hirax.net::Keywords::「Scraps」のブログ



2001-09-20[n年前へ]

A3用紙の広さの世界 

Mosaicism


 ここ数年、毎日色々な画像をプリントアウトする日が続いている。本当のことを言えば、そんな毎日に時々は飽きたりもするのだけれど、そんな風に思う時間がそんなに長いわけではなくて、結構そんな毎日が好きなのもまた事実だ。

 そんな毎日なので、CRTをみながら画像を編集・加工したりする作業をすることも頻繁にある。仕事柄、割に大きな画像を処理していることも多くて、例えば最近はA3用紙程の大きさの画像をせっせと加工したり出力したりしている。しかも、単にサイズが大きいだけではなくて、解像度も高い時には4800dpi程とかなりの高解像度で作業をすることもある。A3用紙で4800dpiともなると、8000x  57000  = 46億 pixel 程になるので、いくら速いPC(WS)でもやはり処理待ちの時間があまりに長くなってしまい、モニタの前でぼんやりとしてしまうことも多い。少し前、やはりそんな作業をしている時に、モニタの前でおかしなことを考えていた。



 今眺めている画像の中に含まれている46億 pixelというとほんの少し前の地球の人口くらいだろう。今の地球の人口は60億人強くらいだろうが、数としてはやっぱりそれほど違わないように思う。つまりは、A3用紙を4800dpiで出力する時には、地球の全人口に近いくらいの点がA3用紙の広さの世界に塗り込められていることになる。それはまるで、A3用紙の広さの世界に、地球上の人間一人一人がそれぞれの色を出しながら立っているのと同じようなものかもしれない。なんてそんな風に考えてしまったのである。ほんの小さなA3用紙の中に、地球上の人間全員で描くモザイク画を想像してしまったのである。

 だけど、「地球上の人間全員で描くモザイク画」の中では一人のドットは遥かに小さくて、4800dpiの小さなドットはの情報なんか消えてしまって、やっぱりそんなA3用紙の中に立つ一人一人は見えないのだろうか、とも冷静に考えたのだけれど、やっぱりそれは違ことに気づいた。

 何しろ、その「地球上の人間全員で描くモザイク画」をよくあるプリンターなどの600dpi程度の解像度に縮小してみたところで、元のごく小さな4800dpiの1ドットの情報が消えてしまうわけではない。600dpiは4800dpiの1/8ということで、4800dpiの8x8=64ドットが600dpi1ドットに縮小されることになる。4800dpiの1ドットの本来の色が64分の1の薄さにはなるけれど、それでもそんなちっちゃな点の情報もちゃんと残っている。だから、A3用紙の広さの画像を虫眼鏡で眺めてみれば、そんな狭い世界の中にでも、やっぱり地球上の人一人一人そのものが点描となって描かれているモザイク画が見えるのかな、とか考えたりした。
 

2001-11-05[n年前へ]

Floating Lanterns 

Loykratong

 先日、満月の夜に灯篭流しを見た。果物や蝋燭や色んなものを籠に一杯に詰んで、川に流されていく灯篭を見ていた。川に灯篭を流しながら、お祈りをしている人達をぼんやりと見ていた。亡くなったものたちを供養したり、色々な祈りを込めたりして灯篭を流す人達を見ながら、「あぁ、これは本当に言葉どおりの”水に流す”ということなんだなぁ」と、ふと、だけどとても強く納得した。色んなこと哀しいことを、遠くへ過ぎ去ったものとして遥か遠くに流して行くことは、この灯篭流しと本当に同じもので、だからそれが「水に流す」ことだ、としみじみと思ったのだった。

 私が見ていた灯篭流しは、灯篭を川の水面を経て遥か遠くへ流すものだったけれど、灯篭を流す先は別に川を流れる水だけではない。例えば、こんな風に灯篭を空の彼方に流す灯篭流しだってある。川に流した灯篭と全く同じく、空に流した灯篭が空一面で美しく煌いている。空の彼方でも、川の流れる果てでも、どこか遠くの果てに「お供え物や色んなもの」を流すことが「水に流す」ことそのものなのかなぁ、と思ったのだった。
 

 下の写真は、灯篭を流す人達を遥か橋の上から眺めながら、デジカメで撮ったものだ。まるで、歩いてゆく人の流れが水の流れのように写っている。水の流れも人の流れも、それは結局は同じようなものかもしれない、とこの写真を撮りながら少し思った。
 

満月の夜に見た灯篭流し

 昔、遥か彼方に通じる海が近い地域であれば、自然と海につながる川がいつかどこか遠くの世界に辿り付くための通り道で、そこから「お供え物や色んなもの」を載せた灯篭船がはるか彼方へと流されていったのだろう。そしてまた、遥か海から離れた地域では、もしかしたら川でなくて空が「どこか遠くの世界に辿り付く入り口」と考えられ、だからそこから灯篭が遥か彼方に流されていったのかもしれない。
 

 そして、遥か彼方に通じる海から離れていて、どこか遠くへ水が流れていく川も無い地域では、どこか遠くの世界へ移動してゆくものは、もしかしたら「人」しかなかったのかもしれない、と思う。だから、「お供えものや色んなもの」を託す相手は人しかなかったのかもしれない。だから、「いつかどこか遠くの世界に辿り付くだろう人達」に「色んなもの」を託し、人々は色々な祈りを込めていったと思ったのだ。

 さらに、心に浮かんだ思いをそのままに書いてしまえば、「いつかどこか遠くの世界へ辿り付くだろう人達」はもしかしたら子供達だと人々はかつて考えたのかもしれない、と想像してみたりする。だから、家々を廻る子供達にお菓子を託すハロウィンも、歩いて行く子供達を船や気球に見立てた灯篭流しだったのかもかもしれない。子供たちに「色んなもの」を託して、自分達には辿り付けない遥か遠くの世界に送り出したのかもしれない。と、根拠は全く無いのだけれどそんな風に想像していたのである。

 これが、満月の夜に灯篭流しをする人達を見つつ、私が心に浮かべた不思議な確信だった。

2002-02-28[n年前へ]

二分少しの過去と未来 

Below the horizons

 「今日見た景色」を撮るようになって一年ほど過ぎた。「その日」眺めた目の前の景色をデジカメで切り取ってスクラップしてきた。ふと、その「今日見た景色」を眺めてみると、水平線近くの朝日や夕日を眺めた写真が多いことに気づいた。

 海沿いの街に住んでいて、日の出とともにゴソゴソと動き出す生活をしているのだから、それは当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。だけど、「水平線や地平線」越しの太陽」に惹かれるのはきっとそれだけではないと思う。だから、これまでも「二人で同じ流れ星を見るための地平線」、「地平線まで辿り着く時間」、そして「水平線の彼方」や何かを、色々と考えてみたりしたのだろう。
 

 そういえば、少し前に太陽の見え方をちょっと計算したり、調べたりしていた。その中で、地球の大気のせいで、太陽光が水平線近くで屈折する効果、大気差、の大きさを眺めていたると、角度にして35分弱となっていた。地上から眺める時の太陽の大きさとほぼ同じだ。

 ということは、地球に大気があるがために地平線の下、目で眺める太陽一個分の大きさだけ地平線の下、の太陽を私たちは眺めることができる。私たちが朝日を眺めているときは、実はまだ地平線の下にいるはず(もし大気が無ければ)の太陽を眺めていて、夕日を眺めるときはもうすでに地平線の下に沈んでしまったはずの太陽を眺めていることになる。

 目で眺める太陽一個分の大きさというと、時間にすると130秒位だ。だから、私たちは地球が大気で包まれているがために、二分少し後の未来に見えるはずの朝日や、二分少し前に見えたはずの過去の夕日を眺めている。

 「手の届かない世界と届く世界との境界線」の代名詞としてもよく使われる「水平線」や、「見えない世界と見わたせる世界との境界線」そのものの「地平線」も、実はその向こうの風景を「二分少しぶん」だけならかいま見ることができるなんて、とても面白い。そして、ふと気づいてみれば、いつも眺めてきた「今日見た景色」だって、時にはそんな「二分少しの過去と未来」だったりするのかもしれないな、と思う。
 

2002-04-13[n年前へ]

月が遠くであっち向いてホイ 

Stereographs of the Lunar Libration

 夜、月をよく眺める。仕事の帰り際に箱根山中で、あるいは信号待ちをしてる車の中から、よく月を眺める。そんな時、こんなことを考えた。

 月の自転周期と、月が地球の周りを回る公転周期は同じだ。月の潮汐力が原因で、どうしても自然に一致してしまう。少しでもそのその二つがずれた場合には、それを元通りにするような力が働く。だから、月はいつでもほとんど同じような顔を地球に向けている。もちろん、太陽の方向に従って月の満ち欠けはあるのだけれど、それでもやはり顔はいつも同じ面を向けている。それはまるで「心配そうに子供を見守る親」か、「ワガママな姫さまを心配する爺や」か、はたまた「好きな人を飽きもせず眺めてる恋する人」であるかのようだ。

 とはいっても、月の軌道は実際には楕円だから、本当はこんな風に秤動を起こす。地球に近づいたり遠ざかったり、早く動いたり遅く動いたりして、月は少しづつ違う顔を地球に見せる。それでも、それは「子供を何故か怒ってしまったり、可愛がったりする親」か、「爺やが心配そうに姫さまに顔を向ける仕草」か、「誰か好きな人を少し不器用に見てる恋する仕草」のようで、やはりなんとなく微笑ましい。
 

 ところで、そんな風に月が少しだけ違う顔を見せるのなら、そんな月の写真を二つ並べて眺めてみれば、目の前に立体的な月の姿が浮き上がってくるはずである。同じ時の、だけど空間的に少しだけずれた場所から眺めた二枚の画像が立体感を与えるのは当たり前の話だけれど、時間的に少しだけずれた(だから空間的にも少しだけずれた)二枚の写真にだって、私たちはやっぱり立体感を感じる。

 そこで、試しにインターネット上から月の写真を二つ拾い上げてみた。下の写真は誰かが何処かで眺めた二つの月だ。撮影された場所も、時間も(きっと)全く別の二つの月である。平行法だったら遙か遠くの誰かを眺める要領で、交差法だったら目のすぐ前の誰かを眺める要領でこの二つの月を眺めてみれば、立体的な月を眺めることができる。GoogleImage Searchのおかげで、そんなこともずいぶん簡単になった。何時か何処かの誰かが月を眺めている目を通して、それを自分の目の代わりにして、自分の心の中に月の立体的な様子を映し出しているのだから、いわば私の左右の目が「インターネットの大きさ」だけ離れて、立体感を拡大しているような感じで、少し面白いような感覚がする。
 
 

誰か何処かで眺めた二つの月
(平行法)
誰か何処かで眺めた二つの月
(交差法)

 ところで、こんな風に月が地球に向ける二つの顔を見るとき、私たちが立体的な月の姿が目の前に迫ってくるかのように感じるように、人の表情が顔の向きが少しだけ違う写真を用意して、そんな写真をぼーっと眺めてみたら、私たちの目の前に「その人の姿」が浮かび上がってくるような気持ちになる。

 実際のところ、私たちが心の中で人を思い浮かべたりする時は、自分では気づかなくとも、色んな時や色んな場所での「その人の姿」を心の中に浮かべているのかもしれない。そして、もしかしたら「その人の立体的な姿」を心の中で感じているのかもしれない。きっと無意識にだけど、私たちはそんなことをしているのだろう。

 だから、そんな心の中で無意識にしていることを、不器用だけど意識的にやってみれば、案外自分の「心の中の立体感」や、「心の中にいる誰かの立体像」なんかを上手く眺めることができるかもしれない。例えば、アルバムの中から二枚の写真を適当に選んでぼーっと眺めてみたりしたら、そんなものがもしかしたら心の中に浮かび上がってくるのかもしれないな、と月を眺めながら考えてみたりしたのである。
 

2003-01-29[n年前へ]

Nothing but Echo 

水面に映る「私たち」


 「ニュースは世相を映す」とよく言われる。「世間で起きる出来事を伝えようとするもの」が「ニュース」なのだから、「ニュースが世相を映す」のは当たり前なのかもしれない。けれど、それだけでなく「ニュースは世の中の私たち自身を写している」ものだと思う。それは、世の中にいる誰かが「ニュース」を伝えようとするものである限り、その「ニュース」を受け取ろうとする私たちがいる限り、そのニュースは「私たち自身」を映し出すものだと思う。世の中にいる誰かが何かを伝えようとして、世の中にいる私たちがその何かを受け取ろうとしている限り、そのニュースは結局のところ「私たちの姿」を忠実に描き出すものだと思う。水面を上から覗きこんでみれば、その水面に景色だけでなく私たちの姿も同時に映りこんでいるように、ギリシャ神話のナルキッソスが泉の中に自分自身の姿を見たように、その「ニュース」には世の中の出来事だけでなく、私たち自身だって写りこんでいるに違いない。

 大林宣彦は朝日新聞「私の視点」の中で次のように語っていた。

「報道とは本来が客観的事実のみを伝えるものではなく、記者個人にとっての心の真実を伝えようと願うものであり、… そしてまた、僕ら自身がメディアに何を求めているのかが、今問われている … 僕らは、実は語る人間でもあるからだ。メディアもジャーナリズムも世論も僕ら自身であるからだ。」
この言葉通り、メディアだってジャーナリズムだって結局のところは私たち自身なんだと思う。

 これはもちろん、「ニュース」の伝え手の役目も果たす2ちゃんねるだって同じだ。「名無しさん」という「誰でもない誰か」、だけど「世の中の何処かにいる誰か」の姿は結局のところ私たち自身の姿なのだと思う。だから、「2ちゃんねるは**だ」という言葉は全て私たち自身に「私たちは**だ」という言葉となって返ってくる。「2ちゃんねるはゴミだ」と口に出せば、それは「私たちはゴミだ」というエコーとなって返ってくる。もしも、「2ちゃんねるには宝石も埋まっている」というのであれば、「私たちの中には宝石も埋まっている」とそれは響くだけのことである。
 

 昨年末に放送されたNEWS23の 「あなたの物語」「誰でもない誰かの物語」では、視聴者の「テレビニュース」に対する意見をリアルタイムに募集しながら、その集まってくる答えを刻々とテロップとして流していた。「テレビニュース」が世の中に与える影響は?とか、「テレビニュース」はあなたの人生にとってなくてはならないものですか?とか、そんな質問への二択の答えの集計結果を刻々と流していた。その問いの中の、そして答えの中の「テレビニュース」の部分は全て「僕ら自身」と置き換えられるのだから、その最後の集計結果は全て自分達自身にエコーのように降りかかってくる。水面に映る「私たち自身が描く私たち自身の姿」を、恐る恐るそして祈りとともに覗いてみるのである。
 
 

「テレビニュース」「私たち」が世の中に与える影響は?

良い   悪い
 
 

「テレビニュース」「私たち」は信用できる?

はい   いいえ
 
 

「テレビニュース」「私たち」はあなたの人生にとって「なくてはならないもの」ですか?

Yes   No







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