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1999-09-10[n年前へ]

「こころ」の中の「どうして?」 

漱石の中の謎とその終焉

 考えてみると、www.hirax.netには夏目漱石が時々顔を出す。例えば、

などだ。もともと、夏目漱石は寺田寅彦・ロゲリギストといった物理学者の流れの源と言っても良いものだから、その影響を多々受けている私のWEB中に出てくるのは自然なのだろう。

 というわけで、今回こそは夏目漱石がメインの話である。漱石の「こころ」を「夏目漱石は温泉がお好き?- 文章構造を可視化するソフトをつくる - (1999.07.14)」「失楽園殺人事件の犯人を探せ- 文章構造可視化ソフトのバグを取れ - (1999.07.22) 」で作成した文章構造可視化ソフトWordFreqで解析してみるのだ。そして、「こころ」で繰り返し問われる謎がどのようにして終焉を迎えていったかを考察してみたい。いや、考察というほどのものではなく、考えてみたい、それだけだ。

 何故、私がそういう気持ちになったかといえば、それは小山慶太著の「漱石とあたたかな科学」講談社学術文庫を読んだせいである。

 今回のテキストである漱石の「こころ」は

から集英社文庫によるj.utiyama、伊藤時也 らによる作成のものを入手した。

 言うまでも無いと思うが、「こころ」は学生である「私」と「先生」との間で進む物語である。「私」が先生と出会い、そして「先生」の物語が語られる。
 それでは、「先生」と「私」の出現分布を可視化してみる。両者とも1100行辺りで大きく変化しているのがわかる。これは、ここから「下 先生と遺書」に入るからである。一人称である「私」は学生の「私」ではなく、「先生」である「私」になる。ここからは「先生」である「私」の物語になるのである。
 また、冒頭をピークとして「先生」の出現頻度は単調に低下していく。学生である「私」から、先生である「私」への視点の移り変わりはもしかしたら冒頭から形作られているのかもしれない。

先生(左)、私(右)の出現分布 (水平軸は左->小説の始め、右->小説の終わり)

 ところで、「こころ」は「どうして」という謎と「解らない」という答えの繰り返しである。それは、下のようにどうして(左)、解(右)の出現分布を見ればわかる。もちろん、「どうして」には「どうして...」も含まれれば、「どうしても」なども含まれる。また、「解」には「解らない、解る、誤解」などが含まれる。しかし、それらは大きく見れば実は同じようなものである、と思う。

どうして(左)、解(右)の出現分布

 どうして(左)、解(右)の出現分布がよく似ているのがわかると思う。「どうして」と問いと「わからない」という答えはいつも対になるのである。

 これらとちょうど反対の分布を示すのが「死、卒業」というキーワードだ。

死(左)、卒業(右)の出現分布

 「どうして」(左)、「解」(右)という言葉が出現しない時には、「死」(左)、「卒業」(右)という言葉が現れるのである。また、この「死」(左)、「卒業」(右)という言葉が現れる時は、「先生」と「先生」である「私」があまり登場しない時でもある。学生である「私」から「先生」である「私」への過渡期であり、それは同時に「死」(左)、「卒業」(右)ということを浸透させる時期でもあるのだ。

 結局、「どうして、解、死、卒業」は小説の最後において、同時に出現する。それらは最後に重なるのだ。それが答えなのか、あるいは答えがどこかに消えてしまったのか、どちらなのかはわからないままだ。

1999-11-15[n年前へ]

「星の王子さま」の秘密 

水が意味するもの


 今回は、Saint-Exuperyの「星の王子さま」- Le petit prince -について考えてみたい。しかし、メルヘンな話を期待する方は、おそらく失望することだろう。もし、今持っているイメージを壊したくない方は、今回の話は読まないほうが良いかもしれない。

 おそらく一般的に多いであろうイメージの「星の王子さま」というものは、私はそれほど好きではない。よくWEBで見かける「この本は、真実を見る目を失いかけた大人のための童話です。」というイメージである。私も、かつてはそういう認識だった。そして、「それだけでは、何かもの足りない」という感じがしていた。そのため、「星の王子さま」を好きではなかったのだ。

 しかし、

  • 「星の王子さまの世界 - 読み方くらべへの招待 -」 塚崎幹夫著 中公新書
を読んで、そのイメージが一変した。これまで、「星の王子さま」の側面、あるいは仮面しか読んでいなかったことに気づかされた。読み方が足りないことに気付かされたのである。「星の王子さま」の底に流れているものに気付かなかったのである。実は「何かが足りない」わけではなく、私の読み方が浅かったのである。先の「この本は、真実を見る目を失いかけた大人のための童話です。」というイメージは私の読み方が浅かったせいであって、もう少し深く読めば、「真実から目を背けている人への告発・遺言」と受け取ることができたはずなのであった。

 さて、今回は私なりの「読み方」をしてみたい。具体的には、「水」というキーワードにこだわって解釈を行ってみるのだ。何故か、私はこの「星の王子さま」の中で「水」というキーワードに「深い何か」を感じるのである。

 何故、こういう単語にこだわる読み方をするかと言えば、それは塚崎幹夫氏の「星の王子さまの世界- 読み方くらべへの招待 -」の影響である。その内容の紹介を少し紹介しておく。

 塚崎幹夫氏は、 話の冒頭に出てくる「ゾウを飲み込むウワバミ」が何かもう少し深いものを指しているのではないか、と考える。「本当にもののわかる人かどうか」知るために、主人公が人に見せる「ゾウを飲み込むウワバミ」が何か深いものを指しているのではないか。「半年のあいだ、眠っているが、そのあいだに、のみこんだけものが、腹のなかでこなれ」そして次の獲物をのみこむウワバミは何を指しているのか、と考えた。
 そして、次のような年表を示す。

  • (1937.7.7 日本、中国侵略開始)
  • 1938.3.10 ドイツ、オーストリア侵略
  • 1938.9.29 ドイツ、チェコ侵略
  • 1939.3.15 ドイツ、チェコ解体
  • (1939.4.7 イタリア、アルバニア占領)
  • 1939.9.1 ドイツ、ポーランド侵入
  • 1940.4.9 ドイツ、デンマーク、ノルウェー侵入
  • 1940.5.10 フランス、ドイツに大敗
  • 1940.11 Saint-Exuperyヴィシー政府に失望し、アメリカに亡命、その後、ヴィシー政府がSaint-Exuperyを議員に任命する。(どこかで聞いた話)
 ここから、半年毎に獲物を飲み込むウワバミはドイツのことを指している、と考えるのだ。
 つまり、ゾウを飲み込むウワバミが、帽子にしか見えないことが「真実を見る目を失いかけた」といっているのではない。これは、ウワバミの中で飲み込まれつつある動物のことを考えることができないことを、「真実を見る目を失いかけた」と言っているではないだろうか。もちろん、そのウワバミとは文字どおりのウワバミではなく、違うものを意識した話なのである。

 同じように、「ぐずぐずしてはいられないと、一生けんめいになって」描いた「3本のバオバブ」は挿し絵についても考察を巡らせている。
  • 「(バオバブは)星の上いちめんに、はびこります。」
  • 「バオバブはほうり出しておくと、とんだ災難になるんだ」
  • 「まだ、小さいからといって、バオバブの木を三本ほうりっぱなしにしておいたものだから...」
  • 「ですから、ぼくは、一度だけ日ごろのえんりょをぬきにして、こういいましょう。<みんな、バオバブに気をつけるんだぞ!>」
  • 「ぼくの友人たちが、ぼくと同じように、もう長いこと知らないで危ないめにあいかけているので、気をつけるんだよ!といいたいためです。」


 塚崎幹夫氏はこれら「3本のバオバブ」はドイツ・イタリア・日本を指しているのではないかと指摘している。
 こういった「読み方」をしながら、「星の王子さま」が「苦悩に満ちた懺悔と贖罪の書であり、自分の死後のフォローを意識したもの」であるのではないか、と言う。


 さて、塚崎幹夫氏の影響を多いに受けている私ではあるが、私なりの「読み方」をしてみたい。「水」というキーワードにこだわった「読み方」をしてみる。私の受ける印象では、「水」というキーワードには深い思いが込められているはずなのだ。

 そのために、

から情報を辿り、から「星の王子さま」-"Le petit prince-のフランス語のテキストを入手した。オリジナルにこだわったわけではない。日本語版も英語版も電子テキストでは手に入らなかったのである。

 さて、単語にこだわって解析をするとなれば、

と同じように、WordFreqを使うのが有効だろう。まずは試しに"CHAPITRE"の出現分布を調べてみよう。そうすれば、行数と章構成の対応がわかるわけだ。
行数と章構成の対応
 このように27章と物理行の対応がわかる

 それでは本題の、"'eau"の出現分布を調べることで、「水」の出現分布をwordfreqで解析してみる。

"'eau"-水-の出現分布

 最初と最後に「水」が登場しているのがわかる。このような、物語の「始まり」と「終わり」集中して出現する単語と言うものは、重要な意味を持つと考えるのが普通だろう。冒頭で、水を持たない主人公が、話の最後で水を湛える井戸を見つける。これは、どのような意味があるだろうか。また、王子にとって重要な「守るべきもの」に王子は水を与えていたこと、これらは何を意図したものなのだろうか。

 さて、「水」が出現するのは

  1. 50行目付近
  2. 300行目付近
  3. 1300行付近
の計三箇所である。それは、冒頭の主人公が水をなくしたところ、バラに水をやるところ、王子と主人公が水を探しに行き、見つけるところである。それでは、その出現個所の中から重要そうな部分を拾ってみよう。特に、最後の1300行近辺を集中して考えてみる。ここで、冒頭の数字は、「星の王子さま」岩波少年文庫でのページ数を示している。
  • 115 だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。
  • 124 水は心にもいいものかもしれないな...
  • 131 その水は、たべものとは、別なものでした。
  • 131 だけど、さがしているものは、たった一つのバラの花のなかにだって、少しの水にだって、あるんだがなぁ...
  • 147 星がみんな、井戸になって...そして、ぼくにいくらでも、水をのませてくれるんだ。
 また、他の作品「城砦」の文章も示しておこう(といっても星の王子さまの世界からの孫引きであるが)。
  • その人間を解放するということは、彼に渇を教え、また井戸への道を教えてやることだ。
  • それら井戸のひとつひとつに、どうしてもたどりつかねばならないようにするだろう...必死になってその井戸をめざさねばならなくなる。
  • おまえが水を飲もうと思うとき、....おまえの行為を祈りという意味に化するのである。
 こういった、文章をつなげて読んでいったときに、「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ...」という言葉は殉教者の言葉に聞こえてくる。「砂漠」が「生」と感じられたり、「井戸の中の水」が「意義」と感じられたりするだろう。また、他の言葉にも聞こえてくる。しかし、それらをひとつひとつ挙げることはしない。

 こういう言葉の意味するものをそれぞれ考え、「かんじんなことは、目に見えない」という言葉をもういちど読みなおしたときに初めて、Saint-Exuperyの「星の王子さま」が私は好きになったのである。その「星の王子さま」の二面性こそ、私が好きな部分である。

 さて、最後に次のような二つの文章を並べてみる。こうすると「星の王子さま」に流れる強い背景・考えを感じるのではないだろうか。

二つの文章
「わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、....そのおとなの人は、いまフランスに住んでいて、ひもじい思いや、寒い思いをしている人だからである。どうしても慰めなければならない人だからである。...
子どもだったころのレオン・ウォルトに」
「星の王子さま」 献辞

(レオンウォルトに)
「今夜しきりと思い出す人物は今50歳だ。彼は病気だ。それにユダヤ人だ。どうして彼にドイツの恐怖を乗り越えられよう?」
「ぼくがなおも戦いつづければ、いくらかは君のために戦うこととなるだろう。...ぼくは、君が生きるのを助けたいのだ。実に無力で、危険におびやかされている君の姿が眼に浮かぶ。更に一日生きのびるために、どこか貧しい食料品店の前の歩道を、50という年齢を引きずって歩きまわっているきみの姿が、擦り切れた外套に身をくるんで、仮の隠れ家で身を慄いているきみの姿が、眼に浮かぶ。」
「ある人質への手紙」

 やはり、「星の王子さま」は端的に言えば、寓話の形をした遺言(の準備をしたもの)であるのだろう。「星の王子さま」が出版された四日後、Saint-Exuperyは戦うためにアメリカからアフリカへ出発する。

 「星の王子さま」は一つの挿絵と、その挿絵の説明で話が閉じられる。その最後の挿し絵は王子が姿を消した場所を描いたものだ。それだけではない。その「アフリカの砂漠」は、Saint-Exuperyが最後に「戦う兵士」として飛行機で通過し、そして、姿を消した場所でもある。

「これが、ぼくにとっては、この世で一ばん美しくって、いちばんかなしい景色です」


2000-01-27[n年前へ]

「富士の樹海」を目指せ 

磁界を可視化しよう

 以前から探していた「面白いもの」を入手した。この写真がその「面白いもの」なのであるが、何だかわかるだろうか? ちなみに、大きさは「1cm×5cm」位のシートである。
 

謎の「面白いもの」

 これは「マグネビュアー」というものである。磁界を可視化してくれるシートだ。マイラーフィルムの間に磁性体を混入させたマイクロカプセルを入れることで、磁界に対する配向性を持たせたものだ。と、言葉でいってもなかなかわかりにくいので、磁界を可視化した写真を示してみる。何しろ、百聞は一見に如かずである。
 次の写真は某ピザ店のマグネットシート(よく冷蔵庫の扉に張り付ける奴)の上に「マグネビュアー」をのせたところである。ピザ屋は私の食生活を支えていると言っても良い。私が生きているのはピザ屋のおかげである。
 

某ピザ店のマグネットシートの上に「マグネビュアー」をのせたところ

 私の「命の恩人」でもある某ピザ店のマグネットシートがつくる磁界が見て取れるだろう。磁界が可視化されているのである。

 本WEBではこれまで様々な「可視化」で遊んできた。例えば、

などである。様々な現象を可視化してきた。そこで、今回は磁石がつくる様々な「磁界」を可視化して遊んでみたい。

 上に示した「某ピザ店のマグネットシートの表面」の磁界の様子も面白いが、もっと面白いのは「某ピザ店のマグネットシートの境界」の磁界を可視化したものである。

 それが下の写真である。磁界の様子が実感できるのではないだろうか?
 

「某ピザ店のマグネットシートの境界」の磁界を可視化したもの

 下に示す図はドーナツ型の磁石の周りの磁界をCUPSを用いてシミュレーション計算した結果である。この計算結果と同じようなものが「マグネビュアー」を使うと簡単に可視化できる。
 

ドーナツ型の磁石の周りの磁界をCUPSを用いてシミュレーション計算した結果

 普通、こういった磁界の可視化は磁気造影剤や砂鉄みたいな磁性体粒子を用いるのであるが、そういったものはどうにもハンドリング性にかける。液体や粉体などを家の中で実験に使うのはイヤである。いや、もちろん仕事で使うのもイヤであるが... そこで、この「マグネビュアー」が登場するわけだ。

 それでは、その他の面白そうな磁界を可視化してみたい。磁界と言えば、やはりアレの登場だろう。もちろん、アレと言えば磁気カードである。クレジットカードや銀行のキャッシュカードといった磁気カードだ。一例を次に示してみる。こんなヤツだ。
 

磁気カードの一例

 カードの下に黒い磁気データ記録部があるのがわかるだろう。

 それでは、その「磁気データ記録部」に「マグネビュアー」をのせてみよう。はたして、磁気データは可視化されるだろうか?
 

「磁気データ記録部」に「マグネビュアー」をのせる

 といっても、この写真ではわかりにくいので、「マグネビュアー」を拡大してみよう。すると、バーコードのような模様が見えるのがわかると思う。「磁気データ」が簡単に可視化されているわけである。この「マグネビュアー」と普通のスキャナーがあれば磁気データ読み取り機がなくても磁気データが読みとれるのである。
 

「磁気データ」が簡単に可視化されている

 しかし、このカードに関しては内容を解析するとマズイ事情があるので、次回に「ソフマップ」のカードを題材にして磁気カードの内容を可視化してみるつもりだ。題して、

  • ソフマップでお買い物 - 磁界の可視化とバーコード - (仮称)
である。

 さて、話は変わるが、私はこの「マグネビュアー」を手に「富士の樹海」を目指すつもりだ。「富士の樹海」では」方位磁針が変な方向を示すと伝えられている。そしてまた「富士の麓」ではとかく人は判断を誤りやすいとも聞く。船頭多くして船山に登ると言うが、「富士の樹海」には判断を誤った船が沈没しまくりである。

 私は「富士の樹海」の真実をこの「マグネビュアー」で明らかにするつもりだ。「富士の樹海」の謎を明らかにするのである。何故、方位がそして人が判断を誤るのか、その謎を明らかにするのだ。

 しかし、もしも、もしも、の話であるが、本WEBの更新が止まった際には、「富士の樹海」で私が眠っていると思って欲しい。「マグネビュアー」が役に立たないはずがないのだが、きっと何か判断を間違えたのであろう。そうそう、あくまで「富士の樹海」である。「富士の裾野」ではないので念のため...
 

2000-02-05[n年前へ]

恋の固体物理学 前書き編 

シリコン・エイジの恋


 これまで、様々な「恋の形」について考えてきた。古くは、

であったり、あるいは、であったりした。

 最近の「恋の力学」シリーズでは、初めに男と女の間の「恋の二体問題」を考え、そして二人の男と一人の女の間の「恋の三体問題」を考えてきた。しかし、それらの「恋の力学」が取り扱ってきたものは、ごく少数の登場人物により演じられる物語を解析したものである。また、特に「男」と「女」の間に性質的な差がないものとして、解析を行ってきた。

 このような解析の前提条件、

  • ごく少数の登場人物
  • 「男」と「女」の間に性質的な差がない
というのは一般的に成り立つわけではない。もちろん、それらの条件が成り立つ場合も多いが、成り立たない場合も多い。そのような場合、つまり
  • 数え切れない多数の人物が登場し
  • 「男」と「女」の性質の間に差がある
場合の解析を行っていくにはどうしたらいいだろうか?

 例えば、

  • 「男」も「女」も結構人数はいるのであるが、その数がかなり違う。
というのは、どうだろうか。現在、「男」の数は「女」の数よりもはるかに多いので、この例えはそれほどおかしなものではない。また、
  • 「男」が諸星あたるのように、やたら行動力があるが、「女」の方ははなかなか動かない
とかの場合もあるだろう。そして、また
  • 恋人達に何かのショックを与えると分かれてしまう。
などのカップル崩壊現象もある。このような現象も実に面白い現象である。また、「男」と「女」がカップルになる「カップル」再結合現象も興味深い問題である。例えば、
  • その場の雰囲気でカップルになっちゃった
というような現象も現実にはある。このようなカップル「結合」は摩訶不思議と言わざるをえない。

 こういった色々なことが「恋の物理学」では起きる。しかし、

で書いたように、夏目漱石の時代に作り上げられた「恋の力学」ではそのような現象の解明は困難である。

 そこで、新たな「恋の科学」の分野を作り上げ、そういうことについて考えを巡らせていきたい、と思う。とはいえ、いきなりやるのは私には難しい。そこで、まずは解析のための準備をしていきたい。

 というわけで、本シリーズは題して、「恋の固体物理学」である。先に述べたような「不均等な恋の挙動」を例えば半導体工学のような固体物理学のテクニックを用いて解明したいと思うのだ。割に単純な「恋の力学」シリーズとは別に、「恋の固体物理学」シリーズを始めたいと思うのである。

 普通に考えるならば、 - 何故「恋」の挙動解明に、半導体工学? - と思われるかもしれない。確かに、唐突であるとは思う。しかし、考えてみればそれほど不自然ではない。何しろ、現在はシリコンの時代であると言われる。
 プラスティック・エイジを経て、現在はシリコン・エイジが世界を支配している。シリコン= 半導体技術により、世界は動いているのだ。そうであるなら、「恋に動かされる人」の挙動も、、半導体技術を用いることにより解き明かすことができるかもしれない。(いや、もちろん今考えた理屈である。簡単に言えば、こじつけである。)

 そしてまた、「恋」は一般的に(例外はあるが)

により形作られるが、半導体工学も、同じように二つのモノたち
  • プラスの「正孔(ホール)」
  • マイナスの「電子(エレクトロン)」
により形作られる。全く同じである。また、先の
  • 「男」も「女」も人数はいるが、その数がかなり違う。
という条件、例えば、「女子校の中の男教師」という状況(この逆のよくあるケースとして、「ほとんどが男子学生の理系学部の中の女子学生」というケースがある)などは不純物がごく少量ドーピングされた不純物半導体そのものである。

 そのような理屈で半導体工学と関連づけながら、「恋の固体物理学」について考えてみたいと思う。

 このシリーズは少しヘビー(私にとって)なので、今回は前書きのみに留めたい。これから公開予定の作品群を紹介すると、

  • 恋の固体物理学 恋のバンドギャップ編 - 彼女の防護壁を突破しろ! - (仮称)
  • 恋の固体物理学 恋のドーピング編 - 女子校の教師はパラダイスか? - (仮称)
  • 恋の固体物理学 恋の熱励起編 - 別れたくなかったら頭を冷やせ - (仮称)
  • 恋の固体物理学 恋のp-n接合編 - 一方通行の恋の行方 - (仮称)
  • 恋の固体物理学 恋のEinsteinの関係式編 - 本気と浮気の境界線 - (仮称)
といった感じになる。

 まだまだ続く「恋の力学」シリーズと共に「恋の科学」を作り上げていきたいと思う。

2000-02-24[n年前へ]

「モナリザ」の自己相似形 

48x48の「世界への微笑」

 以前、

で、
 ASCII文字で描かれたモナリザを初めて見たのは、まだ大型コンピューターしかなかった頃だ。当時、記憶媒体の紙テープをパンチした紙くずと、ラインプリンタから出力されたASCIIアートで遊んでいた。
と書いた。

 私がモナリザを見たのはこのASCIIアートのモナリザが初めてだった。何故か住宅の天井裏にASCIIアートをモチーフにしたカレンダーが貼られていた。天井裏に貼られたモナリザはとても趣があった、と思う。
 そういうわけで、初めて見たモナリザは、カラーではなくて白黒の、しかもASCIIアートのモナリザだったのである。

 もちろん、そのモナリザはもうどこにもいない。そこで、

の時にバージョンのIMAGE2ASCIIでモナリザをASCIIアートに変換したのが下の画像だ。
 
モナリザのASCIIアート

 こんなに縮小してしまうと、ASCIIアートに見えない。そこで、顔(特に目)の辺りの部分の拡大図を下に示してみる。
 

モナリザのASCIIアートの顔(特に目)の辺りの部分の拡大図

 こうしてみると、ASCII文字であることはわかる。しかし、全体像は全く見えなくなる。「これが、モナリザの目の辺りだ」と言っても全く信用されないことだろう。

 こういう画像を考えるときは、全体像と拡大図の両方を感じなければいけない。拡大図しか感じられないと、「木を見て森を見ない」状態になる。そして、全体像しか見ない場合には「実際の所をなにも知らない」状態になる。

 さて話を戻す。私が眺めていたASCIIアートをのモナリザを初めとして、モナリザほど「本歌取り」の「本歌」に使われているものもない。「モナリザの微笑」からは、沢山の人が色々なものを引き出してきた。「モナリザ」の微笑はどうにも奥深く見えるから不思議である。その微笑の先に何があるのかを深く考えさせる。その答えはなかなか見つけられない。
 そういうわけで、東京都美術館で開催されていた「モナリザ100の微笑」を先日見に行ってきた。

 特に、私が見たかったのはこれである。福田繁雄の「世界への微笑」だ。
 

福田繁雄 「世界への微笑」

 もう、おわかりだと思うが、これは切手によるコラージュである。このモナリザの顔(特に目)の辺りの部分の拡大図を次に示してみる。
 

「世界への微笑」のモナリザの顔(特に目)の辺りの部分の拡大図

 拡大すると、全体像が全く判らなくなるというところは、ASCIIアートと全く同じである。こういった、離れてみると、やっと何が描かれているかわかる、という画像はとても面白い。

 そこで、今回はそういう画像を作成してみたい。つまり、「小さな画像の集合が集まって一つの画像になる」ようなものだ。

 それに加えて、先ほど

「モナリザ」の微笑はどうにも奥深く見えるから不思議である。
と書いた。「モナリザの微笑」を眺め考えると、その先には結局「モナリザ」しか見えてこない。答えが見えないのである
 まるで、それはタマネギのようで、自己相似形という言葉さえ思い起こさせる。

 そういうわけで、小さな「モナリザ」が集まって一つの「モナリザ」となるような画像を作成してみることにした。逆に言えば- 「モナリザ」を見つめていくと、その先にさらに小さな「モナリザ」が見えてくる- という画像である。

 そういう画像を作るために、簡単なアプリケーションを作成してみた。それが、これである。

名前はjoconde.exeだ。画像を読み込み、その画像をその画像自身の縮小画像(48x48個)で表現するのである。福田繁雄は切手や国旗で「モナリザ」を表現した。私は48x48個の「モナリザ」で、さらなる「モナリザ」を表現するのである。
 いつものごとく、色々な画像のフォーマット対応のためにはSusieプラグインを必要とする。もちろん、言うまでもないと思うが信用度はアルファ版以下である。

 さて、作成した画像 - 題して、48x48の「モナリザ」 -を次に示そう。「モナリザ」の微笑は「モナリザ」でしか表現し得ない、という私の気持ちの表れである。この画像をクリックすれば、元のサイズの- 48x48の「モナリザ」 - を見ることができる。
 

jun hirabayashi 作 48x48の「モナリザ」

 この画像では、48x48個の「モナリザ」でできていることはわかりづらい。そこで、上の画像のモナリザの目の辺りを拡大したものが以下である。
 

jun hirabayashi 作 48x48の「モナリザ」 部分

 この - 48x48の「モナリザ」 - を眺めていると、「モナリザ」の微笑について色々と考えてしまう。どこが、一体魅力となっているのだろうか? いくら考えてみても、よくわからない。

 さて、モナリザと言うと、夏目漱石と「モナリサ」にも言及しなければならないだろう。しかし、それは次回のココロだ。
 



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