2003-05-01[n年前へ]
■今日見た夕暮れ(と)
全然写真とは関係無いけれど、少し心に浮かんだことを書いてみる。
「○×で議論ができるか?」というたまにみかける話題である。もちろん、○×は「Wiki」でも「WEB日記」でも「Blog」でも「はてなダイアリ」でも何であっても良いのである。とにかく、そんな「○×で議論ができるか?」という言葉を見るたびに、「○×で議論ができるか?」ということよりも、「○×は(それを題材にして)議論ができるか?」ということの方が気になる。議論をするための「場」でもなく「道具」でもなく、その題材自体が「議論」しうるものなのかが気になることが多い。
絶対的な「審判」、例えば「自然」であったり、がいないような題材でどのように議論を判断・終結させていくのかは、その「議論」の道具が何であったとしても難しいことだと思うし、きっとそもそも終結していくようなものではないに違いない。だから、そんな場面を見かけるときには、興味深く眺めもするし、その行く先に少しばかり懐疑的になったりもする。それが単に好奇心の交換を行うようなことであれば、そして「議論」でなければ決して懐疑的になったりはしないのだけれど、そうでない場合にはやはり少し悲観的になったりもする。「審判」のいない世界に百人の人がいれば、百人の世界観があるだろうし、人の意見に干渉するのはつまらない、と思ってしまうのである。
技術系の話題で有れば、そんな「審判」がいる題材も比較的多いけれど(もちろん単に比較的である)、人文系の話題であれば、そんな「審判」がいない場合も多いに違いないけれど、そんな時はどうしているのだろう?うーん、どうしているのだろう?
ところで、絶対的な「審判」がいないような場面で、その題材に関して何かを魔術のように作ってしまう「創造主」が現れることもある。そんな時には「議論」を待たずに「その題材の世界が正しいか、間違っているか」の「審判」ができてしまうこともある。 …あぁ、まとまらないからここで書くのをやめてみよう、っと。
2003-11-19[n年前へ]
■初等ロリータ指向(嗜好)プログラミング
マクロを使って事務的で「非創造的」なプログラムを「創造的」プログラムに変えてしまうというロリータ指向プログラミング・メソッド。まずは、初級編を読んで、そして中級編の付録「フリルの構造とエンコーディング」まで読むと面白い。静止画像フォーマットERIはロリータ指向(嗜好)プログラミングで作成されているのかしらん。
2004-01-24[n年前へ]
■「RTは安心を創造するか」
21世紀COEプログラム 第1回国際シンポジウム 「RTは安心を創造するか」 主催 21世紀COEプログラム 「超高齢社会における人とロボット技術の共生」 日時・場所 2004年2月7日(土) 13:00〜18:00 早稲田大学文学部38号館AV教室 懇親会 18:00〜20:00 文学部カフェテリア 講演者 ・Prof. Rodney A. Brooks (MIT) ・Prof. Paolo Dario (Sant'Anna) ・谷江 和雄 先生 (AIST) ・幸田 昭一 様(東京都福祉局) ・笠木 伸英 先生(東京大学) 参加費・懇親会費 無料 http://www.waseda.jp/prj-rt/
2004-02-07[n年前へ]
■早稲田で。
「RTは安心を創造するか」 Prof. Rodney A. Brooksの講演はとても面白い。「いかにも見た目がロボット」なロボットを思わず作ってみたくなる。といっても、そんなものは作れない。いかにも肉体を使う作業、いかにもガテンな作業を人間の代わりにしてくれるロボットなんて、とてもじゃないけれど作れない。そんなものを作るのは、とってもお金もかかるし、技術も必要だ。
けれど、本当に軽い肉体作業、ひたすらマウスをカチカチとクリックしてエクセルやワードを使ってみたりする作業を、人間の代わりにしてくれるロボットくらいならもっとあっても良いかもしれない。なんだか、周りを見ていると、ロボットでも簡単に代わりができるようなそんな作業が多すぎるような気がする。切符の自動販売機が買う側にとっては全然自動じゃないような風景、切符を買う側から見てみれば「完全手動販売機」がどんどん増えているような風景が増えているような気がする。そして、それを「自動」と捉えた側の人、切符の自動販売機で言うなら駅員、は少しづつ何処かへ消えていってしまうような風景が周りでとても増えているような気がする。
ロボットは人を助けるためにあるんだもの。「鉄腕アトム」 手塚治虫
会場近くの早稲田の街は小さくてゴミゴミとしていて少し綺麗。前に来たのはいつのことだったっかな。
2004-06-14[n年前へ]
■「コピーのコピーはオリジナル」
アナログの時代には、オリジナルのコピー、そして、そのコピーのコピーは新たなオリジナルを生むという図式があった。たとえば、写真においては、ネガの印画紙へのプリントは光の鉛筆による痕跡のコピーだが、それは、まさに、新たな創造だ。 いみじくも、ヨセミテの風景写真で知られるアメリカの写真家アンセル・アダムスは「ネガは楽譜、プリントは演奏」といったそうだが、まさにその通りだと思う。でも、デジタルの時代はちょっと違う。オリジナルとコピーの間には、1bitたりとも相違がないのだ。いや、それ以前に、コンピュータはコピーしか扱えないという宿命を背負っている。山田祥平のRe:config.sys.