2003-09-04[n年前へ]
■「俺」「僕」「わたし」「私」と「あたし」「わし」
はてなダイアリーの一人称で眺める「WEB日記の立ち位置」
WEB日記の起源は土佐日記に遡る。そう書く理由は、土佐日記がWEB日記と同じく他人に読まれることを前提とした「日記」であったというだけではない。WEB日記の流行がさまざまなシステム、例えば「さるさる日記」「エンピツ」といった比較的簡単で使いやすいシステム・道具に支えられているように、土佐日記もまた「ひらがな」という新しく使いやすいシステム・道具の支えがあってこそ出現した、というのが何より一番の理由である。
そして、「土佐日記」に続く「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」といった、「土佐日記」後の日記文学を支えていったのが全て女性達だったのと同じく、それから千年後のWEB日記文学の黎明期を支えたのも「ちゃろん日記(仮)」「バブルの逆襲」「菜摘ひかるの性的冒険」といったよな女性達だったということもWEB日記の起源を土佐日記に遡らせたくなる理由の一つなのである。
また、土佐日記が書かれたのが1000年以上も前であるにも関わらず、そういった「日記」と「女性」という不思議な繋がりを意識したのかしないのか、書き手である紀貫之が女性を装いながら日記を書くという「ネカマ」テクニックを先取りしていた、というのも実に先見の明がある。まるで、紀貫之が千年後のネットワーク社会を見通していたかのようなのである。というわけで、WEB日記の起源を土佐日記に求めてみるのもそう不自然な話というわけではないように思われる。
千年前の土佐日記から続いてきた「他人に読まれることを前提とした日記」も、最近では他人のWEB日記にコメントを書きこむことができたり、他人のWEB日記に対し自分のWEB日記からコメントが自動的にされるようになってきたりと、少しづつ変わりつつあるようだ。他人に単に日記を読ませることができるというだけでなく、他人に日記の一部を書かせてみたり、他人の日記へ口をはさんだりするということが普通にできるとなれば、それは千年前に比べて大きく「道具」が発展すると言っても良いのかもしれない。だとすれば、道具の発展がそれを使うものの意識を変えていくことがしばしばあるように、WEB日記を支えるシステムが大きく変わっていくのであれば、WEB日記を書いている人達の意識がどのように変化していくかが非常に気になるところだ。他人に対して日記を公開するという意識、あるいは他人の日記の「公共性」への意識がどう変わっていくのかはとても気になるところである。
そこで、WEB日記の書き手の意識を探るために、WEB日記システムの一つである「はてなダイアリー」のはてなダイアリー利用者に100の質問に答えた人達の中から50人を抽出し、次の2点、
- 家族・友人(他人)にはてなダイアリのURLを教えているか
- 他人の日記にコメントをつけたことがあるか
- 日記の中で一人称には何を使っているか
- 男性か女性か
- どのように自分を語っているか
- どのように名乗っているか
まずは、「性別と一人称の相関関係」を下に示してみる。このグラフは、男・女に対する各一人称の相関関係を示しており、縦軸の上方向が「男と相関が高い=男性がよく使っている」一人称であり、下方向が「女と相関が高い=女性がよく使っている」一人称であることを示している。
そして、次に示すグラフは「家族(友人)にはてなダイアリのURLを教えているか」ということに対する相関値(≒家族への距離)を縦軸にとり、「他人の日記にコメントをつけたことがあるか」ということに対する相関値(≒他人への距離)を横軸にとり、各一人称を配置させてみたものである。縦軸の「家族(友人)にはてなダイアリのURLを教えているか」という設問に関しては答えている人達が主に「家族へ日記を教えているか」という意識で答えているようだったので、ここでは縦軸は「家族への(日記の)距離」というように捉えてみた。そして、横軸の「他人の日記にコメントをつけたことがあるか」という設問は「他人の日記への距離」というように捉えてみた。
このグラフを見ると、不思議なことに「家族に近い日記」の書き手は「他人の日記」に遠く、「家族から遠い日記」の書き手は「他人の日記」に近いということが判る。つまり、「家族への近さ」と「他人への近さ」は反比例するという不思議な関係がある。そして、女性は家庭に近く他人にはちょっと距離をおいているが、男性は家庭から遠く他人への距離が近い、なんていう姿も見えてくる。ありがちな男女像ではあるのだけれど、そんな像が見えてくるのである。
とはいえ、男性であっても「俺」を一人称に使うような書き手はあまり他人の日記へ書き込みはしないとか、男性でも「僕」を使うような書き手は家族を近く意識しつつも同時に他人へも近い、なんていうことも判る。また、「私」と「わたし」は家族への距離は同じくらいであるにも関わらず、他人への距離は正反対の関係にあって「私」を使う人はあまり他人の日記へは書き込まないが、「わたし」を使う人はある程度他人の日記に書き込みをしているなんていうことも判るのである。
人それぞれ自分を語る一人称が異なるように、それぞれの日記ももちろんそれぞれ立ち位置が異なっている。その立ち位置の違いの原因は書いている人達自体の違いということは当然あるに違いない。しかし、同時にその人達の日記を支えている道具の違いということもある程度は影響を与えているに違いないと想像する。そこで、今回ははてなダイアリの書き手50人を眺めてみたが、次回以降では違う日記システムの書き手達も眺めてみたいと思う。そして、道具が少しづつ変わっていく中で、その道具を使って書かれている日記が、あるいは何処かで生まれるだろう新たな日記文学が、どのように変わっていくのかを考えてみたいと思う。
2003-10-05[n年前へ]
■偽札作りの年齢分布や作成場所分布
「午後プリンター購入、夜には偽札60枚使用」という記事を見て思い出した先週眺めたこんなスライド。スライドの内容は「偽札作りの犯人の年齢分布」「犯人が偽札作りを行った場所」「偽札作りの道具」。一番若い犯人は八歳とか、仕事場で作る人も多いとか、色んな面白いことが判る。
2004-04-19[n年前へ]
■「グッド=善」は何かをなくす
最近眺めた「グッド」&「バッド」で頭に浮かんだことをとりとめなく書いてみる。
「グッド」ラッパーは何かの文化を終わらせる。炊飯器のおかげで、ご飯の上手い炊き方なんて忘れてしまった。ワープロやFEPのおかげで、それ無しでは簡単な漢字すら書けなくなってしまった。PICのおかげで、電子回路を組む気力も消え失せた。そんな道具のおかげで、私は確実に楽になっている。だから、きっとそんな道具はみんな「グッド」ラッパーなんだろう。何か気にかかることを忘れたような気もするけれど、それを自分で選んだわけでもあるし、やはりそれは「グッド」なんだろうか。
イラクの人質の解放のために自衛隊撤兵を求める署名へを勧めつつ「しない善より、する偽善」と書く文を見た。「偽善」と思いつつそれを書いているのだろうか?それとも、実は「善」だと捉えているのだろうか?「しない善」を選ぶ人の姿を書き手は想像しているだろうか?「偽善」を標榜する「善」にはなってはいないだろうか。
When shall we meet again? When the hurlyburly's done, When the battle's lost and won. Fair is foul, and foul is fair. Shakespeare "Macbeth"
2004-05-12[n年前へ]
■Tech総研「未来の可視化」編
「思いこみパワーで未来が見える」ニュースの中から、今日は「未来の可視化」に関するニュースがTech総研で公開です。いえ、実際には「過去と未来と現在の可視化」の三つのニュースです。過去を眺め、未来を眺め、そしてその境界にいる今現在を可視化して眺めてみるニュースです。色んな道具を使って可視化された過去・現在・未来を眺めて、何かを、例えば良し悪しでも考えてみることにしましょうか。あるいは、考え無しにただ眺めてみるのも良いかもしれませんね。
ちなみに、男性の場合には、マイクロスコープで自分の毛根を可視化したりしてはイケマセン。哀しい現実が見えて、さらに暗い未来が想像されてしまうので、気分が滅入ること間違いなしです。
2004-05-17[n年前へ]
■たくさんの「ドラえもん」と「のび太」たち
バッドノウハウカンファレンスのレポートを眺めた中で、とても惹かれたのがこの文章。
毎日のように問題にぶち当たるのび太と、適当な道具を与えたつもりが失敗を繰り返させてしまうドラえもん。どちらも未熟でどうしようもないですが、一方で彼らの信頼関係や甘い失敗劇に、ぼくらは羨望を禁じえません。そういえば、高校時代の英語の先生の一人の口癖が「他人に頼るばかりで、自分で戦おうとしない。日本人を駄目にしたのは『ドラえもん』というマンガだ」というものだった。けれど、私にはその言葉に少しの違和感があった。二十年近く経って、ようやくその違和感の原因を知ることができた。私の師事した英語の先生も、おそらく「子供たちがのび太に自分を重ねながら、ドラえもんを読んでいるだろう」と考えていたに違いない。「でも、ドラえもんになりたいと思った人はいるだろうか。きっと少ないだろう」と考えていたに違いない。そこに、おそらくその人と私の感じ方の違いがあったのだと思う。その感じ方の違いが私に違和感を感じさせていたのだろう、と思う。
もし勝手に今日だけの「オレ定義」をしてしまうなら、(少なくとも一部分的にでも)ドラえもんになりたいと思ったことがある人を(潜在的)技術系の人だということにしよう。私たちはきっとのび太ではなく、ドラえもんになりたかったのだと思う。あるいは、ドラえもんを作り出すのび太になりたかったのではないだろうか、と思う。だから、(例えば)エンジニア達は自分達自身を自分より人を助けることを大切に思う人だと思いこんでいるのだ。
「でも、ドラえもんになりたいと思った人はいるだろうか。きっと少ないだろう」と語る人に、そんなドラえもんになりたかった子供たちの気持ちをぜひ想像してみてもらいたい、と思う。