2007-08-23[n年前へ]
■うれしい一日
wgetでコンテンツをダウンロードしたサイトが二つある。そして、ファンレターを書いたサイトが一つだけある。wgetでダウンロードしたサイトは、「今日の必ずトクする一言」で、wgetでダウンロードもして、なおかつ、ファンレターも書いたのは、もちろん「ちゃろん日記(仮)」だ。その観察眼と、その目が眺める景色と、その文章がとても好きだった。
だから、「ちゃろん日記(仮)」は更新が途絶えてからも、時折、眺めに行っていた。そういうわけで、今日も、眺めに行くと、「ちゃろん日記(仮)移転のお知らせ」と、更新されていた。
思えばこの数年でweb日記はブログに進化(?)し、いまや1人1つはブログを持っているイキオイな時代です。
2007-09-06[n年前へ]
■「バカでヘン」
男の子は皆「バカでヘン」です。女の子は「意地悪」
ちゃろん日記2000(仮)を読んだことのない人は、ぜひぜひ読んでみて下さいな。私の今でも一番のお気に入り。
ちなみにそのまま大きくなるので、「オトコ」という生き物も基本的に「バカでヘン」だと思って間違いありません。
もしも本当に、「前世」というものがあるのなら、私の「前世」は、絶対に男だったと思う。ちゃろん日記(仮) 1997/09/07
「バカ」と「意地悪」が共に暮らす人間社会。いろいろあって当たり前ですね
2007-09-22[n年前へ]
■選択肢と幸せ
「選択肢が多いほど、人は幸せになる」という言葉を聞きました。それは、「選択肢の多さは人を幸せにしない」という友野教授の言葉 とは正反対の言葉に聞こえます。
問題は、その不幸な出来事を、ちゃんと距離を持って突き放せるかどうか、だけです。
新明解国語辞典で「座右の銘」という言葉の意味を調べてみると、こんな風に書いてありました。常に自分を高めようと心がける人が、折に触れて思い出し、自分のはげまし・戒めとする言葉
相反する選択肢が増えたとしても、選ぶことができる選択肢は一つです。選択肢が増えるということは、「選べない選択肢」が増えてしまうということに思えます。
不幸との距離は、書いていくことで生まれることが多いです。それは、日記と似ています。眠れない夜、日記を書くことで、かろうじて今日起こった出来事を整理できるのです。
2008-04-18[n年前へ]
■「自分で作った道具」で「自分が作るもの」と「クラス分け」
よく、「使う道具次第で、作る内容は違ってくる」と言われる。インターネット上の道具で言えば、ネット関連の日記ツールの「指向性」次第で、そのツールを使って書かれる内容は異なってくる、と言われる。もしも、繋がりを作るのが容易なツールであれば、繋がりを意識した内容になるだろうし、「意識して作業しなければ繋がりが作られないツール」を使うのであれば、あまり繋がりを意識した内容にはならない。コメントを重視した道具であればコメント主体になるし、コンテンツ志向の道具であれば、当然コンテンツが充実してくる。それは、自然なことだと思う。
なぜそれが自然かと言うと、多くの場合、道具が指向する方向を、それを使う人は意識するからだろう。その道具が得意な方向に、つまり道具が導く流れの(一言で言ってしまえば楽に作業できる)方向に、人の努力は向かう。だから、「使う道具次第で、作る内容は違ってくる」のだと思っている。
少し前に、サーバアプリを(静的HTML+hns(hyper nikki system)から自作ツールに変えた時、つまりWEBサーバ側のコンテンツ作成ツールを開発しようとした際には、WEBサーバに「どんな内容のことを書き連ね・どんなものを溜めている(溜めたい)のだろうか」ということを考えた。「使う道具次第で、作る内容は違ってくる」のが真実だとしたら、どんな「道具を作るべきなのか=どんなことを(その道具を使って)作りたいのか」を考え直す作業をした。
「自分が何かを書くために、そのためのツールを作る」というのはとても新鮮な作業だった。なぜなら、結局のところ、それは「自分が何をしたいのか」ということを考える作業でもあったからだ。
サーバアプリはRailsを使って適当に作った。その構造を大雑把に言えば、画像アップロード・他サイトリンク(リンク先サムネイル作成/全文キャッシュ)などの機能を備えたContentクラスを作り、Contentクラスを継承して、Articleクラス(できるかな?)とMemoクラス(inside out)とBookmarkクラス(現状Tech-logs)があり、それら全てのContentを継承したクラス間をKeywordクラスが(Keywordクラス自身も含め)繋いでいる、という具合である。そういったクラス継承に頼った道具の造り・構造は、Ruby on Railsという道具をさらに使ったためである。(また、デザイン/CSSはtDiary系互換にし、自分でそういった作業をすることは止めた。)
Article(できるかな?)とMemo(inside out)とBookmark(現状Tech-logs) という各クラス分けされた道具に影響され、それまでとは書く位置づけ・方向性はやはり異なってきたように思う。inside outからは、コメント程度のBookmark的要素(現状Tech-logs)が消え、その分、Articleクラス(できるかな?)に近づき、Articleクラスからは、Memoクラス(inside out)的に書いた小品は消える、という具合だ。
とりあえず、自分のために作ったツールだから、自分が使うためには一番いい。けれど、クラス分けし過ぎたような気にもなる。本来、曖昧な境界線しかないものを、別なものとしてクラス分けしたことの弊害が、きっとどこかに出てくるに違いない。キーワードでその分離を補うことを狙ったのだけれど、キーワード連携ではどうやら力不足のようだ。
2009-05-17[n年前へ]
■「赤毛のアン」と「モンゴメリ」と「日記」
『『赤毛のアン』を書きたくなかったモンゴメリ 』『誰も知らない「赤毛のアン」―背景を探る 』『L・M・モンゴメリー―「赤毛のアン」の素顔 (生き方の研究) 』『「赤毛のアン」の秘密 』『モンゴメリ日記〈1897~1900〉―愛、その光と影 』とたて続けにモンゴメリ関連の本を読んだ。本人も含め、何人もの人が書いている「モンゴメリには多少の差はあるが、それほどかけ離れた姿ではない。けれど、アニメで見た「赤毛のアン」の印象からすると、ずいぶんと、意外な姿の、それは確かに「赤毛のアン」の主人公と重なる部分も多くあるにも関わらず、意外な「モンゴメリ」がどの本でも描かれている。
彼女には、さまざまな顔がる。私は、彼女の日記をとおして、こうした多面性を持つ一人の女性作家にますます興味をひかれる。
『誰も知らない「赤毛のアン」―背景を探る 』 (p.197)
モンゴメリ関連書を読んでから「赤毛のアン」を読むと、「赤毛のアン」をもっと興味深く読むことができそうな気がする。
そういえば、1年間ほど、(モンゴメリが暮らしていた)プリンス・エドワード島出身の男性に英語を習っていたことがある。彼は、「プリンス・エドワード島は何もないところだ」と言っていた。「旅行で行ったとしても、本当に何もないよ」と、確か、言っていたように思う。・・・いつか、行ってみたいと思う。
彼女を知る多くの人は、付き合いの深い親戚を含めて、日記に仰天した。その個人的な記事は、みんなの知る女性とは似ても似つかぬものだった。
『L・M・モンゴメリー―「赤毛のアン」の素顔 (生き方の研究) 』(p.189)