2007-08-09[n年前へ]
■夏の日
蒸し暑く蝉の声が幾重にも響く、けれど、とてもとても気持ちの良い夏の日。 from n年前へ.
想定読者の範囲はかなり狭まるだろうし読者の数も減るだろうなと思いつつ、狙った人にきちんと届くことを一番に考えた原稿です。
「 記憶色 と同じで、記憶顔ってのもあるんじゃないのかなぁ?」「意識や記憶の中の他人や自分の顔っていうのは、必ずしも現物に忠実というわけじゃないだろうし、それを現物に忠実にしてしまってもマズイ場合もあるとかさ」「つまり、ちょっと美人化した位が記憶顔に忠実なんじゃいのかな」
2007-08-17[n年前へ]
■「面白いこと」
暑い夏に考えたこと from n年前へ
自分にとって「面白い」か「否」か、「好き」か「どうでもいい」か、という軸で行動している理系な人々なら、よく見かけるかもしれません。
マンデルブロしか能がない専用のハードウェアを作ってしまいました。…と言うのは簡単なのですが、完成まで実に丸2年かかりました。
なまじ才能をひけらかしていると、天寿を全うできない。
「どのように手振れしたか」がわからないシステムの場合、「自然な画像とはどのようなものか」という理解が重要になります(多分)。
1914年のイギリスとドイツはクリスマスに一時休戦に入る。イギリス人将校とドイツ人将校はお互いの家族の写真を交換して見せ合う。他の兵士達はサッカーに興じている。
私はパンの耳で食いつなぐような貧乏学生だったので、人件費は労力でカバーが基本方針でした。ゆっくりと時間をかけて、とにかく楽しく設計した事を覚えています。
例えば、二次元キャラが写っている画像、あるいは、三次元の現実人間キャラが写っている画像…どんな画像かによって「自然で、あるべき姿」は異なります。
建築の材料には使えない曲がりくねっている木そんな役立たずの木は、切られることがなく天寿を全うする。
2007-08-31[n年前へ]
■n年前へ
因果関係の「因」は、因縁生起の「因」だ。と、ふと感じたのは、n年前の景色を眺めたからだ。
長岡京駅近くのレコードショップに「長岡京が産んだロックスター 種ともこ」というチラシが飾ってあった。20年前の春、始めて長岡京に行った。第九を歌うために、西友の横の路地を歩いて長岡京市民ホールへ行った。
それまでは、300 bpsのカンサス・シティー・スタンダードならぬ、1200bpsのサッポロ・シティー・スタンダードで、茶色い磁性体テープのカセットテープレコーダに刻まれた"パッチもん平安京エイリアン"の長岡京エイリアンと、「マンガ日本の歴史」の中の数ページで描かれた長岡京しか知らなかった。つまり、何の印象もなかった。
しかし、未来に向かって「続く」ものであるということが、かろうじて種々のマイナスを乗り越えうる契機を秘めているのだ。
その年の冬は、試験シーズンの大学にも行くこともなく、毎日のように長岡京の発掘現場に通って土を削った。その後、長岡京で暮らす人たちや、長岡京に超してきた人たちに会い、今に至っている。
2007-10-31[n年前へ]
■「TPO」と「自分が決めた一球」と「わからないこと」
「わからないこと」を無理してわかろうとしない方が良いんだ。「わからないこと」というのはたいていどこかおかしい
同じ人でも、違う時間にいるのなら、それを違う人と考えた方が良いこともある。同じ人が違う場所にいるのなら、それを違う人と捉えた方が良いこともある。
「最後は自分がどうするかなんだぞ」「自分がどうするか決めた一球は、誰にも文句を言われる筋合いはない」って、そういう話ばっかりするんですよ。
2014-05-28[n年前へ]
■いつだって「前」を見れば「n年前へ」の世界が見える!
hirax.netの全てのページには、「n年前へ」と書かれたリンク部があります。「記事」が書かれたのと「同じ月日」に書かれた、過去や未来の記事へのリンクです。n年前への「前へ」という言葉は、以前にあった過去を指すのか、それともこれから先にある未来を指すのか、それは今もってよくわかりません。それが、過去でも未来でも、とにかく「前へ」繋がっていることは100パーセント間違いありません。
そしてなぜだか「n年分の過去」を眺めれば「n年分の未来」を眺めることができる…と感じています。だから、n年分の過去や未来へ繋がるリンクには、何はともあれ「n年前へ」という語句を書いておくのがふさわしい、というわけです。そういうわけで、hirax.netの全てのページには、「n年前へ」と書かれたリンク部を付けてあるのです。
今日の「n年前へ」は、
- 今日のオッパイ・ウソ・ホント。(2001年)
- バンコクで眺めたPopular Electronicsと(Electronics NOW改め)Poptronics(2002年)
- 「狭い世界(せかい)」と「世間(せけん)が狭い」(2005年)
- 『専門家11人に「経済学」を聞く! 』と『11人いる!』(2008年)
- 七味唐辛子の「普通サイズ」と「大サイズ」の穴径は同じ(2009年)
- 「道具に使われるな!!道具は使うものだ!!」(2013年)
「世界が狭い」と「世間が狭い」は180度違う。「狭い世界」を造り出すのは「知り合いが多いハブ的な人の存在」であり、「狭い世間」を造り出すのは、「周囲状況と繋がらず離れてしまっている人」である。「世界が狭い」は「広い世界」を引力が強い人がねじ曲げて色々な場所を繋げていた結果であり、「世間が狭い」は「広い世界」を知らず閉ざされている状況である。
「世界が狭い」と「世間が狭い」は大違いなのだから、自分が考える「世界(というもの)」が、果たしてそれは「(自分の外に広がる広い)世界」なのかそれとも「(自分の周りの狭い)世間」なのかを問い直す作業が必要だと思う。
小島寛之先生に、「10人の経済学者がいれば、11個の経済学説がある」という話を聞きました。その時、ふと「11人いる!」を思い出しました。あの話は「ロケットに乗ったのは10人のはずなのに、なぜか11人いる!」という話でした。「11人いる!」の結末は、「宇宙では思ってもいないことが起きる。必ず想定外のことが起きる。そんな時にどうするかが宇宙では重要だ」という感じだったように思います。
…結局のところ、穴から出てくる粉体の量は、粉体の量とは無関係に、穴の大きさ(と粉体の密度)で表されることになる。たとえば、穴から出てくる粒子(=七味唐辛子)は穴の大きさの3乗弱くらいに比例した量になる、という具合である。
つまり、七味唐辛子の「普通サイズ」と「大サイズ」の穴径の大きさが同じなら、その二つの瓶から(一振りあたりに)出てくる七味唐辛子の量は同じになる。逆にいえば、大きいから瓶を一回振れば、たくさんの七味唐辛子が出てくるかというとそういうわけでないのである。
…:多様性があって、変わらないところもあれば・変わるところもある。それこそが、(年齢ならぬヤング率で変化可能な度合いが決まる)弾性体だけじゃない粘弾性たる「おっぱい」ならぬ人間という存在なのかもしれないな。
そしてなぜだか「n年分の過去」を眺めれば「n年分の未来」を眺めることができる…と感じています。だから、n年分の過去や未来へ繋がるリンクには、何はともあれ「n年前へ」という語句を書いておくのがふさわしい、というわけです。そういうわけで、hirax.netの全てのページには、「n年前へ」と書かれたリンク部を付けてあるのです。
今日の「n年前へ」は、
- 今日のオッパイ・ウソ・ホント。(2001年)
- バンコクで眺めたPopular Electronicsと(Electronics NOW改め)Poptronics(2002年)
- 「狭い世界(せかい)」と「世間(せけん)が狭い」(2005年)
- 『専門家11人に「経済学」を聞く! 』と『11人いる!』(2008年)
- 七味唐辛子の「普通サイズ」と「大サイズ」の穴径は同じ(2009年)
- 「道具に使われるな!!道具は使うものだ!!」(2013年)
「世界が狭い」と「世間が狭い」は180度違う。「狭い世界」を造り出すのは「知り合いが多いハブ的な人の存在」であり、「狭い世間」を造り出すのは、「周囲状況と繋がらず離れてしまっている人」である。「世界が狭い」は「広い世界」を引力が強い人がねじ曲げて色々な場所を繋げていた結果であり、「世間が狭い」は「広い世界」を知らず閉ざされている状況である。
「世界が狭い」と「世間が狭い」は大違いなのだから、自分が考える「世界(というもの)」が、果たしてそれは「(自分の外に広がる広い)世界」なのかそれとも「(自分の周りの狭い)世間」なのかを問い直す作業が必要だと思う。
小島寛之先生に、「10人の経済学者がいれば、11個の経済学説がある」という話を聞きました。その時、ふと「11人いる!」を思い出しました。あの話は「ロケットに乗ったのは10人のはずなのに、なぜか11人いる!」という話でした。「11人いる!」の結末は、「宇宙では思ってもいないことが起きる。必ず想定外のことが起きる。そんな時にどうするかが宇宙では重要だ」という感じだったように思います。
…結局のところ、穴から出てくる粉体の量は、粉体の量とは無関係に、穴の大きさ(と粉体の密度)で表されることになる。たとえば、穴から出てくる粒子(=七味唐辛子)は穴の大きさの3乗弱くらいに比例した量になる、という具合である。
つまり、七味唐辛子の「普通サイズ」と「大サイズ」の穴径の大きさが同じなら、その二つの瓶から(一振りあたりに)出てくる七味唐辛子の量は同じになる。逆にいえば、大きいから瓶を一回振れば、たくさんの七味唐辛子が出てくるかというとそういうわけでないのである。
…:多様性があって、変わらないところもあれば・変わるところもある。それこそが、(年齢ならぬヤング率で変化可能な度合いが決まる)弾性体だけじゃない粘弾性たる「おっぱい」ならぬ人間という存在なのかもしれないな。
■Powered
by yagm.net