hirax.net::Keywords::「コトバ」のブログ



2007-09-06[n年前へ]

関西のオバチャンになりたい 

 台風が日本列島に接してくる最中、品川駅から新幹線に乗る。三人掛けの席の通路側に座ると、隣の二人は、関西の何処かに帰る年配の女性2人だった。その二人の会話のペースに、聞き入ってしまった。
 その最大の理由は、相手がコトバを発してから、それに対する応答がいつでもコンマ1秒以内になされてる、ということだ。コンマ1秒以上沈黙する時間はない。どんな形であれ、いつでも十分の一秒以内に、何かの相づちが入っている。そのことに、聞き入ってしまった。

 以前、英語の研修を受けた時、「相手が言葉を発してから、1秒以上反応しないのは、英語としてはコミュニケーションが全くできていないということだ」と言われた。あぁ、関西のオバチャンになりたい

2007-10-24[n年前へ]

hirax.net on Rails! 

 先週末から、"hirax.net/dekirukana*"と"hirax.net/diaryweb"を統合するRailsアプリを書き始めました。今週末には、プロトタイプを動かし始めることができそうです。HTMLファイル群やTYPOやHNSを一つのアプリ上のコンテンツとして合体・稼働させるつもりです。

 今年の夏はRailsにハマり、「画像処理」「Wikipediaやはてなのキーワードが得意としない女性向けジャンルのWIKI」「コトバでなく曖昧な価値観やイメージ」なんていうおぼろげな感じを形にしてみたいとふと考えて、頭のエクササイズも兼ねて、「Make up Award! "Keywords"」や「Make up Award! on Rails "Image"」なんていうものを作っていました。…というわけで、「コトバやイメージ」がお題のWEBアプリ「Make up Award! "Keywords"」と「Make up Award! on Rails "Image"」をリリースしてみます。そんなガラクタなどで適当に楽しんで頂けたら、うれしいです。

2007-12-28[n年前へ]

「何か」を作り上げた人はエラい 

 ある程度の大きさの「何か」を作り上げた人は、掛け値無しにエラいと思う。心の底からそう思う。小さいけれど完成した一つプログラムを作り上げる人、拙いけれど一つの絵を描き上げる人、一つの製品を作り上げた人、あるいは、一つの小説を書き上げた人、私はそんな人たちを本当にエラいと思っている。 プログラムを使うとき、絵を眺めるとき、何かの製品を使うとき、そして物語を読むとき、どんなものであっても、そんな思いを直接言う機会はないけれど、いつもそう思っている。

 関西で暮らした学生時代に、一番好きになった言葉・音は「エラい」というコトバだった。「エラい」と発音された音は、状況次第でたくさんの意味になる。たとえば、「えらい早いやんけ」というような用例のように、この音は時に「とても=Very」という意味になる。また、その「エラい」というコトバは時には「疲れる・しんどい」という意味に響くこともある。例を挙げれば、「えらいめにあったわ!」とか「あの単位取るのえろーえらいんやて」という具合だ。もちろん、そのエラいという音が「偉い」という意味に聞こえることもある。同じ発音の「エラい」というコトバが、こんな多くの意味を持つ。

 ある程度の大きさの「何か」を作り上げた人、あるいは、そこに伴う作業を私は「エラい」という音が持つあらゆる全ての意味において「エラい」と心から信じる。「エラいエラい作業をエラいこと続け、ちゃんと形にするなんてエラいエラいなぁ」と思う。関西弁って面白い。

2008-01-12[n年前へ]

マギー司郎のコトバ 

 マギー司郎の「生きているだけでだいたいOK」という本の中で語られる言葉を読む。

コンプレックスのある人ほど、人の痛みとかに優しいし、相手の気づかいもよく見えるんだよね。でも、完璧に近い人には、そういうものが見えてないもんね。どこか欠けてる人の方が強いんだよ。弱さの強さだよね。だから、欠点はあっていいんだよ。

  マギー司郎 「生きているだけでだいたいOK」

 「弱者」のブログ「強者」のブログを読む。同じように、「弱い人」のブログ「強い人」のブログ も読む。一つのキーワードで繋がる日記から、たくさんのが見えてくる。色んなことを思い出す。

あの日描いた未来とは 何か少し違ってるけど

  斉藤和義 「真夜中のプール」 

2008-01-15[n年前へ]

「れる」言葉のヒミツ 

 「逆上がりが”できる”」という言葉を打っているとき、ふと「ずっと感じてたこと」「そんな風に感じていた悩みが氷解したこと」を思い出した。

 遥か昔、「海が見られる」なんていうコトバを口にして、あるいはそんな文字を原稿用紙に書いて怒られ続けた覚えがある。「海が何かに見られている」”受動”の意味なのか、「海を見ることができる」”可能”な意味なのかはっきりしないと言われ、そんな言葉の違い・区別がわからなくて、戸惑い・言葉に詰まっていた覚えもある。そんな言葉の違い・区別がわからないという悩みが、少し前まで、ずっと残っていた。

 もし、「人に思われる」と使えば「れる」は受身を表し、「出来るだろうと思われる」と使えば、「れる」は自発を表し、「宇宙旅行は五年以内に可能だとも思われる」という場合は、可能を表すものだと見ることもできる。

 大野晋の「日本語の年輪」(新潮文庫)を読んでいたとき、に書かれていた一節を読んで、そんな受動とか可能の間の戸惑いが氷解した。

 しかし、この受身・自発・可能は、ばらばらに成立したものでなく、その根源的な意味があり、その根源の意味から分かれて、それらの区別を表すようになったのである。では、その根源の意味は何かといえば、「自然とそうなる」ということである。
 私たちが無意識のうちに浸っている日本の文化では、受身も可能も、そして自発も、元来同じものだったのだ。「自分からしようと思ってすること」「他のものからされること」「何かが成し遂げられること」そういったものは、すべて同じ事象だと捉えられていたという事実を知ると、言葉を使う時の自分の中の迷いが理解できるような気がする。

 だいたい「できる」とは、今は、可能を表現する言葉であるが、もともとこれは、人間が力をふるって物事を作り上げてゆくという考え方から成り立った言葉ではない。人力を借りずに、自然の力によって「出(い)で来(く)る」「出来(でく)る」から変じて「出来る」となったものである。
 「できるかな?」というタイトルで、雑文を書く時も、やはり、そんな受身と自発と可能の違いがよくわからなくなる。けれど、それが自分たちの土壌の上で同じものだと意識すると、何だか目の前の霧が晴れたようにな気持ちになれる。「気持ちになれる」の「なれる」が、果たして受身・自発・可能のどれかは、やはり今でもわからないけれど、それはそれでいいのだ、と思うことができるようになった。



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