hirax.net::Keywords::「無限」のブログ



2007-10-04[n年前へ]

「過去」と「未来」 

 「過去」と「未来」自分が新しいと思う未来の世界と「理想化」された記憶の中の過去はニアリー・イコールだ、と思うことがあります。
 もし、あなたがそこで一番賢い人だとしたら、あなたは間違った場所にいる。
 これからの自分の前に拡がる未来の世界も、今までの自分の前に横たわっている過去の世界も、どちらも「自分の前」にある世界です。
 そんな風に、未来が過去と同じなら、私たちは過去と未来の「無限ループ」のメビウスの輪の表面にいるのかもしれません。
 やったこと全てが上手くいくなら、十分に挑戦してないってことさ。
 何度でも 何度でも 何度でも 立ち上がり呼ぶよ

2009-06-22[n年前へ]

人間の心は無限の資源で・・・ 

 ジェイムズ・P・ホーガン「断絶への航海 (ハヤカワ文庫SF) 」"VOYAGE from YESTERYEAR"から。

 無限から何かを引いても、残りは無限です。
 人間の心は無限の資源だって言ったけど、でもそれは無駄使いしないとしての話だ。これ、面白いパラドックスだと思いませんか?

2010-01-06[n年前へ]

無限の資源である人間と有限の時間というパラドクス 

 J.P.ホーガンの「断絶への航海 "VOYAGE from YESTERYEAR"(ハヤカワ文庫SF) 」から。

 「人間の心は無限の資源だって言ったけど、でもそれは無駄使いしないとしての話だ。これ、面白いパラドックスだと思いませんか?」

2010-04-16[n年前へ]

「あみだくじ無限ループ」を生み出す「(見えない)時空間ループ」 

 「なぁ、あみだくじで無限ループって作れるとおもうか?」という面白いスレッドを読みました。

 なぁ、あみだくじで無限ループって作れるとおもうか?
 このスレッドの中では、結局、「終わらないあみだくじは存在しない」という結論になっています。

 けれど、普通のあみだくじでなく、拡散方程式で考える「あみだくじ空間」と「(見えない)時空間ループ」で扱ったような、横線同士が交差していたり、同じ縦線同士を繋ぐ線があるような、普通ではないけれど「よくやりがちな」あみだくじなら、どうでしょうか。しかも、前回考えたように、そういう特殊線には実はゴールとスタート地点が繋がっている縦線が隠れているとしたら、どうでしょうか?たとえば、前回描いた下のような例です。

 「ゴールとスタート地点が繋がっている縦線」があるとするならば、「終わらないあみだくじ」は存在する。けれど、そのスタート地点もゴール地点も表には出てこない(隠されている)からその存在を意識しないだけ、ということになります。具体的には、上図に緑色の線で描いた経路です。この経路は、「終わらない」「無限ループ」になっています。ただし、その経路は(あみだくじの参加者にはスタート地点が)見えない「仮想縦線」なので、その存在に気付かないだけ、という具合です。

横線同士が交差していたり、同じ縦線同士を繋ぐ線の後ろに「仮想縦線」が隠れていると考えてみると、あみだくじの「(スタート地点とゴールとの)一対一対応といった特性はそのままに(それ以外の特性も前回考えたようにそのままに)、「あみだくじの無限ループ線」が存在しうる、ということになります。

 何だか、ちょっと面白いと思いませんか?

2010-09-10[n年前へ]

「無限」に足しあわされた「有限の世界」 

 「無限個の数字を足し合わせていった結果(和)が、意外なほどに小さな有限の数になる」ことを不思議だと感じない人は多いと思います。たとえば、A4サイズの紙を半分に折って、その半分をさらに折って、その半分をさらに折って・・・と、無限に折り続けても、その紙片の総和はたかだかA4サイズに過ぎません。「無限の個数を足し合わせても有限の大きさにしかならないこと」も別に不思議ではないし、「有限の大きさのものを切り分けて、無限の個数のものをつくることができる」のも、当たり前田のクラッカーだ、という感じ方です。

 そういう人であっても、その「内容」次第で、第一印象でその内容を「自然」と感じるか「不思議」と感じるかは違うのではないでしょうか。たとえば、「アキレスと亀」のパラドクスを不思議だと感じる人もいます。その一方で、「無限個の時間を足し合わせた結果は、無限になることもあれば、有限になることもある。そして、この例の場合には和は有限になる」と自然に思う人であれば、この「アキレスと亀」の話には、特に興味を持たずに終わるかもしれません。

 あるいは、「地点Aから地点Bへ移動するためには、まず地点Aと地点Bの中間地点Cに到達しなければならない。さらにCからBへ移動するためには、その中間地点を経なければならない。・・・ということを延々考えてみるならば、地点Aから地点Bまで移動するには無限の点を通過しなければならず、有限の時間で移動することは不可能である」という「内容」を、自然に納得し・あたまをひねってしまう人もいるでしょうし、その一方で、そのロジックを聞いて頭を左右に振る人も多そうです。

 もしかしたら、初項a0,公比rの無限等比級数(等比数列の和)は「初項/(1-公比)」なのだから…と、いつでも、どんな問題に対しても常に同じような感覚を持つ人もいるかもしれません。

 ところで、こんな問題ならどうでしょう。「手元にボールがあり、このボールは、衝突のたびに運動エネルギーの半分を失います。ためしに、手の高さ、1mの高さから、そのボールを落としてみることにします。すると、そのボールは地面に衝突し、運動エネルギーの半分を失い、50cmの高さまで到達したのちに、また地面にぶつかり(さらに運動エネルギーの半分を失い)・・・ということを考えるとき、そのボールは無限時間運動を続けるか、それとも、有限時間内に停止するか?」という問題です。

 先ほどの式で示される有限時間でボールの運動エネルギーは消えてなくなると即答する人もいそうですし、もしかしたら、ボールの運動エネルギーは無限時間後までゼロになるわけがない、だからいつまでもボールは動き続けるに決まっていると断言する人もいそうです。

 「無限」「有限」というものほど、感覚を裏切るものはないのかもしれません。私たちの世界はまさに「無限」だとも言えるかもしれませんし、それこそ「有限」だと感じることも多いかもしれません。無限の可能性もあることも真実ですし、それと同時に、その世界には有限の時間しかないことも、これまた事実です。

 「無限」のはずの「有限の世界」を目の前にして、あなたはどんなことを考えるでしょうか?「無限」と「有限」とパラドクスを読んで、あなたの連想することは一体どんなことでしょうか。



■Powered by yagm.net