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1999-10-31[n年前へ]

ビックエッグの力学 

ドームを支える空気圧の謎

 この回は(トンデモ話)であり、中途半端であるのだが、反省を込めてこのままにしておく。直すのが、面倒くさいわけではないので、念の為。

 日本シリーズ'99をやっている(いた)。私は野球は特に好きでも嫌いでもないが、野球場でビールを飲むのは大好きだ。そういえば、今年はドーム決戦である(だった)。ドームといえば元祖「東京ドーム」だろう。「東京ドーム」のWEB

を、眺めていると、こういう記述がある。
 東京ドームは、空気膜構造によるエアドーム。つまり内部気圧を外気より0.3%高くして、400トンもの超特大楕円形の屋根を膨らませるのがドーム建築のポイントなんだ。
 ところで、この気圧差0.3%は、ビルの1Fと9Fぐらいの違いがある。とはいえ中と外の違いを体感することはほとんどない。

 たった、0.3%の空気圧の差で400トンを支えるとは、ものスゴイ。すぐには納得できない数字である。別に疑い深い私でなくても不思議に思うことだろう。

 そこで、確かめてみることにした。まずは、東京ドームの面積をx(m) * x(m)としてみる。すると、持ち上げることのできる重さ(トン)は、

  • 0.3 / 100(%から比へ) * 100(hPaからN/m^2へ) * x * x / 1000(kgからトンへ)* 9.8(Nから重力へ)


と計算できる(この式には実は間違いがある。詳細は後で...)。その結果を示してみる。

東京ドームのサイズに対する「持ち上げることのできる力」の計算結果
横軸=サイズ(m), 縦軸=「持ち上げることのできる力」(トン)

 先の、Webから東京ドームのサイズを見てみると、x = 180mである。すると、持ち上げられる天井の重さは100トン程度であるということになる。おやおや、先の「400トンの天井を持ち上げる」というのとはずいぶん違う。これでは、天井を支えきれない。

東京ドームのサイズ

 そこで、高さによる大気圧の差を導入し、天井近くの高い場所では「外部の気圧が低い」という条件を導入してみる。0.3%というのは地上での比で、天井のある上空ではさらに差があるとしてみるのだ。うーん、強引である。

 さて、ここから後は(実は前も)トンデモ話になっているので眉に唾をつけて読んで欲しい。それを指摘して下さった、読者からの手紙への返事(とほぼ同じ内容)を下に示しておく。

青木さんへの手紙> 高さによる圧力の差は、高さの異なる二点間に存在する空気> の重さに見合ったものです。したがって、ドームの内部でも> 高いところほど圧力は低くなっている筈です。 その通りだと思います。WEB中で「うーん、強引である。」と書いたのはまさにその理由です。 それにも関わらず、強引な論法を続けたのは、文章の最後に「謎は解けないのに、東京ドームは存在している。 少し、くやしい。 」と書いた理由と同じです。まるで、「宇宙人が水道橋の駅前駐車場にUFOを停めて、サラ金に入って行くのを目の当たりにしている」ような、気持ちなのです。くやしいと強引になるのです。あぁ、何て人間らしいのでしょうか... また、計算をしていた時に少し勘違いをしていました>もし、ドームの内外の温度が等しければ、地上でも天井でも内外の差圧は>同じになるはずです。と仰るとおり、差圧は等しいわけですが、それを0mにおける大気圧に対するパーセンテージに直すと、高度が高くなればなるほど、そこの気圧に対してはパーセンテージは高くなります。計算をしていた時にその「パーセンテージが高くなる」ことを「差圧が高くなる」ことと同じに扱うという間違いを犯してしまいました。もちろん、基準の気圧が小さくなっているので、パーセンテージが高くなっても本当は差圧は変わらないわけです。「考えることを手抜きしていた」と言ってもよいかもしれません。要反省です。>ドーム内の温度が高ければ空気の密度> が減少し、天井の位置での差圧はより大きくなり、天井を支> えるのに有利に働きます。これは、浮力によって天井が持ち> 上げられていると考えても同じ事です。> という訳で、ドーム内外の温度差が逆転する夏と冬とでは天> 井を支えるのに必要な圧力を変えなければならないと思うの> ですが本当はどうなんでしょうか。 これは面白そうですね。そういえば、学生時代に地殻物理学を専攻していたのですが、夏と冬の大気圧の違いから、地殻歪の大きさに関係づけて、地震の予言をするなら、「冬に発生する」といった方が良い、話(もちろんかなり冗談で)をしていた先生がいました。その先生に「今回のトンデモ話」がばれたら、大目玉をくらうこと間違いなしです。 ビックエッグの謎は深まるばかりです。それでは、また。------------------------------------------------------------------ch3coohさんへの手紙> > >12/(100*100)*1000= 1.2g/cm2となります。> > >> > >地上での大気圧は約1Kg/cm2なので、上の値は> > >1.2%程度となり、 ここが疑問だったのですが、これは1.2%でなくて、0.12%ですね。なるほど、0.3%よりも小さいですね。実に納得です。 さて、他の方からの指摘もあり、私の計算には> >0.3 / 100(%から比へ) * 100(hPaからN/m^2へ) * x * x > / 1000(kgからトンへ) * 9.8(Nから重力へ)> に1013(標準気圧 hPa)がかかっていないことが気になりました。 という間違いがあることがわかりました。全てはここが原因だったようです。 全ての疑問が解決しました。いやぁ、お恥ずかしい。また、他にも色々と面白い情報ありがとうございます。

 ひとつわかったことは、間違いをすると読者からの手紙が沢山来るといううれしくもつらい事実であった。ここから、あとは封印したい思いで一杯なのだが、自戒を込めてこのままにしておく。しつこいようだが、直すのが面倒なのではない。

 それでは、高さによる大気圧の差を計算してみる。理科年表から15℃の「標準大気の場合の高さと気圧の表」を見てみる。 ちなみに、東京ドームの温度は、「ガス熱源による冷暖房システムにより、夏期は28℃の冷房、冬期には18℃程度の暖房が行われている」とある。今回の計算は外気の温度が15℃で、内部は冬期には18℃程度の温度に調整されているものとしておこう。
 標準気圧は海抜0mで1013mbであり、200mでは989.5mbである。理科年表が古いのでPascal値でなく、mb表示になっている。

 これから、1m当たりのmb変化を計算すると、0.12mb/mとなる。比率に直すと、0.012%/mということになる。例えば、「ビルの1Fと9Fぐらい」の高さの差は30m位であろうから、それを大気圧の比に直すと、99.6%位となり、先の記述と大体合う。

以下に、高度に対する大気圧の差(の比 %)を示してみる。

高度に対する大気圧の比
横軸=高さ(m), 縦軸=大気圧の比(%)

 このグラフで30mの場所を見てみると、99.6%位というわけだ。これが、先のWEB上の「この気圧差0.3%は、ビルの1Fと9Fぐらいの違いがある。」という説明と合うわけである。

次に必要なのはドーム外部と内部の大気圧の比から、力に直してみる。基準面からの高さ0mにおける気圧を1hPaとして、1hPa = 10^2 N/m^2 = 10^2 m^-1 kg s^-2という単位換算を使うと、持ち上げることのできる重さは、

  • (100-大気圧の差(の比 % )) / 100(%から単なる比へ) *9.8(重力に換算) / 1000(kgからトンへ)* 100(hPaからN/m^2へ) * x^2(ドームの面積)
という式で計算できる。

 東京ドームの高さは「グラウンド面から 61.69m」とあるので大雑把に100mとしてみる。

天井の高さを100mとした時の、東京ドームのサイズに対する「持ち上げることのできる力」
横軸=東京ドームのサイズ(m), 縦軸=「持ち上げることのできる力」(トン)

 この計算結果によれば、東京ドームのサイズを180mとした時には、「持ち上げることのできる力」は400トン位になっている。ということは、先のWEBの記事と大体一致するわけである。

 しかし、この計算では致命的な欠陥がある。天井の高度が低いときには、400トンを持ち上げるためにはもっと高い「ドーム内部の圧力を必要とする」ことだ。

 例えば、0.3%空気圧の差の条件で、「天井の高度」に対する「持ち上げることのできる力」を計算してみると、次のようになる。

「東京ドームのサイズ」と「天井の高度」に対する「持ち上げることのできる力」
横軸=「天井の高度」(m), 縦軸=「持ち上げることのできる力」(トン)

 これでは、天井の高さが下がるとますます天井の重さを支えきれなくなってしまう。それに、そもそも天井をどうやって持ち上げたのだ?屋根を持ち上げるインフレートという作業はどうやって行ったのだろう?

 今回の計算は謎が増えただけかもしれない。謎は解けないのに、東京ドームは存在している。
 
 少し、くやしい。

1999-11-15[n年前へ]

「星の王子さま」の秘密 

水が意味するもの


 今回は、Saint-Exuperyの「星の王子さま」- Le petit prince -について考えてみたい。しかし、メルヘンな話を期待する方は、おそらく失望することだろう。もし、今持っているイメージを壊したくない方は、今回の話は読まないほうが良いかもしれない。

 おそらく一般的に多いであろうイメージの「星の王子さま」というものは、私はそれほど好きではない。よくWEBで見かける「この本は、真実を見る目を失いかけた大人のための童話です。」というイメージである。私も、かつてはそういう認識だった。そして、「それだけでは、何かもの足りない」という感じがしていた。そのため、「星の王子さま」を好きではなかったのだ。

 しかし、

  • 「星の王子さまの世界 - 読み方くらべへの招待 -」 塚崎幹夫著 中公新書
を読んで、そのイメージが一変した。これまで、「星の王子さま」の側面、あるいは仮面しか読んでいなかったことに気づかされた。読み方が足りないことに気付かされたのである。「星の王子さま」の底に流れているものに気付かなかったのである。実は「何かが足りない」わけではなく、私の読み方が浅かったのである。先の「この本は、真実を見る目を失いかけた大人のための童話です。」というイメージは私の読み方が浅かったせいであって、もう少し深く読めば、「真実から目を背けている人への告発・遺言」と受け取ることができたはずなのであった。

 さて、今回は私なりの「読み方」をしてみたい。具体的には、「水」というキーワードにこだわって解釈を行ってみるのだ。何故か、私はこの「星の王子さま」の中で「水」というキーワードに「深い何か」を感じるのである。

 何故、こういう単語にこだわる読み方をするかと言えば、それは塚崎幹夫氏の「星の王子さまの世界- 読み方くらべへの招待 -」の影響である。その内容の紹介を少し紹介しておく。

 塚崎幹夫氏は、 話の冒頭に出てくる「ゾウを飲み込むウワバミ」が何かもう少し深いものを指しているのではないか、と考える。「本当にもののわかる人かどうか」知るために、主人公が人に見せる「ゾウを飲み込むウワバミ」が何か深いものを指しているのではないか。「半年のあいだ、眠っているが、そのあいだに、のみこんだけものが、腹のなかでこなれ」そして次の獲物をのみこむウワバミは何を指しているのか、と考えた。
 そして、次のような年表を示す。

  • (1937.7.7 日本、中国侵略開始)
  • 1938.3.10 ドイツ、オーストリア侵略
  • 1938.9.29 ドイツ、チェコ侵略
  • 1939.3.15 ドイツ、チェコ解体
  • (1939.4.7 イタリア、アルバニア占領)
  • 1939.9.1 ドイツ、ポーランド侵入
  • 1940.4.9 ドイツ、デンマーク、ノルウェー侵入
  • 1940.5.10 フランス、ドイツに大敗
  • 1940.11 Saint-Exuperyヴィシー政府に失望し、アメリカに亡命、その後、ヴィシー政府がSaint-Exuperyを議員に任命する。(どこかで聞いた話)
 ここから、半年毎に獲物を飲み込むウワバミはドイツのことを指している、と考えるのだ。
 つまり、ゾウを飲み込むウワバミが、帽子にしか見えないことが「真実を見る目を失いかけた」といっているのではない。これは、ウワバミの中で飲み込まれつつある動物のことを考えることができないことを、「真実を見る目を失いかけた」と言っているではないだろうか。もちろん、そのウワバミとは文字どおりのウワバミではなく、違うものを意識した話なのである。

 同じように、「ぐずぐずしてはいられないと、一生けんめいになって」描いた「3本のバオバブ」は挿し絵についても考察を巡らせている。
  • 「(バオバブは)星の上いちめんに、はびこります。」
  • 「バオバブはほうり出しておくと、とんだ災難になるんだ」
  • 「まだ、小さいからといって、バオバブの木を三本ほうりっぱなしにしておいたものだから...」
  • 「ですから、ぼくは、一度だけ日ごろのえんりょをぬきにして、こういいましょう。<みんな、バオバブに気をつけるんだぞ!>」
  • 「ぼくの友人たちが、ぼくと同じように、もう長いこと知らないで危ないめにあいかけているので、気をつけるんだよ!といいたいためです。」


 塚崎幹夫氏はこれら「3本のバオバブ」はドイツ・イタリア・日本を指しているのではないかと指摘している。
 こういった「読み方」をしながら、「星の王子さま」が「苦悩に満ちた懺悔と贖罪の書であり、自分の死後のフォローを意識したもの」であるのではないか、と言う。


 さて、塚崎幹夫氏の影響を多いに受けている私ではあるが、私なりの「読み方」をしてみたい。「水」というキーワードにこだわった「読み方」をしてみる。私の受ける印象では、「水」というキーワードには深い思いが込められているはずなのだ。

 そのために、

から情報を辿り、から「星の王子さま」-"Le petit prince-のフランス語のテキストを入手した。オリジナルにこだわったわけではない。日本語版も英語版も電子テキストでは手に入らなかったのである。

 さて、単語にこだわって解析をするとなれば、

と同じように、WordFreqを使うのが有効だろう。まずは試しに"CHAPITRE"の出現分布を調べてみよう。そうすれば、行数と章構成の対応がわかるわけだ。
行数と章構成の対応
 このように27章と物理行の対応がわかる

 それでは本題の、"'eau"の出現分布を調べることで、「水」の出現分布をwordfreqで解析してみる。

"'eau"-水-の出現分布

 最初と最後に「水」が登場しているのがわかる。このような、物語の「始まり」と「終わり」集中して出現する単語と言うものは、重要な意味を持つと考えるのが普通だろう。冒頭で、水を持たない主人公が、話の最後で水を湛える井戸を見つける。これは、どのような意味があるだろうか。また、王子にとって重要な「守るべきもの」に王子は水を与えていたこと、これらは何を意図したものなのだろうか。

 さて、「水」が出現するのは

  1. 50行目付近
  2. 300行目付近
  3. 1300行付近
の計三箇所である。それは、冒頭の主人公が水をなくしたところ、バラに水をやるところ、王子と主人公が水を探しに行き、見つけるところである。それでは、その出現個所の中から重要そうな部分を拾ってみよう。特に、最後の1300行近辺を集中して考えてみる。ここで、冒頭の数字は、「星の王子さま」岩波少年文庫でのページ数を示している。
  • 115 だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。
  • 124 水は心にもいいものかもしれないな...
  • 131 その水は、たべものとは、別なものでした。
  • 131 だけど、さがしているものは、たった一つのバラの花のなかにだって、少しの水にだって、あるんだがなぁ...
  • 147 星がみんな、井戸になって...そして、ぼくにいくらでも、水をのませてくれるんだ。
 また、他の作品「城砦」の文章も示しておこう(といっても星の王子さまの世界からの孫引きであるが)。
  • その人間を解放するということは、彼に渇を教え、また井戸への道を教えてやることだ。
  • それら井戸のひとつひとつに、どうしてもたどりつかねばならないようにするだろう...必死になってその井戸をめざさねばならなくなる。
  • おまえが水を飲もうと思うとき、....おまえの行為を祈りという意味に化するのである。
 こういった、文章をつなげて読んでいったときに、「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ...」という言葉は殉教者の言葉に聞こえてくる。「砂漠」が「生」と感じられたり、「井戸の中の水」が「意義」と感じられたりするだろう。また、他の言葉にも聞こえてくる。しかし、それらをひとつひとつ挙げることはしない。

 こういう言葉の意味するものをそれぞれ考え、「かんじんなことは、目に見えない」という言葉をもういちど読みなおしたときに初めて、Saint-Exuperyの「星の王子さま」が私は好きになったのである。その「星の王子さま」の二面性こそ、私が好きな部分である。

 さて、最後に次のような二つの文章を並べてみる。こうすると「星の王子さま」に流れる強い背景・考えを感じるのではないだろうか。

二つの文章
「わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、....そのおとなの人は、いまフランスに住んでいて、ひもじい思いや、寒い思いをしている人だからである。どうしても慰めなければならない人だからである。...
子どもだったころのレオン・ウォルトに」
「星の王子さま」 献辞

(レオンウォルトに)
「今夜しきりと思い出す人物は今50歳だ。彼は病気だ。それにユダヤ人だ。どうして彼にドイツの恐怖を乗り越えられよう?」
「ぼくがなおも戦いつづければ、いくらかは君のために戦うこととなるだろう。...ぼくは、君が生きるのを助けたいのだ。実に無力で、危険におびやかされている君の姿が眼に浮かぶ。更に一日生きのびるために、どこか貧しい食料品店の前の歩道を、50という年齢を引きずって歩きまわっているきみの姿が、擦り切れた外套に身をくるんで、仮の隠れ家で身を慄いているきみの姿が、眼に浮かぶ。」
「ある人質への手紙」

 やはり、「星の王子さま」は端的に言えば、寓話の形をした遺言(の準備をしたもの)であるのだろう。「星の王子さま」が出版された四日後、Saint-Exuperyは戦うためにアメリカからアフリカへ出発する。

 「星の王子さま」は一つの挿絵と、その挿絵の説明で話が閉じられる。その最後の挿し絵は王子が姿を消した場所を描いたものだ。それだけではない。その「アフリカの砂漠」は、Saint-Exuperyが最後に「戦う兵士」として飛行機で通過し、そして、姿を消した場所でもある。

「これが、ぼくにとっては、この世で一ばん美しくって、いちばんかなしい景色です」


2001-11-22[n年前へ]

あなたと見たい、流星群 

同じ流星が見える距離

 「しし座流星群」が美しく盛んに空を彩った翌朝、Fast&FirstBBSをぼんやりと眺めていると、「アナタとみたい流星群」と題した

「僕たち距離は離れているけれど、同じ星(月)を見ているんだね」
なんて会話をする二人がいます。だけど、一体離れている距離が何km位までなら同じ流星を見ることができるのでしょうか?
という書き込みを見かけた。思わず良い話だなぁ、と見入ってしまった。

 今年の「しし座流星群」のようなきれいな流星群を、深夜同じ場所に佇んで二人で一緒に同じ流星を眺める人達も多いだろうが、離れた場所から、それでも同じ流星を眺めている二人もいることだろう。「そんな遠く離れた二人が、同じ流星を眺めることができるとしたら、それはどの程度の距離までなのだろう?」という「同じ流れ星を眺めることができる二人の距離」だなんて、とてもロマンティックでとても面白い話だなぁ、とその書き込みを眺めながら思った。そして、これはいつか考えた「地平線問題」と同じだなぁと考えて、だけど何故だか少し切ない話だなぁ、とも感じた。

 だから、とても興味を惹かれたのだけれど、その切なさのせいか、ただぼんやりとその話を眺めていた。すると、すぐに「今日の必ずトクする一言」のKOROKAN氏が

 これは計算が可能ですね。…流星の輻射点から地球に接線を引きます。そうすると、
地球の中心、輻射点、接線が地球に接する点の直角三角形になりますね。…(中略)…これに地球の半径をかけると1118kmと出ました。
 つまり半径1118kmの範囲が輻射点から見えることになりますから、(二人の距離としてはその二倍の2000kmで)おそらく東京−福岡、東京−札幌の遠距離恋愛なら見えるかも。
と簡潔な答えを書きこまれていた。暗算で片付けるところはやはりさすがスゴイなぁ、なんて感心していると、それとほとんど同じ頃、hirax.netの「ぐるぐる検索」にも、元の質問を書き込まれていた方から、
 あなたと私、離れていても同じ星を見ている。何kmの距離まで離れていても同じ流星を二人は見ることができるのでしょうか? (F&Fの掲示板に書きこんだ内容に同じです。)
という検索メッセージが送られてきた。そして、さらに
 とても好きな女性が私の住むミネソタから約1000マイルほど離れたオハイオに住んでいまして、彼女に獅子座流星群の話をしながらこの話を思いついたのです。ちょうど1000マイルだったらギリギリって感じかもしれない?遠く離れた場所でも、同じ流星を見ることができるかもしれない?
という話の発端を読みながら、私もちょっと落書きをしてみた。

 KOROKAN氏が簡潔に書かれていた答えをもう少し言い換えると、「私たちが流星を見ることのできる距離」は「流星の地平線」と同じだ。私たちが流星を見ることができるのであれば、逆に流星からも私たちが見通せることになるのだから、「地表に立つ私たちが流星を見通せる距離」=「流星が地表に立つ私たちを見通せる限界」、ということであって、それはすなわち「流星の地平線」そのものということになる。もちろん、本当はもっと色々なことを考えなければならないわけだけれど、とりあえずはこんな大雑把な計算でも十分だろう。
 

流星の地平線
●視点=地表に立つ私達
流星の発光点

 以前、地平線までの距離を計算した

でやったものと同じく(KOROKAN氏が書かれていたことと同じ)、灰色の直角三角形に着目してやると、流星の発光点の高度がわかれば、あとは地球の半径=約6400kmを用いれば、流星の地平線までの距離は簡単に計算することができる。

 流星の発光点の高度は理科年表をめくると、次のような表が載っていて、大体70km〜130kmの間であることが判る。その高度差を100kmほどの長さにわたって、光りながら駆け抜けて行くのである。
 

流星の平均の高さ及び速度(1933) 理科年表

 そして、「流星の発光点の高さY」を変えた場合の、流星から見渡せる距離(=流星の地平線)を計算してみたものが次のグラフになる。この「流星から見渡せる距離」がつまりは「流星を見ることができる最も長い距離」になる。
 

流星の平均の高さ及び速度(1933) 理科年表

 先の「流星の発光点の平均高度」として約70km〜130kmという値を使うと、先にKOROKAN氏が書き込まれていたように1000km前後という数字になるわけである。で、流星の発光点(輻射点近く)を挟んで遠く離れたところに住む二人であれば、その二人の距離が1000kmの二倍で2000kmの距離までは同じ流星が見える、ということになる。
 だけど、これは理想的な話で、現実の話ではない。

 実際にはそんなわけにはいかない。私達が住むほとんどの場所は、海原の真中や高い山の頂きじゃない。私達が流星を眺める場所はビルや鉄塔に囲まれたマンションのベランダだったり、あるいは木々や小高い山が周りを囲む小さな公園だったりする。少なくとも、地平線の果てまで見通せるような場所で眺める人なんかほとんどいないだろう。流星を眺めようとするほとんどの人達がいる場所は、上に広がる空しか見えなくて、地平線近くの空なんか見えない場所だとう思う。きっと、せいぜい天頂から60〜70°位の角度までしか空を見通せないに違いない。
 

 だとすると、さっき計算のときに着目した「灰色の直角三角形」は少し変えてやらなければならない。人の視点での地球への接線をひくのではなくて、もう少し天頂側へ角度を振ってやる。すると、先の「灰色の直角三角形」は下の図のように「青色の三角形」に変化することになる。
 

「地平線近くの空が見えない」場合の「流星の地平線」
●視点=地表に立つ私達
流星の発光点

 そして、先と同じようにこの三角形に注目しながら、「限られた空の下」に住む現実の私達が見ることのできる流星までの距離を計算してみると、下のグラフのようになる。下のグラフで「空を見渡せる角度」が天頂からの角度で90°、すなわち地平線まで完全に見渡せる場合である。つまり、先に計算した「理想的な場合」である。そして、それが1100km程度というのはもちろん先程と同じだ。
 

流星の発光点が高度100km時の、
空を見通せる天頂からの角度と流星の発光点までの距離(km)

 このグラフを眺めてみると、天頂からの角度に対しての「見ることができる流星までの距離」は「地平線近く」の場合とそうでない場合とで全然違うことが判るだろう。

 「地表面」と「その100km上空の面」というのはほとんど平行だから、天頂からの角度が70°位までは「流星の発光点までの距離」は緩やかに増加していくだけだ。天頂からの角度が70°(というとかなり水平にもう近いが)の時でさえ、「流星の発光点までの距離」はたった200km強である。さきほど見えると思われた1000kmなんて遥か彼方だ。

 しかし、天頂からの角度が80°を超え、ほとんど水平間際になってくると、「見ることができる流星までの距離」はぐんぐんと大きくなってゆく。80°で600kmくらい、85°で700kmくらい、そして90°でついに1000kmの彼方の流星まで見えることになる。
 

 ということは、現実の私達、海原の真中や高い山の頂きじゃなくて、ビルや鉄塔に囲まれたマンションのベランダや小さな公園から流星を眺める「限られた空」の下に住む私達は、せいぜい200kmくらいまで離れた場所で光る流星しか見えないことになってしまう。1000kmの彼方の流星なんかとてもじゃないが見えなくて、たった200kmが限界になってしまうのである。

 すると、遠く離れた二人が同じ流星を眺めようとするとき、その二人の距離の限界は高々200kmx 2=400km程度ということになってしまう。東京-大阪でも難しいかもしれない。空が本当に天頂近くに限られて、「空が無い」東京のような場所であれば、きっとその距離はもっとずっとずっと短くなるはずだ。新幹線に乗って会いに行くような二人では、同じ流星を眺めることはできないのかもしれない。

 だけど、とも思う。先のKOROKAN氏の書き込みは

 それに何より、「見ているモノが同じモノ」と信じる力が重要で、それが同じモノか、別のモノかを証明するすべも、否定するすべもありませんなあ。信じる者は救われるというし。
という風に締めくくられていた。私も本当にその通りだと思う。さっきの「せいぜい400kmが限界」なんて計算結果は「同じ流星を眺めようとする二人」には全然関係ないのだろう、とも思う。

 もしも、遠く離れて見渡せる空が全然重ならないような距離であっても、例えそれが昼と夜ほどの違いになる距離であっても、同じ景色を眺めている二人もいるだろう。また、逆にとても近くにいても同じ景色も流星も眺めることのできない二人もいるのだろうと思う。そんな違いを決めるのは、幾何学的な話じゃなくて、きっと別の何かだ。
 

 そしてまた、流星を眺める私たちの視点から、流星の視点に移動するといろいろなものが見えてくるとも私は思う。「限られた空」の下の私たちの視点がもう少し高く、高度100kmほどまで上がれば、周りではついに流星が輝やき燃える高さになる。ここまでくれば、見渡すことのできる地平線の果てまでは1000kmほどになる。その半径1000kmの円の地表が、その流星の視点から見える世界だ。

 そして、その流星の地平線の中にいる人達は、その流星を同時に眺めることができる人達であるが、一体その半径1000km程の領域の中にはどれだけの人達が住んでいることだろう?数千人?それとも、数千万?とてもたくさんの人達がいるに違いない。それは例え、半径200kmの円であってもやはり同じことだろう。その地平線の中にはとてもたくさんの人が住んでいる。

 そんな地平線の中の(あるいは外の)数え切れない沢山の人達の中に、同じ流星を眺めようとする二人がいる(それともいない)なんて、やっぱりとてもロマンティックで、やっぱりちょっと切ない話だなぁ、と思う。
 

2003-05-20[n年前へ]

卓上プラネタリウム制作講座のヒミツ? 

 「誰でも作れる卓上プラネタリウム製作講座」のオリジナルは高城武夫氏の「天文 切りぬく本・たのしい天体観測用具」誠文堂新光社 1979年発行ではないか、型紙は酷似している、との指摘。
 確かに、年表からはその流れが自然かもしれませんね。

2004-04-08[n年前へ]

テキストサイト関連年表 

 この「テキストサイト関連年表」に限らず、そんな新しくも古い?歴史を知る老師たちにはぜひ色んな歴史書を書いて欲しいと思う。もちろん、色んな見方の歴史書ができるだろうし、時には、偽歴史書を作り上げたりもするだろう。そんなものを読んでみたい気も「少し」する。

 そして、void GraphicWizardsLair( void ); //の記述に笑っていたら、自分もこの年表の中で「歴史に埋もれている」ことにふと気づく。

 そういえば、私の乏しい歴史の知識の源(みなもと)は「マンガ日本の歴史」だった。「マンガ日本の歴史」の中で描かれている主人公達は、大きな歴史の流れで「歴史に埋もれているとてつもなく無名の人たち」だった気がする。例えば、大仏の建立のために荷物運びをしている連中であったり、大名行列をひれ伏しながら眺める農民であったり、明治維新に湧く連中を遠くの海から眺める漁師であったり、なんだかとても「歴史に埋もれている」無名の連中だった気がする 。

 もし、彼らのような人達がかつて何処かに実在していたとしたら、「マンガ日本の歴史」を眺めてどんな風に思うだろうか。苦笑いをしたりするものだろうか、歯ぎしりをしていたりするものだろうか、それともそんな本を眺めたら大笑いをしたりするものだろうか。そして、もし石ノ森正太郎が2004年の4月の今を描くとしたら、一体どんな人たちを主人公にして今の日本を描くのだろうか。



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