2010-02-13[n年前へ]
■フィギアスケートの「芸術点」と「プレゼンテーション」と「定量化」
昔、フィギアスケート競技を観ていると、「技術点」と「芸術点」というふたつの言葉を解説者が語るのをよく聞いた気がする。どの程度の難易度の技を、どのように行っていったかを評価する技術点というのは、まだわかりやすいような気がしたけれども、「芸術点」というものは何だか少しわかりづらく感じて苦手だった。
その「芸術点」=Artistic Impression はいつの間にか、プレゼンテーション・スコア=Ppresentation Score と名前を変え、さらには構成点=Program Component Scoreというように名称が変わっていた。「芸術点」が「プレゼンテーション・スコア」そして「構成点」と名前を変えれば、かつて感じた「わかりづらさ」「基準のなさ」が消えるかと思いきや、むしろ、「技術点」とどのように違うのかがわかりづらいものに思え、何だかつまらなくなってしまったような気がする。
「芸術点」という基準のわかりづらい曖昧模糊とした点数が、どのように、どれだけ、聴衆に何かを伝えるかという「点数」を体現する言葉に変わり、そして、「構成」="Components"というさらに具体的で基準がはっきりとしているように見える「点数」で争われるようになっている。
しかし、曖昧で、あやふやな Artistic Impression という言葉の方が、Program Component Score という言葉よりも、心を動かされる度合いを的確に現わしている言葉のような気がする。
一見すると確かなものに感じられる数値の方が実はとても曖昧であやふやなもので、曖昧に見えるものの方が本当はとても確実なものだということは、よくあることではないかと思う。
"I want to be with you the rest of my life. Will you marry me?"下に張り付けた動画の中では、"Score"とか"Presentation"とか、さまざまな言葉が出てくる。その言葉、ひとつひとつを聞きつつ、その言葉を発した解説者と同じように心動かされる。
"Yes."
Announcement: "Obviously, she said, yes."
2010-09-07[n年前へ]
■「科学的でも論理的でもありません」
「12星座の恋物語 」から。
「おはなし」は、科学的でも論理的でもありませんが、そのなかにたくさんの知恵や共感すべきエッセンスを含んでいることが多くあります。
この一文を読み、江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません 」を連想したので、このクリップは「科学的でも論理的でもありません」という題にしてみました。
2011-04-10[n年前へ]
■「他人」はそれぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ
自分と違う「他」の人を他人と呼びます。他人は自分と異なる人なのですから、それぞれが使う言葉(語句)の「意味するところ」も異なるし、考え方(ロジック)も、あるいは、それらを支える根本たる感じ方(価値観)も異なるわけです。
目の前に考え方や感覚や言葉使いが未知の人がいたとして、「必ず相手を理解することができる」とも思えませんが、会話をするためには一体どうすれば良いものなのでしょう?
自分でない他の人と言葉を交わそうとする時には、その3つの違がどのような風であるかを考え・推測する、という作業が重要であるように思います。
まず、「その人の使う言葉を、自分が使う言葉とは別のものと考えて、その人が話す言葉の論理の中での矛盾を最小限にするよう、その人が持つ言葉の定義を見つけ出す」(そのようにすることで)その人の言葉の定義が決められた後に、「その人が話した言葉を通して、価値観の矛盾がないかどうか考える」 ただひたすらに、この一連の作業を、矛盾がなくなるまで反復を繰り返し続けることで、「この人はこういう感じ方・考え方をして、こういう言葉の使い方をする人なのだろうか」という推測をすることができるわけです。
そして、いつでも何らかの違和感(矛盾)を感じたならば、その違和感の元を見つけるための確認作業を行ってみる、という具合になります。何かを問いかけて、その反応を確認してみたりするわけです。
もちろん、こんな風に「その人の感じ方や言葉の使い方や考え方」といったものに対して、矛盾が存在しなくなるまでアレやコレやと考える・・・というのは少し面倒な作業です。だから、ある程度は用意された「パターン」に当てはめ・そしてテンプレートからの誤差分を修正するようにすることで、推測作業を簡素化して考えることも多いように思います。
こうした「テンプレート・マッチング」による他人の言葉や感じ方や考え方を推測する方法の欠点は、 自分がこれまで見たことがない・想定したことがない「未体験・未想定の感じ方・考え方をする」人を目の前にした時、大雑把にも対応させられそうなテンプレートがなく、さてどうしようか?と対応に困ってしまう・・・ということです。そんな時は、時間をかけつつ、新しいテンプレートを自分の中に作り上げていくことになるのでしょうか。言葉や論理あるいは価値観といったものは、本当のところ、「理解」なんていうことが可能であるのか、よくわかりません。まして、理解の先に存在しているかもしれないという「納得」ともなればなおさら、です。
それぞれ異なる「言葉や論理や価値観」を持つ人たちで溢(あふ)れ・互いにすれ違うこの時代、どんな風に考え・動くのが良いのでしょうか?
2012-02-21[n年前へ]
■「物質世界で起きていること」を「考えるための技術」
目の前で起きていることが、過去に起きたことのコピーのような繰り替えしでない限り、目の前で起きていることを理解するためには「単なる知識」とは違う種類の「技術」が必要になる。そんな、物質世界で起きていることを「考えるための技術」についてのアラン・ケイの言葉。 from 「n年前へ」から
私たちは子供を数学者や科学者や技術者にしようと思っているのではありません。私たちが子供がそうした考え(科学)を理解する手助けをしたいと思うのは、科学が、異なる思考方法やパワフルな思考方法を体現しているからです。
科学とは、この世界のことを、だまされずにもっとよく知る方法です。その中には、私たちの自分の脳の何が間違っているかを知る、ということも含まれています。
…科学は、物質世界で起きていることを考えるための言語として使われたのです。だから、子供たちが科学を学ぶことが大事なのです。
アラン・ケイ「科学とは、新しいアイデアを学ぶためのもの」
技術や科学は「目的」ではありません。けれど、それは有力な「道具」です。技術や科学を「目的」にするのは、多分何かしら未来を損なって眺めているような気がします。けれど、それが「目的」ではないと知っている限りにおいて、それは非常に有力な「道具」です。
2012-05-10[n年前へ]
■「適度な理屈」と「心を動かす物語」
「心を動かす何か、あるいは、感情を動かす力のベクトル」…そんな「何か」に「それっぽい論理」をトッピングすると、ひとりひとりを動かし…そして多くの人を動かします。
僕がマクロ経済学に飛びついたとき、現実の世界は不況で不安定になっていたわけです。そんなとき、「公共事業をやったり、お札をいっぱい印刷したりすれば安定な世界に戻るんだ」というケインズ理論はとても魅力的で、僕の”こうあってほしい世界観”に近くて、あこがれとか高揚感に近い楽しさを感じたんですね。
そこで思ったのは、自分が欲しがっている”あまりに魅力的な結論”を与えてくれる適度な理屈・ロジックに飛びついちゃったんじゃないか。
小島寛之
人を「動かす」ものが「良い」とか「悪い」とか、人を動かした「意志決定」が正しそうか・間違っていそうか…実に難しい問題です。