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2003-12-09[n年前へ]

愚者の楽園 

 「…すごいけれど、弱い私にはかなりキツイことです」と書く、あるプライベート日記。弱者はなかなか強者にはなれないし、強者は弱者をほとんど例外無しに理解し得ない。それは、弱者が正しいとか強者が間違っているなんていう話では決してなくて、単に「弱者はなかなか強者にはなれないし、強者は-弱者が弱者たる所以-をなかなか理解し得ない」というただそれだけの話だと思います。
 で、弱者は強者にはなかなかなれなくて、強者は弱者を理解し得ないのであるならば、「弱者と強者がタッグを組んだならば」それはさぞかし強いチームになれるのではないかな、と思ったりします。弱者の視点と強者の視線を兼ね備える「立体感」のある視線・力を持つチームになるのかも、と思ったりします。

 と、書く今回のタイトルはもちろん川原泉の「美貌の果実」に収録の「愚者の楽園」のパクリです。「人はいかにも愚かではありますが…」という「愚者の楽園」のパクリです。

2003-12-21[n年前へ]

あなたとあなたに 

 「いつもいつの時も」眺めているページで、「力あるもの、というのはどこでも『強い』ですね」というフレイズが書いてありました。これを見て、他のページからの「愚者の楽園」へのツッコミ、「『強者』『弱者』の定義が判らないぞーゴラァ」、というツッコミがふと頭に浮かびました。

 「〜ではどんな人が強者なの?」とか、「『どこ』でも『強い』」という、「場所毎に強い弱いが決まる」という言葉を、実はとても新鮮に受け止めました。どうもそういった感覚が私には欠けているようで、何だかとても心に残ったのです。どうも、自分勝手に?、強いか弱いかは自分自身の行動が決めるモノと思いこんでいました。強いとか弱いとかは、他の誰かやどこかの場というものが決めるモノではない、と勝手に思いこんでいたように思います。シュレディンガーの猫じゃないのだから、猫が死んでいるか生きているか、猫以外の誰かが決めるモノではないんじゃないのか、とどうも先入観で勝手に思っていたのかもしれません。

 確かに、強いとか弱いというのは絶対的な基準があるわけではないし、そんな場によって決まったりもする相対的なモノなのかもしれないですね。確かに、そういうものなのかもしれないですね。

 そんなこともあって、この二つの(偶然にも両方とも)はてなダイアリからの力強いツッコミは、とても新鮮に感じられたのです。…というわけで、とりあえずゆっくりゆっくりですが、あなたとあなたへの感謝も兼ねたこんな反応です。

2004-01-25[n年前へ]

カッコがつかない…?いやきっとつく。 

 『「強弱」の定義って、ナニ?』というツッコミをされた方の名前に、ふと必然を感じたので書いてみようと思います。

 前に

弱者はなかなか強者にはなれないし、強者は弱者をほとんど例外無しに理解し得ない。
と書きました。昔の文章を書き直すのもどうかと思うので、書き直しはしませんけれど、
「弱者」はなかなか「強者」にはなれないし、「強者」は「弱者」をほとんど例外無しに理解し得ない。
と書き直しておけば良かったかな、とは思っています。「カッコ」を付けておけば良かったな、と思っています。文章で書くなら、…チョーさん風に言えば、「いわゆるひとつの」という感じです。「いわゆるひとつの」強者、「いわゆるひとつの」弱者という感じでしょうか。いくつもある言葉の意味の中の一つ、という感じかもしれません。あるいは、それだけでなくて、もっとシニカルな意味が入っているのかもしれません。

 例えば、-アメリカという「正義の味方」-というニュアンスや、-あなたは誰にでも「いい人」でいたがるのね-とか、そんな感じかもしれません。その「正義の味方」や「いい人」というのは、本当に正義だったり良かったりするかどうかはちょっと疑問、ていうニュアンスがありますよね。そんな感じかもしれません。 …「かもしれません」なんて書いていると言うことは、つまりは書いてみたけれど、私自身よくわからないわけです。

 結城さんのインタビューの中で、「強い人」「弱い人」とカッコ付きなのが、そんなニュアンスで書かれたのかどうかは判りません。編集者の方がつけたのかもしれませんし、あるいは結城さんが特にそういう意図でなく、カッコをつけてみただけかもしれません。ただ、そのインタビューを読んで、あぁやっぱりその「強い人」「弱い人」にはカッコがついているなぁと私は思ったのでした。

今日の夕日 それでも、もしも『なにか「強い人」の定義があったらなぁ』と思うのでしたら、例えばこういうのはどうでしょう?例えば、結城さんの「強い人」へのアドバイス、『世の中には「正しければ良い」って思う人がいるんですよね。正しければ相手に何を言っても良い。相手の本当の姿なんだから、相手に突きつけても良い。正しいことがすべてだ、と』というアドバイスが必要な人が「強い人」だ、というちょっと逆向きな定義はどうでしょう?『「正しければ良い」って思いがちな人』が「強い人」だ、っていう定義はどうでしょう?あくまで「カッコつき」の「強い人」の定義になってしまいますけれど。

 もちろん、気になされている定義というのは「カッコのつかない」ものに対する定義なのでしょう。ところが、実のところ、私は「カッコがつかない強い人」というものをその言葉の意味も含めてよく想像することができません。意味すら想像できないのですから、そんな人が実在するのかどうかなんて、全然わかりません。もしも、そんな強い人というものが実在するのなら、それは「人じゃない」んじゃないか、とすら思ってみたりします。つまり、もしも「カッコをつけなければ」人は全て弱いと思っているわけです。そして、それとは逆に「強い人」というのは、もしかしたら「自分にカッコをつけてしまっている」のかもしれない、とも思うわけです。

2004-11-06[n年前へ]

「強い」人と「弱い」人 

はてな、住所登録を必須に 「こういう人はある意味強者だ」の一文を読んで「愚者の楽園」「カッコがつかない…?いやきっとつく。」を思い出す。内容的にも、そしてこの一文を書いたそもそものきっかけからも。

 「こういう人はある意味強者だ、…そうじゃない人も多いはずだ」の一文は、「弱い」人の視点と「強い」人の視線を兼ね備えた洞察に思える。内容がどうであれ「言及(リンク)」がすべて応援になることも多い・「批判的な文脈でリンクされること」よりも「誰からもリンクされないこと」のほうがずっとつらい、という言葉には「弱い」人も同じように思ってくれるだろうか?あるいは「強い」人もそう思うだろうか?「強い人」ならそう思うだろうけれど…と、思いつつ「二つのアドバイス」を読み直す。

「できた人から帰っていいです。」先生はいっつもそう言う。私はいっつも最後までのこる。…私は. できる子の気持ちはわからないけれどできない子の気持ちはよくわかるので.できない子をできないまま育てるのは.きっと人よりうまいと思う。  「ずっと前のこと」 西原理恵子

2008-01-12[n年前へ]

マギー司郎のコトバ 

 マギー司郎の「生きているだけでだいたいOK」という本の中で語られる言葉を読む。

コンプレックスのある人ほど、人の痛みとかに優しいし、相手の気づかいもよく見えるんだよね。でも、完璧に近い人には、そういうものが見えてないもんね。どこか欠けてる人の方が強いんだよ。弱さの強さだよね。だから、欠点はあっていいんだよ。

  マギー司郎 「生きているだけでだいたいOK」

 「弱者」のブログ「強者」のブログを読む。同じように、「弱い人」のブログ「強い人」のブログ も読む。一つのキーワードで繋がる日記から、たくさんのが見えてくる。色んなことを思い出す。

あの日描いた未来とは 何か少し違ってるけど

  斉藤和義 「真夜中のプール」 



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