2005-01-30[n年前へ]
2005-02-11[n年前へ]
■「四捨五入と五捨五入」
おれカネゴン「算数記」経由で「日記における四捨五入」を読んでみる。「自分の中の何かを四捨五入して、切り捨ててみたり・切り上げてみたり、そういう感覚はあるかもね」なんて考えながら、ふと、心に思い浮かぶのは四捨五入ではなくて、五捨五入(JIS Z 8401 特にiii項)(ISO31-0)。
自分の中の何かだったり、自分自身が、四捨五入される感覚というのはありがちなものだと思う。今時の季節であれば、もしかしたら受験生なんかはそんな感覚を持つことも多いかもしれない。四と五ではほんの一つしか違わないのに、四捨五入後には大違いになるのだから、自分の力が四以下にならないように、なんとか五以上までがんばって上げないと…なんて思ったりしたことがある人も多いかもしれない。捨てられるか捨てられないかの瀬戸際で、自分自身の桁の数値を大きくしてみようか、なんて思ったことがある人もいるかもしれない。
四捨五入では、「どこかの桁」が切り捨てられるか切り上げられるかは、その桁自身の値の大小で決まる。ところが、五捨五入だと(もちろん、この方法を使う必然性があるわけだけれども)その桁を切り捨てるか・切り上げるかは、(その桁ではなくて)その上の桁が偶数か奇数かで決めてしまう。つまりは、自分が切り捨てられるか切り上げられるかの運命決定権は自分の上の桁が持っていて、その桁がサイコロを適当に振って自分の行く末を決めてしまう。「自分を四捨五入する」と「自分が五捨五入される」のと、どちらがありがちなのかはわからないけれど、どちらもよくありそうな話だ。
「日記における四捨五入」の話に戻るなら、「四捨五入は必ずプラス側に誤差を生じる」という言葉を、この場合にはポジティブに眺めてみるのも、それはそれで良いのかもしれない。今回のような話題であれば、そういったこともあるかもしれないから。「四捨五入で必ずプラス側にシフトする」といったようなことが、少しはあるかもしれないから。
(ところで、こんな話題を書こうとする時、いつも「おれカネゴン文体」霊に憑依されそうになるのは一体何故なのだろう【人は誰しもおれカネゴン】)
2005-02-19[n年前へ]
■『○×的センス』と『ことばを「発信」する意義について』
(ご本人の気持ちはさておき)本にしたいですよね。 そうそう、「理系センス」の話題でななゑさんにファンとしてメールを書いたことがあります。恥ずかしくも、ファン・メールというものを書いたのは、その一通のみ、です。
そういえば、それは「わしが見てるコレって本物? ☆その人ビヂョン☆」の日記の頃でした。
『ことばを「発信」する意義について』という言葉で始まる一節が書かれていた、「ファン・メールに対するななゑさんからの返事メール」は私の宝物の一つです。ファンですから、引用したくなるくらい感銘を受ける言葉が詰まっていました(もちろん、宝物ですから引用したりはしませんが)。
わしが見てるコレって本物? わしが聞いたコレって本当?わしらはいつもそういったギモンを胸に抱き、できれば見る、何回も見る、そして聞く、何回も聞く、そして自分にいま一度問うてみる、そんな姿勢とミミ掃除が肝要だと思うのである。
ちゃろん日記(仮)2000/1/20
「わしが見てるコレって本物?」
2005-03-05[n年前へ]
■今年の折田先生
今年も京都大学に折田先生がやってきた。受験生達が大学にやってくるのに時を合わせて、アメリカン・ヒーローのスーパーマンならぬ、Dr.スランプのスッパマンがやってきた。
「折田彦市先生は、…京大に自由の学風を築くために多大な功績を残した人です」という看板に対し、下記のような大学事務局の対応(その後)も良い感じかも。より、詳しくは偉大なる折田先生・その八を読むべし。
折田先生像の制作者の方へこの素晴らしい芸術的作品をおこの場所に展示しておくことは、盗難もしくは損傷の危険性が考えられますので、(以下省略)
2005-05-07[n年前へ]
■「失踪日記」 /いしかわじゅん
「主に、サインペンというかミリペンというか、均一な線で多少滲みがあって抵抗の少ないペンで描いている。これは、(…)結果として、吾妻の意図するものとは違うものができてしまう。違う意味のものになってしまう。与える印象も違うものになっている。絵は、内容をも規定するのだ。 (…)絶望がある。しかし捨てない矜持がある。吾妻は、また復活すると思う」という「失踪日記」いしかわじゅん.