hirax.net::Keywords::「Scraps」のブログ



2001-01-02[n年前へ]

KYOTO 2001 

Motions on Camera



 京都の「五山送り火」が初めて大晦日にも行われた。「二十一世紀が始まる記念」というわけで、由緒正しいしきたりをたまには変えて「五山送り火」を大晦日にやってみよう、というわけだ。「昔から続けてきたしきたり」という伝統と、それをたまにはちょっと変えてやってみようという新しいことが混沌として両立しているところが実に京都らしくてちょっと面白い。京都という街は古くから同じ場所にずっと居るわけだけれど、自縛霊のようにじっとしているかというとそういうわけでもなくて、何故か同じ場所でずっと動き続けている。そんな「動き続ける自縛霊」が京都だと私は思う。

 この夜は、珍しい「大晦日に燃え上がる大文字」を見るために、三条大橋の上にはもうたくさんの人がいた。もう、大文字はその文字通りの「人混み」の彼方にやっと見えたというくらい、人が多かった。ところが、その時に三条大橋の上で撮影したこの写真にはそのひどい人混みは写っていない。

 何故かというと、この写真を撮るのに露出時間が数秒程度かかってしまったからだ。そのシャッターが開いていた数秒間の間に動いていたものはぼやけてしまい、写真には写らなかったのである。だから、この写真にはカメラの前を歩いていたたくさんの人達はほとんど写っていない。もちろん、よく見ればかすかに歩いていく人の姿が見えるような気もするけれど、やはりそれでもはっきりとは見えないだろう。結局、この写真には「動いていく人々」は写らずに、「動かないもの」だけが写ったわけだ。

 もし、この写真に動かずに佇んでいる人が写っていたとしたら、どうなるだろうか?ずっと同じ場所で佇んで考えごとでもしている人がいたら、その人はきっとこの写真に写ったに違いない。それはもう自縛霊みたいなものだ。そこにうつっているのは単に「考えている人」ではなくて、もしかしたら自縛霊のように「同じ場所でずっと動かない思い」みたいなものかもしれない。

 ところで、この写真はデジカメで撮った。だから、撮影した画面をその場で確認した時には、ちょっと不思議な気分になった。人だらけの三条大橋の喧噪の中で、誰も写っていない三条大橋の写真を見ていると、この写真に写っているものは一体何なのという疑問が頭の片隅にふと浮かんでしまった。写真に写っているものが一体何で、写真に写っていないのか一体何なのかなんてちょっと考えてみたけど、酔っぱらいの私には何だかよくわからなかった。

2001-02-22[n年前へ]

Having Lost Kittens 

デスクトップの隣に


  夢を見た。たいていの夢がそうであるように、夢の内容をほとんど思い出すことができないのだけれど、何故か迷子の子ネコたちが泣いてばかりいる夢だった。夢の中では、童謡そのままに、子ネコたちを前にしていぬのおまわりさんが困ってしまっていたような気もする。つまりは、夢を見ていた人以外にはわけのわからない話だろう。
 その日、2月22日が「猫の日」だったことを知ったのは、たぶんその次の日だ。あるいは、知ったのはもっと後だったかもしれない。とにかく、その夢を見ていた時、私はそんなことは全然知らなかった。
 

 そういえば、私はネコを飼っている。といっても、そのネコが暮らしている世界は私のデスクトップの中である。一言で言ってしまえば、そのネコは誰でも知ってるnekoだ。いつもバックグラウンドで動かしているので、私の汚いデスクトップではなかなか見ることができなかったりするのだけれど、このkonekoたちはいつもいつも「私が作業している画面の後ろ」にいるのである。
 
 

 ところで、私の職場のデスクトップにはこんな風に二つの液晶画面が並んでいる。片方はデスクトップPCに繋がった普通の液晶ディスプレイで、もう片方はノートPCの液晶画面だ。結局、二つのPCの画面が並んでいるわけだけど、どこドアでキーボードとマウスを共有している。

 共有しているなんて言ってしまうと堅苦しく聞こえるのだけれど、マウスが画面の端にくると隣の液晶の画面へマウスのコントロールが移るようになっているだけだ。例えば、左のデスクトップPCに繋がった液晶ディスプレイの中でマウスを右端に持っていくと、カーソルがいつの間にか右のノートPCの液晶の中に移動していくのである。マウスは二つの隣り合った液晶画面の間を自由自在に動くのである。

 それに加えて、LANクリップボードで両者のクリップボードも共有しているので、こうなるともう二つのPCを使っているという意識が消えてしまいそうな程、とてもシームレスな二つのデスクトップを使って私は作業していることになる。

 そんな風にして、私が操るマウスの方は二つの液晶画面の間を自由自在に動くわけだけれど、私が飼っているネコたちは同じようにはいかない。一つの液晶画面の中、つまりは一台のPCに繋がったPCの中でしか動けないのである。マウスを追いかけて、左の液晶画面の中から右のノートPC液晶画面の方へ行こうとしても、隣の画面の中に入っていくなんてことはできずに、ただ画面の端をガリガリと爪でひっかいているだけなのである。

 迷子の子ネコたちの夢を見てから数日後、何故か上手く回らない頭でこのデスクトップを眺めていると、その中のネコたちがまるで夢の中で泣いていた子ネコたちのように見えた。迷子になって、自分の居場所から遠く離れて泣いていた子ネコたちのように見えたのである。

 その時ふと、このnekoをどこドアと同じようにネットワーク対応にしてみよう、と思い始めたのである。ネットワークに繋がっているPCのデスクトップの中を駆けめぐることのできるようにすれば、このkoneko達は画面の端をガリガリと爪でひっかくなんてことはしなくて済むかもしれない。そうすれば、私のデスクトップの上では、konekoたちは二つの液晶画面、二つのPCの中を自由自在に走り回るだろう。

 そうなれば、もうそのkonekoたちにとっては、離れたデスクトップであっても、それはもうすぐ隣みたいなものになるかもしれない。
 
 
 

2001-02-26[n年前へ]

過去を見る右目と、未来を見る左目と、 

Left Eye


  下の写真は2週間程前に撮ったものだ。同じような二枚の写真が横に並んでいるから、容易にわかると思うが、これもある種の立体写真だ。いつもと同じように平行法で眺めてみれば、ちょっと不思議な感じの立体写真に見えると思う。
 

とある街の風景
(左の写真を左目で、右の写真を右目で眺める)

 これは前回の立体画像とは違って、「異なる場所から撮った二枚の画像」を眺めているわけではない。同じ場所から連写した二枚の写真を、ただ並べてみただけのものである。つまり、「異なる時間から撮った二枚の写真」を左右の目で眺めているのである。つまり、この二枚の写真は右・左の順で撮られているので、この写真を眺めるとき、私たちの右目(righteye)は過去を、そして左目(left eye)は未来を見ていることになる。

 そして、街の景色は変わらないけれど、道を走る車は当然のごとく動いている。だから、車の位置は離れた時間を見ている左右の目には異なって写る。すると、私達は不思議な立体感を感じることになる。時間を立体的に左右の目で眺めることができるのである。

 これまで眺めてきた立体写真は、「空間的に異なる視点から眺めた景色」を左右の目で眺めていた。そんな立体写真では、離れた場所から眺めてみても変わらずに見えるものは背景となって埋没し、離れた場所から眺めたときに姿を変えるものは背景から浮かび上がって見えた。

 今回の二枚の写真は、空間的には同じ場所だけど、時間的には違う場所から眺めているのだから、やはり「異なる視点から撮った写真」に他ならない。だから、この写真を眺めるときに私達は時間を立体的に眺めていることになる。時間が経っても変わらなかったものは、背景となって埋没し、「時間と共に変わっていくもの」が背景から浮かび上がり、あるいは、背景のさらに背後に引っ込んでしまう。そんな景色を眺めるとき、私達は時が流れていくさまを両目で見ることになる。私達の過去を見る右目と、そして未来を見る左目と、私達は同じはずの場所に立っているにも関わらず、その両目から見る景色の違いに驚くのだ。
 

 そんなことは写真だけでなくて、どんなものでも同じことだろう。例えば、言葉だってそうだ。同じようなことを書いているだけなのに、時間が流れているせいなのか、あるいは他の何かのせいなのか、言葉から受ける印象は刻々と変わっていく。同じ言葉を書いていても、読んでいても、時間が経つと共にその言葉の姿は何故か変わる。同じはずの言葉が、姿を変え、意味を変え、違う印象を与える。

 上の写真の中から「変わっていったもの」が背景から浮かび上がり、私達の目の前に飛び出してきたように、言葉の場合も同じ言葉だったはずの言葉が何故か背景から浮かび上がって、私達に迫ってくることになるのかもしれない。何故だかわからないけれど、前回の最後

 のこされたものは、のこされた瞳(left eye)で、のこされた夢を見続ける義務がある、… いや自由がある
を読み直しながら、私はそんなことを考えてみたりした。
 

2001-03-31[n年前へ]

Inside out 

Liberation





 M.C.Escherの画集を眺めていた。その中のLiberationというリトグラフが、ちょっと千羽鶴がぶらさがっている姿に似ていて、何故だか気に入った。千羽鶴に姿が似ている、というわけで、このLiberationは私にちょっと折り紙を連想させた。何しろ、私が折ることのできる折り紙は折り鶴だけなのである。

 折り紙と言えば、その技法の一つに"Inside out"というものがある。なんでも、「折り紙の裏と表をうまく利用して作品に色や模様を折り出す技法」だという。裏と表とで色や模様が違う紙を使って折り紙を折れば、裏が見えるところと表が見えるところが組合わせて違う模様を表すことができるわけだ。
 

 もちろん、それは表と裏が分けられるからできることだろう。もしも、表と裏が分けることができないものであったら、そんな折り紙の技法みたいな"Insideout"はできないに違いない。いや、もしかしたらできそうな気もするから、「できそうにない」と言い換えておこう。

 例えば、このページのトップにある「クラインの壺」やM.C.Escherがよく描いた「メビウスの輪」では裏や表なんていう風に表面を分けることはできない。だから、そこには表も裏もないから、「裏と表を利用して」なんていう折り紙の技法としての"Insideout"は「できそうにない」。

 だけど、Liberationを見ながら少し考えこんでいると、こんな「クラインの壺」や「メビウスの輪」こそが本当の"Insideout"ではないだろうか、と私には思えてきた。

 言葉としての"Inside out"は「裏返して、ひっくりかえして」という意味である。そして、「クラインの壺」や「メビウスの輪」は裏と表が「ひっくりかえることで」繋がっている。そして、そこには結局のところ裏も表も存在しない。裏も表もなくて、それは完全に同じ一つの表面なのである。
 それと同じくして、言葉としての"Inside out"も「完全に,何もかも」という意味をも表す。一見、裏と表に分かれて見えるようなものをひっくり返してつなげてみたときに、そこでは「何もかも完全に一つ」になる。

 そういえば、そんな「クラインの壺」や「メビウスの輪」はたくさんある。例えば、文学と科学で「クラインの壺」や「メビウスの輪」を作り上げようとしたのが夏目漱石であり、そして寺田寅彦だろう。一見、二つのものに分けられているように見えても、それを繋げてひとつのものにした例は他にもたくさんあるはずだ。もしかしたら、「表と裏」というものそのものだって本当はそうかもしれない。

 内側も外側も関係なくて、二つに分けられているように見えるものをなんとか繋げ続けたら言葉通りの"Insideout"が見えてくるかもしれない、とLiberationを眺めながら考えた。そして、それがきっとLiberationなのだと思うのである。
 
 

2001-07-31[n年前へ]

水平線の彼方 

Over The Horizon

 先日、富士の五合目から地平線を眺めていたのだけれど、そこで「水平線の向こうには何があるのだろう?」なんてことをふと頭に浮かべてしまった。「そこまでしか見通せない」という線が水平線なのだから、もちろん水平線の向こうに何があるのか見えるわけがない。だけど、だからこそ「その水平線の向こう」に何があるのかが、少しばかり気になってしまった。
 


 そういえば、少し前に英和辞書を読んでいた時に、" on [over] the horizon"で「兆しが見えて,将来起こりそうで」を意味する、なんて書いてあった。「水平線の向こう、水平線の彼方」にある「何か」は「将来起こりそうな、何かの兆し」というわけだ。
 あぁ、そうかぁ、と私は思わず納得してしまった。確かに、水平線の向こうに例えばもし何かの波があれば、それはきっといつか私たちの目に見えるようになって、そして私たちの足元にまで辿り付くことだろう。水平線の向こうにある波は止まることなく進み続けているのだから、例え水平線の向こうにあっても将来必ず私たちの場所まで辿り着くのである。

 もちろん、水平線の向こうにある波を私たちが見通すことはできるわけはないのだけれど、だけどその気配を私たちはきっと感じるのだろうと私は思う。「水平線の彼方」にあるものは、「将来起こりそうな何かの兆し」であって、水平線の向こうにいるその気配には強い存在感があるはずだろう。
 

 そんな「水平線の彼方にある波」を考えるとき、私はこんな話を思い出す。
 

 地球はよく「水の惑星」と呼ばれる。確かに、そう呼ばれるくらいに地球には水が溢れている。何しろ、地球の表面積の七割が海なのだ。しかし、そうは言っても、地球の表面が全部水に覆われている、というわけではない。私たちが生活している陸地だって、「残りの三割だけ」とはいえちゃんと存在している。

 それなら、表面全部が水で覆われている「水の惑星」がもしもあったとしよう。そんな水の惑星のどこかで高い津波が生じたら、一体どうなるだろう?例えば、その水の惑星の南極である日突然津波が生じたとしよう。その時その津波はどんな風に伝わっていくだろう?

 その津波の動いていく様子を図示してみたのが、下のアニメーションだ。

南極(下)で発生した波は一旦小さくなるが、
北極(上)で再び大きくなる
 
 南極(図の下部)で発生した津波は進むに従って、段々と小さくなっていく。最初は南極の一点に集中していたエネルギーが段々と広がって拡散していくのだから、波が進んでいくにつれその高さはどんどん低くなる。そして、赤道を通過する頃には津波の高さはとても小さくなってしまう。

 ところが、その波が赤道を過ぎたとたんに津波は逆に強まりはじめる。赤道を通過した後は、津波の前方はだんだんと狭まっているので、こんどは津波のエネルギーが集まり始めるわけだ。それまでは、低くなる一方だった津波の高さは、今度は逆に徐々に高くなっていく。そして、ついに津波が北極に辿り着く時には、かつて南極で津波が発生したときの高さを再現してしまう。生まれた地点のちょうど反対側で、津波が生まれたときと全く同じ高波が発生するのである。

 私たちの裏側で津波が発生したとしても、その津波は徐々に小さくなりながら進み続け、そして私たちの足元でその津波は再び大きな高波となるのである。そして、その津波はその後も同じように進み続けて、また南極で大きな高波となる。南極から発した高波がもう一度南極に集まってまた高波となるとも言うことができるかもしれないし、あるいはそれは、北極で集まった高波が南極で集まってもう一度同じ高波となる、とも言えるだろう。

 自分と正反対の場所で生じた波が自分の足元まで辿り付いて、生まれた場所と正反対の場所で生まれた時と同じ大きな津波になっているということを考えると、どうしても不思議な感覚に襲われる。そして、自分と正反対の場所で自分の足元で生じているのと同じ高波が生じている、ということもまたちょっと不思議だ。まるで、自分と正反対の場所に「もう一人の自分」がいるみたい、だ。「もう一人の自分」が、自分からは見えない水平線の向こうにいるなんてちょっと面白い感覚だ。

 そしてまた、「水平線の彼方にある波」はそれと似たこんな話も思い出させる。
 

 宇宙の曲率が正で閉じた球状空間だった場合、私たちが発した光はどうなるだろう? 私たちからどんどん離れて行く光は空間の四方に広がって行くが、何時の間にかその光は徐々に近づき始める。そして、はるか彼方のある一点でその光が集まり、そしてまたその光は広がり始める…。そしてついには、その光は私たちのいる場所に集まり始める。私たちを取り囲む全ての方向から、かつて自分が発した光がやってくることになる。

 かつての自分があらゆる方向に見え出すのである。


 水平線の彼方には何があるのだろう?水平線の向こうを見通すことは、私たちにはできないけれど、遥か彼方にいる波は「将来必ず私たちの足元に訪れる」。そして、もしかしたらそれは「かつての自分が発した波」かもしれないし、「どこか自分と正反対の場所にいる誰かが発した波」かもしれないし、それは廻り回ってやっぱり、「自分が発した波」なのかもしないし、やっぱりそれとも…なんて考えてしまったのである。
 



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