月がほぼ同じ顔を地球にいつでも向けていた、ということすら知らなかった。月の上でウサギがモチをついている姿が、いつも地球から見えるのだから、もしかしたら当たり前の話なのかもしれない。…しかも、月が首を振るように地球を見えていたということなんて、全然知らなかった。
「そして、月の模様とウサギの伝説は、不思議なくらい世界中に残っているんだって」「月の模様はウサギが引っ掻いたものだ、というアフリカの伝説もあるし」「インドでは、自ら炎に身を投じたウサギの姿が月の模様になったって言われてるし」月の模様が「お餅をついているウサギ」に見えたことはない。けれど、友人が口ずさんだ話、「月がグルリグルリと少しづつ揺れて見える」という知識は、何だかとても新鮮に思えた。28日間という長い時間をかけ、月が顔をかしげているというのなら、そんな姿を眺めてみたいと思う。
「月の顔が揺れているようすが、餅をついてるように見えたのかもね」
友人が見せてくれた月が揺れ動く姿は、不思議に餅つきのリズムに見えた。頭の真上に浮かぶ丸い満月、地平線近くに鋭く輝く三日月、月上でウサギが餅をつくようすを、いつか現実の夜空で眺めてみたい。月を、時々眺めてみよう。
2012-12-16[n年前へ]
■関東平野で富士山が一番綺麗に見える場所!?
先日、関東平野のちょうど中央辺りに位置する、埼玉県久喜市に行きました。久喜の辺りから見た富士山は、東京から眺めている時より綺麗に高く見えたのが、少し意外でした。。
そこで、「富士山を関東平野から眺める時、富士山からの距離に応じて、丹沢(の山)より富士山がどのくらい高く見えるか?」を調べてみました。富士山と(関東平野から見て富士山の手前に位置する)丹沢の山の高さ関係(仰ぎ角の差分)が、地球の丸さを反映しつつ、どのようになるかを計算してみました。それが下のグラフです。横軸は富士山からの距離(km)、縦軸は丹沢の山より富士山が仰ぎ角で何度程度上に見えるかを示しています。また、横軸の最大値は200kmになっていますが、このくらいの距離が「富士山が地平線の下に隠れ・見えなくなってしまう限界距離」です。
富士山から(というか丹沢に近い箇所から)離れるにしたがって富士山はだんだん高く見え、富士山から135km程度離れた場所で「富士山が(丹沢より)最も高く見える」状態になります。そして、それ以降は地球の丸さの影響が支配的になり、富士山がだんだん低くなっていくのです。
つまり、富士を綺麗さに驚いた埼玉 久喜の辺りは、ちょうど一番「富士が(手前の)丹沢山麓よりも高く見える場所」になっていた、というわけです。
地図を広げて、関東平野上に富士山を中心とする直径135km程度の円弧を書いてみると、(もしかしたら)その辺りは絶品の富士山を眺めることができる場所かもしれません。そんな円弧状のどこかに、空気が澄み渡る冬の空の下で、遠く・高くそびえる富士山を眺めに行ってみるのはいかがでしょうか?
2015-04-29[n年前へ]
■オランダ風景画で印象的な「画面を広く占める空」の不思議?
オランダ風景画を見るたび、そこに描かれている「遙か遠くまで広がる空」が印象的だった。たとえば、オランダ風景画でGoogle画像検索すると、キャンバスの2/3くらいの広さに青い空と横方向に延びる白い雲が描かれていて、その景色がとても印象的だ。それは、たとえば、日本の油絵風景画でGoogle画像検索してみた結果と比べると、その違いがよくわかる。日本の風景画では空はキャンバスの上部1/4程度を占めるに過ぎない。
けれど、実際に平らな地形が遙か彼方まで続くオランダで過ごしてみると、オランダ風景画に描かれた「地平線」は確かにあの位置で合っていて、視界の上部2/3領域は、ほぼ空で占められているように感じてしまう。地平線は視線の高さにほぼ位置するはずだが、実際にその高さに地平線があると、(幼い時期を高い山に覆われた長野県の野辺山で育った人間としては)感覚的には、それより遙かに広い部分を空が占めているように感じてしまう。高村光太朗は、智恵子抄に「智恵子は東京に空が無いと言う」と書いたが、おそらく智恵子がオランダに来たならば、「オランダには空が有りすぎる。ほんとの空が見たい」と、遠くを見ながら言いそうな気がする。
不思議なのは、なぜここまで日本の景色とオランダの風景で地平線の高さが違って感じられるかだ。たとえば、山が多い日本の風景を眺めるとき、10キロメートル先に標高差1000メートルの山があったとする。その山の高さは目の高さよりも6度くらい上方に位置するに過ぎない。人の視界は上下方向におよそ60度くらいだと聞くから、(日本における山の存在が地平線の高さに与える影響が)6度程度だとしたら、それはたかだか画角上で高々10パーセント程度の違いにしかならない。…しかし、それは実際の感覚とずいぶん違う。
地平線近くに位置する月は、本来の大きさに比べてずいぶん大きく見える。それと同じように、地平線近くでは、わたしたちの感覚は角度方向を大幅に増幅させる効果でもあるのだろうか?…オランダ風景画で印象的な画面を広く占める空は、実際の感覚と極めて良く一致する。しかし、その現象と一致する説明は、頭の中でまだ行うことができない。