2008-05-05[n年前へ]
2008-08-21[n年前へ]
■「姉を慕い続けた少年ジャック」
2008年7月19日(土)の朝日新聞、「うたの旅人」はとても興味を惹かれた。ペギー葉山の「爪」を題材に、演出家・作家の久世光彦のことを書いた記事だ。
「もう、向田さんのことを言ったり、書いたりするのをやめよう」とつぶやくのを聞いた。06年、急逝した年だった。
「久世はやはり深爪で、裸足が好きでした。おしゃれで気の利いたお姉さんのような向田さんの影響をいっぱい受けてます。きっと心配りの仕方や好みまでまねていたのだと思います」一時期、向田邦子や久世光彦が書いた本、向田邦子や久世光彦に関する本を見つけるたびに読んだ。
向田さんの、一目会った人を虜にしてしまう人たらしぶりは伝説に近い。…久世さんもまた、接した相手の心をつかむ人だった。かけられた言葉をずっと宝物のように覚えている編集者や書評家も少ないくない。
「演出家として身に付いた癖なのよね。演出家は、出演者の一人ひとりを、違う言葉で口説き落とす仕事だから」
「私は、少なくともあの一夜だけは、あの人を愛していたのだと思う」
「久世ちゃんは、度を超すくらい好きだったんだと思うよ」
「だからこそいつまでたっても思いきれない人なのかもしれない」
2008-12-25[n年前へ]
■「写し鏡」を市電に乗って見に行こう
いつか、鹿児島に行ってみようと思っている。市電「朝日通」から歩いて徒歩7分の場所にあるという「かごしま近代文学館」に行って向田邦子の常設展をゆっくり眺めてみたい、と思っている。鹿児島は確か九州の南の端にあったはずというくらいの知識しかないので、実際のところ、市電「朝日通」に行くにはどうしたらいいのか全然わからない。けれど、いつになるかわからないけれど、いつか行こうと思っている。たとえば右上の表紙のような写真を眺めてみたいからだ。
写真機のシャッターがおりるように、庭が急に闇になった。
向田邦子 「かわうそ」(思い出トランプ)
写真というのは「写し鏡」に似ている。カメラで撮影した写真に写っているのは「被写体」のようでいて、実は撮影者が写っている。そして、その撮影者を動かしているのは「被写体」でもある。
被写体が人ならば、被写体はカメラのレンズ見る。だから、写真に写った被写体の瞳にはカメラを構える撮影者が映る。それと同時に、写真には撮影者がカメラを通して眺めた被写体が写っている、被写体と撮影者の両方を、その両方の視点が重なり写っているのが、写真だと思う。シャッターを押すのが撮影者なら、シャッターを押させるものは被写体である。そして、焦点が鋭く合っている写真であれば、必ず、そんな写し鏡のような景色が写る。
だから、「かごしま近代文学館」に行って、そんな写真を実際に眺め、写真に写る瞳をできる限りの近くから眺めてみたいと思っている。
「冬の運動会」の、加代の死のシーンの稽古をしながら考えた。―向田さんは、どうしていつも<蜘蛛膜下出血>なのだろう。描写も似ている。
―その人が倒れたのは、蜘蛛膜下出血が原因だったのではないか。そして向田さんは、その発作の瞬間を目撃したのではなかったか。
久世光彦 「冬の女たち」
その瞳に写っている景色を、いつか、見てみようと思っている。
2009-01-19[n年前へ]
■最も失敗した作品の中で・・・
久世 光彦 「美の死―ぼくの感傷的読書」
<<向田邦子は、小説のなかで、虚構をかりてありのままの自己を語ろうとしたが、それは不可能、すくなくとも非常に困難であることが、書きはじめてすぐにわかった。二十編ほどの小説の多くは、こざかしいだけで底の浅いものである。成功した作もあるが、それは自己を語ったものではない。むしろ向田邦子は、最も失敗した作のなかで血をしたたらせている。 (高島俊男 「メルヘン誕生―向田邦子をさがして」)>>
慧眼である。
向田邦子の言葉と言葉と文章についての本は、これ一冊あればいい。そして、もうこれ以上なくていいと思う。
2009-01-25[n年前へ]
■久世光彦の書評
本人がどのように考えているかはわからないけれども、斎藤美奈子の書に関する雑文は女性的だと思う。そして、久世光彦のそれは男性的だと思う。女性的・男性的と言っても、それは、たとえば男性的=マッチョというような意味ではなくて、むしろそれとは全く逆の意味だ。つまり、斎藤美奈子は鋭く強く、久世光彦の文章は繊細で後悔交じりの匂いがする。
人のことは言えないと、いつも自分を戒めながら、ついつい面白くて<書評>を書いて十年になる。人のことを書くのは面白いことなのだ。会ったこともないのに、その人と親しくなれたような気がする。ほんの少しだが、その人の肌に触れたようにも思う。だから私は、解説はしない。筋も書かない。私は<書評>で、その人に熱心に話しかけるだけだ。ーそれでもどこかで、余計なお世話をやいているような、後ろめたい気持ちが残るので困る。
久世光彦 「美の死―ぼくの感傷的読書 」