2001-03-31[n年前へ]
■Inside out
Liberation
M.C.Escherの画集を眺めていた。その中のLiberationというリトグラフが、ちょっと千羽鶴がぶらさがっている姿に似ていて、何故だか気に入った。千羽鶴に姿が似ている、というわけで、このLiberationは私にちょっと折り紙を連想させた。何しろ、私が折ることのできる折り紙は折り鶴だけなのである。
折り紙と言えば、その技法の一つに"Inside out"というものがある。なんでも、「折り紙の裏と表をうまく利用して作品に色や模様を折り出す技法」だという。裏と表とで色や模様が違う紙を使って折り紙を折れば、裏が見えるところと表が見えるところが組合わせて違う模様を表すことができるわけだ。
もちろん、それは表と裏が分けられるからできることだろう。もしも、表と裏が分けることができないものであったら、そんな折り紙の技法みたいな"Insideout"はできないに違いない。いや、もしかしたらできそうな気もするから、「できそうにない」と言い換えておこう。
例えば、このページのトップにある「クラインの壺」やM.C.Escherがよく描いた「メビウスの輪」では裏や表なんていう風に表面を分けることはできない。だから、そこには表も裏もないから、「裏と表を利用して」なんていう折り紙の技法としての"Insideout"は「できそうにない」。
だけど、Liberationを見ながら少し考えこんでいると、こんな「クラインの壺」や「メビウスの輪」こそが本当の"Insideout"ではないだろうか、と私には思えてきた。
言葉としての"Inside out"は「裏返して、ひっくりかえして」という意味である。そして、「クラインの壺」や「メビウスの輪」は裏と表が「ひっくりかえることで」繋がっている。そして、そこには結局のところ裏も表も存在しない。裏も表もなくて、それは完全に同じ一つの表面なのである。
それと同じくして、言葉としての"Inside out"も「完全に,何もかも」という意味をも表す。一見、裏と表に分かれて見えるようなものをひっくり返してつなげてみたときに、そこでは「何もかも完全に一つ」になる。
そういえば、そんな「クラインの壺」や「メビウスの輪」はたくさんある。例えば、文学と科学で「クラインの壺」や「メビウスの輪」を作り上げようとしたのが夏目漱石であり、そして寺田寅彦だろう。一見、二つのものに分けられているように見えても、それを繋げてひとつのものにした例は他にもたくさんあるはずだ。もしかしたら、「表と裏」というものそのものだって本当はそうかもしれない。
内側も外側も関係なくて、二つに分けられているように見えるものをなんとか繋げ続けたら言葉通りの"Insideout"が見えてくるかもしれない、とLiberationを眺めながら考えた。そして、それがきっとLiberationなのだと思うのである。
2001-07-07[n年前へ]
■七夕の夜に願うこと
ベガとアルタイルと一通のメール
今日は七月七日、七夕だ。その夜、天の川の両岸で光る織女星と彦星が一年に一度だけ逢う。織女星は琴座(Lyra)のα星ベガ(Vega)で、彦星は鷲座(Aquila)のα星アルタイル(Altair)である。
ベガは地球から25光年離れた場所にあり、その明るさは0等のとても明るい星だ。もう一方のアルタイルは地球から17光年離れている。そして、ベガとアルタイルの間の距離は15光年離れている。それを15光年「も」離れていると思うか、15光年「しか」離れていないと思うか、それは人によって違うだろう。15光年「も」離れていると思う人は、ベガとアルタイルの間で言葉を交わしても、その言葉が往復するのに15×2= 30年もかかる、と考える。そして、15光年「しか」離れていないと思う人は、たった30年で言葉が通い合う、と考えることだろう。人それぞれだ。
誰かと待ち合わせている時、遅れた相手を例え5分間でも待つのも耐えられない人もいる。そして、1時間も相手を待つことが苦にならない人もいる。もちろん、それは誰を待っているかとかどんな状況かとかにもよるところが大きいだろうけれど、とにかく人それぞれの時間感覚があるわけだ。
人にもそれぞれの時間感覚があるように、生物にはその生物それぞれの固有の時間間隔がある。しかも、それだけでなくて、
で考えたように、生物に限らずあらゆる系でその系固有の時間感覚があることだろう。だったら、ベガとアルタイルの間で信号が伝わりあう30年という時間はベガとアルタイル自身の時間感覚からすると、それは長いのだろうか、それとも短いのだろうか。一体、どんなものなのだろう?まずは、星の寿命を普通に考えてみれば、ベガもアルタイルも主系列星で、それぞれの重さから寿命を計算することができる。ベガとアルタイルと体重は本当はちょっと違っていて、女性のベガの方が実はちょっと太っているのだけど、あまり女性のベガの重さを正確に言ってしまうと、当然機嫌を悪くするだろう。だから、ちょっと大雑把に言うとベガもアルタイルも大体太陽の3倍位である。それを使って寿命を計算してみると、彼らの寿命は100億年位になる。人間の寿命の1億倍である。逆に言えば、ベガとアルタイルの時間感覚は人間の一億倍ゆっくりだということになる。それだけ、人間に比べて二人は気が長〜いのである。
ところで、寺田寅彦・ロゲルギストなどが考えたように「系の寿命はそのものの大きさに比例し、それに応じた固有の時間感覚を持つ」として、ベガとアルタイルの時間感覚を適当に考えてみると、これが実はちょっと面白い。ベガとアルタイルの大きさはそれぞれ太陽の3倍、1.7倍なのだが、その程度の大きさの生物だと、その寿命は大体20億年位だという計算結果になる。これらの数字のオーダーからすれば、もうさっきの100億年という数字と全く同じだと言っても良いくらいである。まぁ、いずれにせよベガとアルタイルの時間感覚は人間の1億倍近く「気長」ということに変わりはない。
すると、ベガとアルタイルの間の30光年- 信号が往復するのに30年かかかる-という距離は、彼ら二人にとってはどの程度の時間だろうか?人間より一億倍気が長いベガとアルタイルにとって、人間にとっての15年はどの程度の時間だろうか? 試しに計算してみると、
30年×365日×24時間×60分×60秒 / 1億 = 9.5秒で、10秒弱ということになる。10秒というと、電話で話すというには無理があるかもしれないけれど、e-mailのやりとりよりにかかる時間よりはずっと短い。月に着陸しているアポロ宇宙船と地球との会話だって実は3秒近くかかる。ベガとアルタイルの間の「10秒(ベガ・アルタイル体感時間)」というのは、電話をしたり実際にベガとアルタイルが会って話をしたりするのには負けるだろうけれど、それでもメールをやりとりするのに比べたら、ずっと近い距離(時間)なのである。ベガとアルタイルはとても「近い」のだ。天の川の両側に離れていはいるけれど、やっぱり「近い」のである。
そういえばベガというと、地球の歳差運動により、一万二千年後にはベガは地球から見て天の真北に位置することになる。つまり、一万二千年後には織女星ベガは北の空の中央で輝いて、その時彦星アルタイルは織女星ベガの周りを回り続けることになる。ずっと先のことに思えるかもしれないけれど、一万二千年後なんてベガとアルタイルの時間で言えばたったの一時間後である。一時間後(ベガ・アルタイル時間)には、アルタイルはベガの周りをクルクルと回っていることになる。なんだか、そんなベガとアルタイルがほほえましく思えてしまうのは私だけだろうか。何か、そんなベガとアルタイルをちょっとからかってみたくなるくらいに思えてしまう。
ところで、そんな風にベガとアルタイルをからかうためではないけれど、アルタイルにかつて地球からメールが出されたことがある。スタンフォードの46mのパラボラアンテナからアルタイルに向けて、13枚の画像が送り出された。その13枚の画像は本当に子供の落書きのような過去の生物の画や人間の姿が描かれていた。そんな子供心いっぱいの画像もあるかと思えば、差出人(平林・森本)が二人とも飲むのが大好きだったので、メッセージの最後はアルコール分子の組成式で締めくくられていた。本当に、ちょっと間違えるとベガとアルタイルをからかうヨッパライになってしまいそうである。
(「星と生き物たちの地球」 平林久、黒谷明美から) |
1983年に送ったメッセージはもう昨年にはアルタイルに届いているはずだ。アルタイルからメッセージが帰ってくるとすれば、それは2016年になる。あと15年先だ。15年なんて、アルタイルからすれば5秒弱(彼にとっては)であっという間の時間だし、私達人間にとってもやっぱり15年なんてあっという間の時間に違いない。もちろん、本当のところアルタイルからの返事が帰ってくるわけはないのだけれど、だけどそれでも「 はじめまして、アルタイルです…」なんてメールが帰ってくるときのことを想像するのもとても面白いことに違いない。もしかしたら、2000年にアルタイルから送り返されたメールの返事が宇宙空間を秒速30万kmで走ってくる途中かもしれない、と酔っ払った頭で夢想してみるのも楽しいことだろう。
ところで、本来の七夕は旧暦の七月七日だから、今年の本当の七夕は八月二十五日ということになる。今夜七月七日を過ぎてしまったからといって、七夕が終わってしまうわけではない。これから続く夏の空を眺めつつ、ビールでも飲みながら、天の川とベガとアルタイルのことや、酔っぱらい達が送ったそんなメールのことを思い浮かべてみるのも、きっと風流で気持ち良いはずだ。星空の綺麗な高原で、あるいは星なんて見えないビル屋上のビアガーデンで。
2001-12-24[n年前へ]
■「勝手なセレクション」を作るのだー
ネットなどで「あー、これ何か寺田寅彦の随筆みたいでいいなぁ。」と思う話を見かけることがたまにある。ワタシの趣味のせいか、ほんのちょっとだけ科学っぽくて、だけど全然科学っぽくない話。で、どれもとても短い文章で。うーん、そんな文章を集めた自分だけのための「勝手なセレクション」を作るのだー。一部だけ、がんばって紙でせっせと作るのだー。
というわけで、武位教子さん「梅雨の気晴らし。」も入れる、と。
2004-01-23[n年前へ]
■「カミノサイコロ。」
かさねかさねに寺田寅彦の『Sugoroku no sai』をきっかけとして書かれた♪さいころの1は、なあに?が更新されている。重心位置のずれたサイコロの出目がどうなるだろうか、という話だ。
ずっと前に、私は重心位置のずれたサイコロで就職する会社を決めた。私が自分で決めたのはもう少し研究室にいるか、あるいは就職をするかだけだった。その判断をするだけでも十分疲れてしまった私は、研究室の先輩に「紙のサイコロ」を作ってもらって、それで就職(活動)する会社を決めたのだった。どうせ、自分の頭で考えてみてもどの会社が自分に合っているかどうかなんて判らないだろうから、考えてもしょうがないことはサイコロで決めちゃえー、と思ったわけである。といっても、その不器用な先輩が作ったサイコロはとてつもなく重心位置がずれていた。その一番重心に近い面に、今の勤務先を私が自分で鉛筆で書いたのだったから、サイコロに自分の道を決めてもらったような、あるいはそれでも少しは自分で決めたような、何とも私らしい中途半端な決め方だった。しかし、今のところ、そのサイコロの目のアドバイスはそう悪くない出目だったように見える。
そう言えば、昨日ちょうど職場でサイコロの話をしていた。「どんな少しの判断でもそれをするのが苦痛だから、どんな時でもサイコロで選択したくなる」なんて話をしていたのだった。「何かの選択をしたり、あるいは選択できなかったことをずっと後悔するのは辛いから、今はどんなことでも全てサイコロで決めたくなる」なんて相談をしかけていたのだった。仕事場で話す愚痴にしては、トンデモナイ話だと自分でも思う。
「紙のサイコロ」は大抵の場合重心位置もすごくずれていて、出目もずいぶんと偏っているかもしれないけれど、そのサイコロに未来を時折まかせてみたりするぼくらからすれば、そのサイコロはただの「紙のサイコロ」ではなくて、それはもう「神のサイコロ」だ。「神はサイコロを振らない」とかつてアインシュタインは言ったけれど、ぼくら自身は神じゃない。神じゃないぼくらだからこそ、折に触れて「カミノサイコロ」が欲しいと思ったりもする。
2004-07-19[n年前へ]
■「寺田寅彦の学位論文の誤りについて」
d2004経由で、寺田寅彦が尺八の音響工学を研究した学位論文にまつわる「寺田寅彦の学位論文の誤りについて」を読む。「非線形鶴亀算」など他の数々のページも面白い。
そして、暑い日が続く日には、ビールがうまい!CGIで遊んで、その分のビールを飲むのも面白いかもしれない。