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2006-11-11[n年前へ]

「水からの伝言」と「できる人のジレンマ」 

平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女/Tech総研:「水からの伝言」と「できる人のジレンマ」 Tech総研ブログ 平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女「水からの伝言」と「できる人のジレンマ」を書きました。文中に何度も書いたように、『「水からの伝言」を信じないでください 』という文章は実に真摯で丁寧な文章だと思います。けれど、まさに「できる人のジレンマ」を抱えるシチュエーションだとも思うのです。

「(その文章に書いてあるように考えることが)できる人」にとっては「この文章はとても素晴らしい」ものだと思っています。ただ、「できない人」はどう思うのだろう?という悩みも浮かんでくるのです。

2007-05-28[n年前へ]

The Lunar Surface Telescope 

 年月日を指定し、その日、月がどのように見えるかを計算・表示するのが、The Lunar Surface Telescope です。今日、1年後の明日、あるいは、何年も前の昨日の月が、どんな風に太陽に照らされているかを眺めることができます。あなたが生まれた日、何百年も前の誰かが生まれた日、月はどのように地球を照らしていたのでしょうか?その日、月は丸く満ちた満月だったのでしょうか、それとも、薄く光る三日月だったのでしょうか?

 ある日の太陽に照らされた月の表面とを眺めることができるのが、The Lunar Surface Telescopeです。The Lunar Surface Telescopeで、いつかの日に眺めた月を見て、その日の月を誰かに見せたりするのも面白いかもしれません。「この文章を書いている今日」、2007年5月28日の月はこんな感じ(リンク先)です。そして、「あなたがこの文章を読んでいる今日」の月は、下のような姿をしています。ほんの少しの間、いつかの月を眺める時間旅行に出かけてみるのは、いかがでしょうか。

2007-07-01[n年前へ]

旧約聖書と「あぼーん」 

 先日、「文学を科学する」という本を読んで、こんな一節に惹かれた。

文章は書かれて発表されたとたんに、書き手の所有物ではなくなるのです。(その一方で)作者の手を放たれたテキストは読者の所有物になるのではありません。それは、…膨大な言葉同士の関係に入り込むのであって、つまり作者のものでも読者のものでもなくなるのです。作者のものなら作者の解釈だけが唯一の真実ですし、読者のものならどんな恣意的な解釈も可能です。しかし、それが作者のものでも読者のものでもないからこそ、文学作品は常に新しい読み方ができる、いいかえれば繰り返し読むことに耐えられるものになるのです。 「文学を科学する」 P.65 - 66
 この一節を読みつつ、ふと、巨大掲示板 2ちゃんねる の「あぼーん」という言葉を思い出した。問題がある発言が書き込まれた時、書き込みの題・内容・日時などがすべて 「あぼーん」と書き換えられるシステム、その「あぼーん」の語源を考えた時に考えたことが蘇ってきた。
投稿者の力が及ばない権限者が行う削除行為から、2ちゃんねる外の自分の発言やアカウント、またクルマやパソコンなどの私有物への表現にも使われ、あらゆる事柄に存在する「破損」「消失」「死」についての婉曲表現として「オレのPCがあぼーんした」などと動詞的に使われるようになった。はてなダイアリー あぼーんとは
 あぼーんの語源を検索すると、"a bone" (骸)という説や、マンガ「稲中卓球部」のセリフという説など、さまざまな説が出てくる。もしかしたら、作り手"ひろゆき"が異なる語源を語ったのかもしれないし、あるいは、たくさんの読み手たちが新しい解釈を、いつの間にか作り出していったのかもしれない。そんなたくさんある"あぼーん"の解釈の小さなひとつ、私が考えた"あぼーん"の語源は、こんな話だ。

 いつだったか、旧約聖書の解説書を読んだ。そして、創世記 第四章 「カインとアベル」の中に出てくるカインの過失・罰を意味する言葉が、本来のヘブライ語の聖書では「アボーン」という言葉だったということを知った。兄カインが弟アベルを殺した罪、その罪が故に、安住の地エデンから「エデンの東」へ追放されたことなどを一語で表現しているのが、ヘブライ語の「アボーン」である。その言葉を見たとき、これはまるで2ちゃんねるの「あぼーん」のようだ、と感じた。問題のある発言を掲示板の外へと移動させる「あぼーん」と、ヘブライ語「アボーン」は、三千年も時を隔てているけれど、不思議なくらいよく似ている。

初めに言葉があった。万物は言葉によって成った。言葉によらずに成ったものは ひとつもなかった。 新約聖書 ヨハネ福音書
 「文学を科学する」を読んだ頃、「インターネットのコメント・システム、異なる人たちが、時事についての意見を書き込むような場」から何が生み出されるのか、あるいは、どんな問題が起きてしまうのかを考える文章をよく見かけた。そういった文章を読みながら、同じ時期に旧約聖書と「あぼーん」について考えていたせいか、思い出したのが「全体は部分の総和以上のものであるか?」という、こんな文章である。
聖書は部分の総和以上のものであるか? もちろん。さまざまな物語や詩、それに異なるものの見方の混合が、個々の作者の夢にも思わなかったものを産み出した。「旧約聖書を推理する 本当は誰が書いたか」  R.E.フリードマン P.323

旧約聖書と「あぼーん」 

 先日、「文学を科学する」という本を読んで、こんな一節に惹かれた。

 文章は書かれて発表されたとたんに、書き手の所有物ではなくなるのです。
(その一方)作者の手を放たれたテキストは読者の所有物になるのではありません。それは、…膨大な言葉同士の関係に入り込むのであって、つまり作者のものでも読者のものでもなくなるのです。

 作者のものなら作者の解釈だけが唯一の真実ですし、読者のものならどんな恣意的な解釈も可能です。しかし、それが作者のものでも読者のものでもないからこそ、文学作品は常に新しい読み方ができる、いいかえれば繰り返し読むことに耐えられるものになるのです。

 「文学を科学する」 P.65 - 66
 この一節を読みつつ、ふと、巨大掲示板 2ちゃんねる の「あぼーん」という言葉を思い出した。問題がある発言が書き込まれた時、書き込みの題・内容・日時などがすべて 「あぼーん」と書き換えられるシステム、その「あぼーん」の語源を考えた時に考えたことが蘇ってきた。
投稿者の力が及ばない権限者が行う削除行為から、2ちゃんねる外の自分の発言やアカウント、またクルマやパソコンなどの私有物への表現にも使われ、あらゆる事柄に存在する「破損」「消失」「死」についての婉曲表現として「オレのPCがあぼーんした」などと動詞的に使われるようになった。

  はてなダイアリー あぼーんとは

 あぼーんの語源を検索すると、"a bone" (骸)という説や、マンガ「稲中卓球部」のセリフという説など、さまざまな説が出てくる。もしかしたら、作り手"ひろゆき"が異なる語源を語ったのかもしれないし、あるいは、たくさんの読み手たちが新しい解釈を、いつの間にか作り出していったのかもしれない。そんなたくさんある"あぼーん"の解釈の小さなひとつ、私が考えた"あぼーん"の語源は、こんな話だ。
 いつだったか、旧約聖書の解説書を読んだ。そして、創世記 第四章 「カインとアベル」の中に出てくるカインの過失・罰を意味する言葉が、本来のヘブライ語の聖書では「アボーン」という言葉だったということを知った。兄カインが弟アベルを殺した罪、その罪が故に、安住の地エデンから「エデンの東」へ追放されたことなどを一語で表現しているのが、ヘブライ語の「アボーン」である。その言葉を見たとき、これはまるで2ちゃんねるの「あぼーん」のようだ、と感じた。問題のある発言を掲示板の外へと移動させる「あぼーん」と、ヘブライ語「アボーン」は、三千年も時を隔てているけれど、不思議なくらいよく似ている。

初めに言葉があった。
万物は言葉によって成った。
言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。

 新約聖書 ヨハネ福音書

 「文学を科学する」を読んだ頃、「インターネットのコメント・システム、異なる人たちが、時事についての意見を書き込むような場」から何が生み出されるのか、あるいは、どんな問題が起きてしまうのかを考える文章をよく見かけた。そういった文章を読みながら、同じ時期に旧約聖書と「あぼーん」について考えていたせいか、なぜだか思い出したのが、「全体は部分の総和以上のものであるか?」という、こんな文章である。

聖書は部分の総和以上のものであるか?
もちろん。
さまざまな物語や詩、それに異なるものの見方の混合が、個々の作者の夢にも思わなかったものを産み出した。

 「旧約聖書を推理する—本当は誰が書いたか
 R.E.フリードマン P.323

2008-01-19[n年前へ]

伊藤正雄 「論文の作法」箇条書き 

 丸谷才一編集の「恋文から論文まで - 日本語で生きる・3 -」(福武書店)が面白かった。この本には、さまざまな題材の文章が集められていて、純粋に「その題材に関する文章」として読んでも面白いし、それを「文章の書き方教本」として読むことも容易にできる本だ。

 この「恋文から論文まで」に収録されている、国文学者である伊藤正雄が書いた「論文の作法」がとても簡易でわかりやすかった。そこで、自分用に要約文を写した。

書くことは、自分の思想を明確にし、豊富にする最大の手段である。自分の文章に絶対の責任を持つこと、自分の思うことを誤解なく人に伝える親切心と苦心、これが貴重なのだ。
  1. 冗長な長編よりも、簡潔で充実した短編を心がける。
    • どんな短い文章でも、短いなりにちゃんとした使命がある。短くて、しかもその使命がハッキリ果たされた文章ほど名文である。
  2. 題意にあまり関係しないことは、思い切って切り捨てる。
  3. 他人の引用が多過ぎないようにする。
  4. 難しい言葉を使わず、やさしい表現を心がける。
    • 平明達意は文章の極意である。
    • むずかしいことを追求していった最後のエッセンスは、案外、やさしいことに落ちつくんじゃないか。そして、そこに行き着くのは。心の素直な人でなくてはダメじゃないか。
    • 真の名文とは、最も個性的な意見を、最も平易な言葉で、最も正確に表現したものに他ならない。
  5. ところどころに、見出しをつける。
  6. 文章の段落をよく考えて、妥当なところで行を改める。
  7. 句読点を正しくつける。
  8. カッコなどの符号を使いわかりやすくする。
  9. センテンスはなるべく短くする。
  10. 「用語の言い換え」により、用語の反復による字面の単調化を避ける。
  11. センテンスの結びに変化をつける。
  12. 推敲の時間を惜しまない。
すべて文章は、他人の貴重な時間と労力とを費やして読んでもらうものなのだから、できるだけ読みやすく書くというエチケットとサービス精神とを忘れてはならぬ。



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