hirax.net::Keywords::「夕暮れ」のブログ



2007-11-24[n年前へ]

海辺 

 上半身はウィンドブレーカーで、下半身はショートパンツでも、風を気持ち良く感じるくらい暖かい。そんな、晩秋の海辺。n年前の景色を見ながら、こんな文章を思い出す。

 さて、大正の末から昭和二十年代まで活躍した木版画家に川瀬巴水という人がある。

 巴水のもっとも得意としたものは、暗く清澄な景色で、とりわけて夕焼けの風景を描いたものに、誰が見ても傑作という作物が集中している。

 彼の夕暮れには、独特の寂しさが横溢していて、どこか人恋しい感じも漂っている。画中小さく描かれる人物はたいて後ろ向きで黙然と遠くを眺めてい、私どもはその画中の人物となって等しく日本の寂しい夕景を眺めつくす。

林 望「夕映えの渚にて」トランヴェール 2007,11

海辺海辺海辺海辺海辺海辺海辺






2007-11-25[n年前へ]

「海面に写る太陽」の不思議 

初日の出と足元に広がるミステリー

 新年の代表的な景色が「初日の出」だ。海の向こう、水平線の向こうから太陽が姿を現す。空に太陽が昇ると、太陽に照らされ水面が静かに光りだす。そんな景色を見ているとき、ふと「あること」が気になりだし、とても不思議に思えてきた。

 海面に太陽が写っているようなのだが、海面に写った太陽はまるで「道」のように水平線から足元まで続いている。よく考えてみると、これは少し不思議に思える。海面に反射した、つまり、海面という鏡に映った太陽の姿がなぜ「上下反転した太陽」でなく「輝く道」のように見えるのだろうか。

 昔学校で習った理科の教科書の中には、確かこんな図が描いてあった。そして、太陽の光が水面で反射するときには、「入射角と反射角が同じになるように(海面からの太陽の反射光が)進む」ということだったように思う。そして、その結果、水面には上下さかさまになった太陽の姿が見える、はずだった。

実際、夕暮れ時に風やんだ静かな河口で夕日を眺めた時を思い出せば、それは川面に写る太陽は教科書通りの「上下さかさまの姿」そのままだった。なぜ、目の前の海面にうつる太陽は逆さの点光源ではなく、輝く道のように見えるのだろう?その理由を考えていくうちに、「海面が波立っていること」「太陽に対する(微小)海面の向き」「海面でのフレネル反射率」が原因だということがわかってきた。

 まずはじめに確実なことは、海面は平らでも滑らかでもない、ということだ。風や色々なものが原因で、海面は波立っている。海面はその場所ごとに、数限りない色々な方向を向いている。だから、「入射角と反射角が同じになるように(海面からの太陽の反射光が)進む」のだとしても、海面に写り込む太陽は、決して一点だけに見えるわけでなく、さまざまな海面上に写って見えることになる。

 実際、表面が粗く波立った海面に太陽光が入射した時の反射光の分布を計算してみると、右の図のようになる(Modified - Blinn - Phong Model)。海面が微視的に色々な方向を向いているので、海面からの太陽光の反射は一方向のみに照射されるのでなく、色々な方向に向く。しかも、右の図は、まだ比較的表面が平らな場合の計算結果なので、実際の海面からの反射光はもっとさまざまな方向に広がる。

 

 そして、重要なことは(微小領域ごとの)海面の向きにより海面からの反射光強度が等方的に分布するのではない、ということである。海面が太陽の方向を向いているときには、その(海面から見た)海面単位面積辺りに入射する太陽光強度が強くなる。そういった効果は、太陽の反射光強度を強める方向に働く。また、海面が私たちの方向に向いている(傾いている)箇所では、(微小海面から見た)水平に近い角度で太陽光が入射・反射することになる。すると、海面でのフレネル反射率が高くなり、これまた、太陽の反射光強度を強める方向に働く(右図は太陽光の入射角に対する海面での反射率を示したもの)。特にフレネル反射率は入射角度が海面に対して、水平に近くなればなるほど非常に高くなり、最後には全反射になる。そのため、「太陽光が私たちの目に反射するような角度になる微小海面」がそれほど多くなかったとしても、反射光は非常に強く見えるのである。

 

 これらの効果が合わさった結果、太陽光の反射光が眩しく映り込むような箇所はどのようになるかを図示して考えてみると、「自分の足元の海面から太陽の方向へ延びる線上」となることがわかる。太陽と私たちを結ぶ線以外の方向は、海面での太陽光の反射率が低くなるので、太陽の姿はほとんど写らず、波立った海面に映り込む太陽の姿が見えるのは、自分の足先の海面から水平線まで光り輝く道状の領域ということになるのである。


 私たちが眺めている景色には、「たくさんの不思議」が満ち溢れている。私たちの目の前に転がっている小さなミステリーを解決しようと、その未知のものに一歩足を踏み入れた途端、ただひとつの例外もなく、その奥にはさらに未知の大きな世界が続いている。それは、何だか元旦と新年の関係に似ているように思う。元旦になった今日、新しい未知の一年が始まる。私たちの足元から水平線の先へ、未知の道が続いている。


河口河口河口海辺海辺海辺ホワイトボードMod-Blinn-PhongPhongSurfaceFresnel全反射






2008-01-05[n年前へ]

「タグ」に関するブログ 

 「油絵」のブログという感じで、タグ別のブログページを仕立てました。タグ一覧ページから、個別のタグを辿ると、それぞれのブログページへのリンクがあります。「Photoshop」のブログ「ミステリー」のブログ「夕暮れ」のブログ「半神」のブログ「答え」のブログなど、ひとつの言葉から生まれるたくさんのブログ群、です。

2008-01-30[n年前へ]

「ひかへん」v.s.「ひけへん」アンケート 

 「立ち切れ線香」の「三味線弾かしません」のニュアンスをどんな感じに聞くかを知りたくなって、アンケートをしてみた。聞いてみたのは大阪人1人と京都人2人、答えは少しづつ違うけれど、やっぱり、似たような結果でもあった。下に貼り付けたのが、その3人のアンケート結果だ。「ひけへん」は「不可能な事実(と表裏一体の残念さ)」で「ひかへん」は「意思と事実が混じり合ったようす」だ。

「わしの好きな唄、何で終いまで弾いてくれんのやろ?」
「もうなんぼ言うたかて、小糸、三味線弾かしません」

 こんなアンケート結果を目にすると、「立ち切れ線香」には「三味線弾かしません」こそがピタリとはまるように見えてくる。朱色と藍色が複雑に混じり合う夕暮れの空のように、事実と意思が複雑に混じりあった言葉で、緞帳が下ろされる方がふさわしいような気がしてくる。

たくさんの混じり合っているものを、味わいのもよい。

ひかへん」v.s.「ひけへん」ひかへん」v.s.「ひけへん」ひかへん」v.s.「ひけへん」






2010-07-27[n年前へ]

ここは天国じゃないんだ。かといって、地獄でもない。 

 あるニュースに対する解説を聴いているとき、ふと、THE BLUE HEARTSのTRAIN-TRAINの歌詞の一節を思い出した。

弱い者たちが、夕暮れ、さらに弱い者を叩く。
その音が響きわたれば、ブルースは加速していく。

ここは天国じゃないんだ。かといって、地獄でもない。
いいヤツばかりじゃないけど、わるいヤツばかりでもない。

見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる。
本当の声を聞かせておくれよ。



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