2005-02-11[n年前へ]
■「四捨五入と五捨五入」
おれカネゴン「算数記」経由で「日記における四捨五入」を読んでみる。「自分の中の何かを四捨五入して、切り捨ててみたり・切り上げてみたり、そういう感覚はあるかもね」なんて考えながら、ふと、心に思い浮かぶのは四捨五入ではなくて、五捨五入(JIS Z 8401 特にiii項)(ISO31-0)。
自分の中の何かだったり、自分自身が、四捨五入される感覚というのはありがちなものだと思う。今時の季節であれば、もしかしたら受験生なんかはそんな感覚を持つことも多いかもしれない。四と五ではほんの一つしか違わないのに、四捨五入後には大違いになるのだから、自分の力が四以下にならないように、なんとか五以上までがんばって上げないと…なんて思ったりしたことがある人も多いかもしれない。捨てられるか捨てられないかの瀬戸際で、自分自身の桁の数値を大きくしてみようか、なんて思ったことがある人もいるかもしれない。
四捨五入では、「どこかの桁」が切り捨てられるか切り上げられるかは、その桁自身の値の大小で決まる。ところが、五捨五入だと(もちろん、この方法を使う必然性があるわけだけれども)その桁を切り捨てるか・切り上げるかは、(その桁ではなくて)その上の桁が偶数か奇数かで決めてしまう。つまりは、自分が切り捨てられるか切り上げられるかの運命決定権は自分の上の桁が持っていて、その桁がサイコロを適当に振って自分の行く末を決めてしまう。「自分を四捨五入する」と「自分が五捨五入される」のと、どちらがありがちなのかはわからないけれど、どちらもよくありそうな話だ。
「日記における四捨五入」の話に戻るなら、「四捨五入は必ずプラス側に誤差を生じる」という言葉を、この場合にはポジティブに眺めてみるのも、それはそれで良いのかもしれない。今回のような話題であれば、そういったこともあるかもしれないから。「四捨五入で必ずプラス側にシフトする」といったようなことが、少しはあるかもしれないから。
(ところで、こんな話題を書こうとする時、いつも「おれカネゴン文体」霊に憑依されそうになるのは一体何故なのだろう【人は誰しもおれカネゴン】)
2005-12-31[n年前へ]
■今年書いた「12のこと」
今年一年12ヶ月、その中で書いたものを眺め直して、その中から「12のこと」を拾い直してみました。
1.『「四捨五入と五捨五入」』
2.『続「変わらないということは、変わるということ」』
3.『「マクルーハンから鴻上尚史」再び』
何かのための「スペース」を作ること、何かを指した「名前」をつけること、というのは似ています。もちろん、そういった要求があるから、でしょうけれど。
4.『紙と仕事や伝言の量』
5.『「狭い世界(せかい)」と「世間(せけん)が狭い」』
6.『自分の力と自分の個性』
7.『「過去」の長さと同じだけ先の「未来」が見える』
8.『「ルートを外して、色んなものを眺めてみたい」』
9.『「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」、続「井の中の蛙(かわず)」』
10.『「長い文章を書くということ」』
11.『「想像力」と「創造力」』
12.『「WEBコンテンツの変化」と「悪は滅びる」』
2006-02-11[n年前へ]
■「四捨五入と五捨五入」
from n年前へ.
自分自身が、四捨五入される感覚というのはありがちなものだと思う。今時の季節であれば、もしかしたら受験生なんかはそんな感覚を持つことも多いかもしれない。 四捨五入では、「どこかの桁」が切り捨てられるか、あるいは、切り上げられるかは、その桁自身の値の大小で決まる。ところが、五捨五入だと、その桁を切り捨てるか切り上げるかは、(その桁ではなく)その上の桁が決める。 つまりは、自分の運命決定権は自分の上の桁が持っていて、自分の行く末を決めてしまう。「自分を四捨五入する」と「自分が五捨五入される」のと…
2009-07-21[n年前へ]
■50%のうまくいく可能性を四捨五入しちゃえば…
加納朋子の「ななつのこ (創元推理文庫) 」から。
結局、世の中なんて、うまくいくか、いかないかのどっちかよ。まあ統計学的にみて、五十パーセントはうまくいくわけですよね。四捨五入しちゃえば、十割だわ。
2010-11-24[n年前へ]
■50パーセントは…四捨五入しちゃえば10割だ
加納朋子「ななつのこ 」から。
「結局、世の中なんて、うまくいくか、いかないかのどっちかよ。まあ統計学的にみて、五十パーセントはうまくいくわけですよね。四捨五入しちゃえば、十割だわ」