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2010-12-17[n年前へ]

「バンコク発・古きよきアキバがここに……」 

(取材・文・写真=クーロン黒沢)の「バンコク発・古きよきアキバがここに……

 タイ、バンコク。中華街の果てに、アキバの柔らかい部分だけ抽出した「サパーンレック」という場所があるが、そのサパーンレックからわずか二百メートルほど歩いたところに、まるで昭和のアキバを煮詰めたような、コチコチに硬派な一帯が広がっていることはあまり知られていない。人はこの界隈を「バンモー」と呼ぶ……。

2011-04-18[n年前へ]

「南国のドラえもん」と「四次元ポケット」 

 一年前、占拠状態の街にいるドラえもんを不思議な心地で眺めていました。たくさんの赤と若干の黒シャツを着た人たちが溢れる占拠地の中心集会所地区で、重要個所を守る警備員も(占拠地帯で占拠を続ける親戚たちと共に遊ぶ)こどもたちも、どちらも同じようにドラえもん銃を持ち、同じように気まぐれに水鉄砲をこっちに向けて、水をピューっと掛けてきたりします。

 灼熱の太陽の下で、熱せられたコンクリートの上に座り込みを続ける人たちをずっと眺めていると、興味深いことに気づきます。地球が回り、太陽が空を動く…その動きにしたがって横断歩道やビルの陰は少しづつ動いていきます。そして、彼らは灼熱の太陽の下ではなくて動くビルの陰の上にいて、少しづつ動く陰と同じように彼らは座り込む場所を動かしていくのです。建物の陰がちょっと動くと、その陰に座る人たちもちょっと座る位置を変えていき、そして数時間も経てば、みな全然違う場所に座りこみをしているのでした。

 街を眺めれば、いたるところにドラえもんがいます。町中に溢れ・人を眺める仏像のように、たくさんのドラえもんたちが人々の中に溢れていました。そのドラえもんを印象深く感じながら、表現する言葉を見つけられないままに、一年経ってしまいました。

 今、あの南国からドラえもんが日本に帰ってきたとしたら、四次元ポケットからどんなものをとり出すのだろう、と考えます。色々なものが現れた後で、四次元ポケットに残ったただひとつのものは、もしかしたら「希望」という名前なのかもしれないとも、ふと思います。

「灼熱の太陽」と「水鉄砲」 「灼熱の太陽」と「水鉄砲」 「灼熱の太陽」と「水鉄砲」 「灼熱の太陽」と「水鉄砲」 






2011-11-20[n年前へ]

世界で一番「”実用的”な賽銭(さいせん)箱」を見よ!? 

 神さま仏さまに祈り・感謝のために、お金を入れる箱を「お賽銭(さいせん)箱」と呼びます。私がこれまで見た中で一番「実務的で・飾らない・実にフランクな」お賽銭箱が、下の写真です。タイはチェンマイで眺めた、「肥えてパンパンに膨れた腹を抱える仏さま」の前には(どう見ても金庫にしか見えない)お賽銭箱が鎮座している…という実に素敵でロハスな景色です。

 ちなみに、この機能最優先の賽銭箱を持つ「メタボなお腹の仏さま」の隣には、ゴロリと横になっている仏さまもいらっしゃいます。そして、その横にる仏さまの前には、やはり、飾らず・機能的かつ実用的な「金庫」ならぬ「賽銭箱」が置かれています。

 これが「世界で一番の実用的な賽銭(さいせん)箱」です。あっけらかんとしたシンプルさが…何だか、とても素敵で魅力的に感じます。

twitter から

世界で一番「”実用的”な賽銭(さいせん)箱」を見よ!?世界で一番「”実用的”な賽銭(さいせん)箱」を見よ!?世界で一番「”実用的”な賽銭(さいせん)箱」を見よ!?






2012-10-09[n年前へ]

未来はどうなる? それはガリレオに訊いてみる。 

 映画を見ると、その映画を見ることで「何か力をもらえる」ような気がします。まるで、宇宙を飛行する探査機が、万有引力を介して天体の運動エネルギーを得て、さらに宇宙の彼方に飛ぶ力を得るように、映画に近づく(そして離れる)中で何かを得ることができたりします。

 2009年のタイ映画「Dear ガリレオ」を観ました。 ガリレオがピサの斜塔から落とした2つの玉のように「絶対離れない」と約束をして、ヨーロッパを旅をし始めた2人の(大人になりつつある)女の子の物語です。一人は失恋をして、もう一人は大学を落第をして家族の元を離れてみることにした…そんな2人の青春物語です。

 一緒にバンジージャンプをした、そして絶対離れないと誓いつつ旅をし始めた2人にも、世の中に「絶対」なんていう存在がないように、いつか「別れ」が訪れます。

「同じものでできているものならば、たとえ大きさが違っていても、同じように落ちていく。そうガリレオが言ったの」
「たとえ重さが違っても、同じ瞬間に地面に辿り着くの」

 主人公たち2人だけでなく、異国の地で「同じものでできている」同胞たちと出会い、けれど時にバラバラに離れていく姿を描き、「ガリレオ」は一体どんなことを伝えたかったのだろう?と考えます。

「理論通りに、同じタイミングで落ちなかったとしたら、それは風が吹いたとか…つまりは運とかタイミングが悪かったってことなの。(だから、そんなことも受け入れるしかないの)」

 けれど、映画のラスト・シーン近くで気づかされます。世界という3次元空間の中を、誰もがそれぞれに離れていくように見えても、「時間という軸」にただ並べてみれば、その時間軸上で、みな一直線に並び・同じように動き続けているのだということに気づきます。周りを眺めてみれば、つかず・離れずみな同じように走っている…と思い至るのです。

 未来がどうなるにしても、そんな未来に続く時間軸の上で同じ時間を共有し、みな同じように動いてる。そして、ガリレオの言うことは当たったりもするけれど、自分たちの意志はたまにガリレオの予言に縛られなかったりもする…「Dear ガリレオ」は、そんなことを気づかされたりする・そんな「力」を得ることができたりする映画です。

2012-10-13[n年前へ]

「前略、線路の上から」 ~ タイ・メークロン市場 

 メークローン線に乗り、終着駅「メークローン駅」で。「前略、線路の上から」~メークロン市場で。

 所場代が安い線路の上で店を開き、列車が通る寸前に店をコンパクトに片付け、そして列車が通り過ぎた直後に店を開く、そんな瞬間の(けれど日常の)エネルギーを手に入れる。

「前略、線路の上から」~メークロン市場で








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