2002-01-29[n年前へ]
■「モーニング娘。」を立体にするのだ!
時間と空間の遠近感ソフトを作る
京都にいた頃、いくつかのホテルでバイトしたことがあった。都ホテル、鴨川沿いのホテル、あるいは、蹴上の辺りにあるホテルなどでベッドメイクやら、会場設営のバイトなどをした。有数の観光地である京都の街中はもう色んな旅館やホテルが数多くあふれているのだから、そんなバイト口は一年を通してあった。
そのバイトに行った色んな旅館の中でも、京都へ行ってすぐにバイトしたホテルは凄かった。その旅館の入り口には「暖簾」がかかっていた。京都の旅館なら、入り口に暖簾がかかっているのは当たり前じゃないの、と言われるかもしれない。しかし、その旅館の「暖簾」はその旅館への車の出入り口に設置してあったのである。
ニホンに憧れ、"A Book of Five Rings"に憧れるスティーブン・セガールのような外国人であれば、「日本人は車ですら暖簾をくぐり、それほどまでに日本人にとって礼節とは大切なものなのデスカ!」と感嘆するかもしれないが、それは少々違う。何しろ、その旅館、いやホテルは名神高速の京都インターチェンジのすぐ横にあった。つまりは、京都インターチェンジの周りのホテル街にあったのである。
いや、ここまで書いても、先のニホンに憧れる外国人なら(今でもそんな人がいたら良いのだが…)、「なるほどなるほど、高速道路と言えば江戸時代の街道デス。ツマ〜リ、高速のインター周りのホテル街は江戸時代で言えば街道の宿場町なのデスネ!」とやはり感嘆するかもしれない。そんな感嘆と感動が的を射ているかどうかはともかく、とにもかくにも一風変わったバイト先だった。
そして、そのバイト先にはいくつも私の好奇心をくすぐるものがあったのだが、そのうちの一つが「立体テレビ」だった。その旅館ホテルには、離れのような作りの特別室という部屋が二部屋ほどあり、特別室には「立体テレビ」なるものが設置してあったのである。といっても、その「立体テレビ」は何か部品が足りないのか、あるいは二十四時間故障中だったのかよく判らないのだけれど、とにかくその「立体テレビ」が動いてるのを見たことはなかった。動いているのを見たことが無く、どんなものだか判らなかったから、なおさら想像力を刺激したのである。もちろん、そのホテルの業種がらどんな番組がテレビから飛び出してくるのかも興味があったのも確かだ。
で、先週どこかで流れていた「モーニング娘。」の音楽を聞いて、何故かその「立体テレビ」のことを思い出した。何故かは判らないのだけれど、思い出してしまったのだからしょうがない。しょうがないから、そんな「立体テレビ」を自分で作ってみることにした。といっても、立体テレビで表示するための特殊なビデオ素材などしか見ることができないのもツマラナイ話なので、普通のビデオ(= 2Dビデオ)を勝手に立体化して、その立体ビデオを見ることができるようなものを作ってみることにした。
ビデオの立体化の原理はとても簡単、単に「時間軸と空間軸を少しばかりシャッフルするだけ」である。
人間が視覚から立体感を得る原因の一つが左右の目で見る景色の違い、すなわち両眼の視差である。その両眼視差を利用して、立体感を付加してやるのである。つまり、動画の各瞬間の画像を右目用と左目用の二つの画像に分けて、その二つの画像に少しばかり差をつけてやることで、両眼視差を人工的に与えれば良いのである。
といっても、「動画の中のある瞬間の画像」を右目用と左目用に分けた二つの画像の間に「少しばかりの差をつける」といっても、そんな画像を作るのはそんなに簡単ではない。そこで、ちょっとこんな風に考えてみるのだ。「動画の中のある瞬間の画像」と「少しだけ差がある画像」はどこかにないだろうか?もし、そんな画像が何処かにあるならば、その画像をちょっとばかり拝借すれば良いだけの話なのである。そんな画像は果たしてあるのだろうか?
そう、そんな画像はとても近くにある。答えは簡単、「動画の中のある瞬間の画像」の「少しだけ時間的に差がある瞬間の画像」が探している答えなのである。「動画の中のある瞬間の画像」と「その次の瞬間の画像」は「ほんの少しだけ色々な位置が違ってはいるけれど、だけど全体的にはほとんど同じような画像」なのである。そんな画像を両眼で別々に眺めてみれば、適度の両眼視差により立体感を得ることができるハズなのである。
というわけで、普通の動画像に対して、「時間的に前後に並んだ二つの画像を空間的に左右に並べて」、平行法で眺める動画像に変換するソフトウェアを作ってみた。それが、これperspective.exeである。もちろん、いつものように動作保証一切無しのアルファ版ソフトだ。
perspective.exeの動作画面は下のようになる。"File Open"で動画像を開いて、"Make3D File"で立体動画像を作成・保存することができる。例えば、まずは素材として以前作成した「モンローウォークの動画」を再生している画像を下に示してみよう。Real形式で圧縮したオリジナル動画はこちら(original.rm 9kB )である。
この動画をこのperspective.exeで処理するとあらあら不思議、なんと下のように、二つの画像が並んだ「平行法で眺める立体動画像」が作成されるのである。ちなみに、この立体化した動画像のreal形式動画像はこちら(perspective.rm 11kB )である。
この交差法で眺める動画像を上手く立体視するコツは、遠くを眺めるようにして、ぼんやりと動画像を眺めてみれば良いだろう。そうすると、立体動画像で眺めるモンローウォーク(半裸)を眺めることができるハズだ。
ところで、先のこのソフトの立体化の原理を読んで、「いや、それだと動きによってはとても不自然になるに違いない」という人も数多くいることだろう。そんなアナタのその理屈は非常に正しい、と思う。しかし、まずは動画像を変換して自分の目で確かめてみてもらいたい。人間の感覚は時にとても簡単に騙されるのである。いや、あるいは人間の想像力の処理がスゴイのかもしれない。とにかく、本来不自然なはずの「立体動画像」も実際に眺めてみるとかなり自然な立体感を感じさせるのである。
というわけで、この原理の是非は次回以降に回すとして、まずはこのperspectiveを使って色々な動画像を立体化して眺めてみるべきと、私も色々な動画像を眺めてみたわけなのだけれど、試しに下のような「モーニング娘。」のライブビデオなんかも立体化してみた。
で、この立体動画像を眺めながら、ちょっと私は考え込んでしまった。動画像中を走り回る「モーニング娘。」のメンバー達が手の届きそうな近くへ飛び出して見えたり、またあるいは、手の届かない遙か向こうの後ろにふと見えたりするのだ。それは確かに遠近感のある立体画像なのではあるが、ただの遠近感のある立体動画というわけだけでもないような気がしたのである。
何しろ、その走り回り、飛び出したりするメンバー達が今はもう実は「モーニング娘。」ではなかったりするのだ。何かそんなことを考えると、今眺めている動画像の奥行きが単に空間的な奥行きだけではなくて、何か時間的な奥行きを感じさせるような気がしたのである。時間的な距離を何か感じさせるような気がしたのである。
そう、そういえばこのperspective.exeが作る立体動画像は「時間的に前後に並んだ二つの画像を空間的に左右に並べて」みたものであった。つまりは、ビデオテープに記録された時間軸と空間軸をほんの少しばかりシャッフルすることで、遠近感を作り出しているのである。だから、perspective.exeが作る遠近感・奥行きは、実は「時間的な遠近感・奥行き」なのである。それを人間が勝手に「空間的な遠近感・奥行き」であるかのように錯覚していただけなのである。
だから、私がこの「モーニング娘。」の立体動画を眺めて、そしてもういなくなったメンバーなどを眺めて、何か時間的な奥行きを感じたりしても、それも実は結構正しかったりするのかもなぁ、なんて思ったのである。そんなことを考えながら辞書を引くと、遠近法を指す"perspective"は同時に「時間の向こう、見通し,展望,前途」なんてふうにも書いてあって、それを読みながら、ふ〜ん…としみじみ納得してみたりしたのである。
2002-04-24[n年前へ]
■視線のベクトルは未来に向くの?
マンガのストーリーの方向を顔向きで探る 前編
一年くらい前から、コンビニで300円ほどの安いコミックをたまに買うようになった。休日の早朝、コンビニで発泡酒とおつまみを買って、ついでにそんな安いコミックを買って、そして、ビールを飲みながらそれを読むのがワタシの休日のささやかな(だけど至高の)幸せなのである。そんな至高の幸せをかみしめるとある休日、286円の西岸良平の「三丁目の夕日」を読みながら、ワタシはふと思ったのである。
これまで、「できるかな?」では、様々な小説、例えば「星の王子さま」「明暗」「こころ」「草枕」「失楽園殺人事件」といった小説を色々と解析してきた。そして、その中の主人公達がどんな風に動いていくのかとか、作者が何を考えているかとか、あるいは、犯人は誰かであるのか、などを調べてきた。何でそんなことを考えるの、と人には聞かれそうだけれども、とにもかくにもワタシはそんなことを考えてきたのである。そして、さらにふと考えてみれば、ワタシの至高の幸せを支える素晴らしき286円のマンガ本に関して、ワタシはストーリー構造などを真剣に考えてみたり、調べてみたりしたことはなかったのである。イケナイ、イケナイ、こんなことでは「恩知らず」野郎としてワタシにはバチが当たってしまうに違いないのである。
そこで、今回「コミックの中のストーリー構造」について調べてみたい、と思う。コミックの中で主人公達がどのような方向へ進もうとしているのか、あるいはその歩みの中で主人公達は一体何を考えているのか、などについて少し調べてみることにしたのである。
これまで、小説中のストーリー構造や主人公達の動く方向を調べるときには、「特定の言葉や主人公達」が登場する位置を調べたり、あるいは他の言葉や登場人物との相関を調べたりしてきた。それでは、一体マンガのストーリー構造や主人公達の動く方向を調べるにはどうしたら良いだろうか?そんなものどうやって調べるの?と一瞬悩んでしまいそうではあるが、ちょっと考えてみればそれはとても簡単なのである。小説と違って、マンガでは登場人物達がちゃんと見えるカタチで描かれているのである。主人公達がどの方向を向いているかがちゃんと描かれているのである。そしてまた、主人公やその周りの人々や、ありとあらゆる人々がどんな方向を向いているかがもうありのままにちゃんと描かれているのである。
だったら話は実に簡単、マンガの中の登場人物達の向きを刻々調べてみれば、そのマンガのストーリーの中で主人公達がどちらへ向かって何を見ながら動いているかが判る、というわけだ。実に即物的でシンプルなアプローチである。
善は急げ、というわけで、早速今さっきまで読んでいた手元に掴んだままの西岸良平の「三丁目の夕日 ジングルベル」の中から、「霜ばしら」という短編を題材にして、その中の主人公の顔の向きを調べてみることにした。ある恋人同士の、とても楽しくて、そしてとても悲しい物語である。
まずは、マンガのコマ中の登場人物達の向きと角度の対応表を下の表のように定めた。登場人物がコマ中で右方向を向いているときに0度とし、正面方向(すわなち読者方向)を向いている時が90度。コマの左方向を向いていれば180度である。そして、280度では真後ろを向いているという具合である。
270 | ||
180 | 0 | |
90 |
このようにコマの中に登場する主人公達の向きを数値化することにして、話の冒頭から結末までの各コマ中での主人公(周平)とその恋人(アキちゃん)の向きを調べてみたのが下のグラフである。青色の四角が主人公で、赤色の三角がヒロインである。また、その二人が向かい合ってる場合には朱色の丸を方向=0の位置に書き入れてみた。グラフ中では水平軸がストーリーの時系列で、左端が話の冒頭であり、右端が話の結末、そして縦軸が「主人公達の向かう方向」である。また、ヒロインのアキちゃんが途中の2カ所にしか現れないのは少しばかり悲しいストーリーのせいだ。この「霜ばしら」は主人公とアキちゃんの涙を誘う悲しい物語なのである。
左端 = 話の冒頭 右端 = 話の結末 縦軸 = 主人公達の向かう方向 |
このグラフを少し眺めていると大体の特徴が見えてくるだろう。すなわち、
- 主人公達はほとんど45、135、235度の3方向しか向いていない
- それ以外の向き(例えば315度)を向く場合などは、ほとんどが「向き合っている」場合である
- そして、135度の方向を向いていることが圧倒的に多い。
しかし考えてみれば、これらの特徴はごく当たり前なのである。まずは、舞台やテレビと同じく、登場人物達は読者にお尻を向けるわけにはそうそういかない。読者に顔を見せずにお尻を向けていたら、誰が誰だかよく判らなくなってしまうに違いない。だから、登場人物達はあまり後ろを向くわけにはいかない。どうしても、主人公達は文字通り「前向き」にならざるをえない。もし、後ろを向くとしたら、それは文字通り登場人物達に「後ろを向かせる」何らかの強い意図に基づく場合以外ありえないに違いない。それが、例えば他の誰かと「向き合って」いる場合であったり、あるいは他の表現意図に基づくものであろう。
また、日本におけるマンガが右から左に読まれていくのであるから、読者の視線の動きの中では「右のコマ= 過去」「左のコマ = 未来」と時間感覚が成立している。マンガを読む私たちの視線のベクトルは右から左、過去から未来へと進んでいるのである。すなわち、「マンガの中の話の流れ= マンガの中の時間・因果の流れ」をスムーズにするためには、主人公達が過去なり未来なりのコマの方向を向くことで、時間の流れ=因果の流れをスムーズに受け継ぐのが自然だと考えられる。過去に発生した「何か」に応えた反応をするならば、主人公達は当然右を向くし、そうでないならば通常は時間の流れる先の向き= 左側を向くことになるだろう。
すると、マンガの中の登場人物達は読者に対して「前向き」であって、なおかつ時間の流れる方向に前向きの「左側」を向くのがごく自然である、ということになって、「コマの中の主人公達は135度の方向を向くことが圧倒的に多い」ということになるのだろう。まぁ、当たり前の話である。
そしてさらには、こんな風にも考えられる。「右<->左」方向は時間の流れに対する主人公達の向きであって、「前向き<->後ろ向き」は登場人物達が文字通り「前向きであるか」あるいは、あるいは「後ろ向きであるか」という「主人公達の内たる気持ちの向き」ではないだろうか、とも考えられるのである。
だから、例えばこの「霜ばしら」の結末の部分80コマ以降を見ると、45->135->225度という主人公のベクトルの変化がある。これは主人公が「過去に向かう向き(死んでしまったヒロインへを見る向き)→未来に向かう方向へ進む→未来に向かう(だけど、やはり亡くなってしまったヒロインをたまに振り返りながら)」というまさに主人公のベクトルを描き出しているのではないだろうか、と思うのである。そんな風に眺めてみれば、最後のコマの主人公の向きが「何かを振り返りながら、だけど未来へと歩いていく様子」をまさに映し出しているようにも見えるのである。ストーリーはここに書くわけにはいかないけれど、こんな想像も割と良い線をいってるのかもしれない、と思ってみたりするのだ。
こんな風に、単にマンガの登場人物の向きだけで主人公達の向かうベクトルを探る、なんていうことが乱暴なのはさらさら承知の上である。こんな人物の配置解析によるストーリー解析が的を射ているのか、あるいは的を外しまくっているのかは、ぜひこのマンガを読んで実際に判断してみてもらいたい、と思うのである。
さて、こんな風に舞台の右と左、上手と下手に対してどんな風に登場人物達が向かっていくのか、なんてことを考えるといろんな想像が広がってとても面白いのである。時間の進むベクトルであるLeftStage(舞台から見ると逆なんてことは言わずに)に消えていく登場人物達(例えば今回の話では恋人アキちゃんを亡くしてしまった主人公)は「残されたもの達」を連想させてみたり、あるいは、色んなものを眺める私たちの視線のベクトルは本当に未来に向いているのかな?などと色んな想像や空想を駆けめぐらせてみることも、それはそれでとても趣深いことだなぁと思うのである。
2002-06-02[n年前へ]
■職場のスフィンクスの名台詞
止まったエスカレーターに何故上手く乗れないのか?
ある朝、いつものように出社すると、いつもと違うことがあった。職場へ行くために通らなければならないエスカレーターが動いていない。エスカレーター横のガラスが割れているため、それを直すまではエスカレーターを止めたままにしているらしい。かなり、不便ではあるが、壊れたモノはしょうがないのである。しょうがなく、建物の端にある階段をエッチラ、オッチラ上って職場の居室へ行ったのである。きっとスカレーターはすぐに直るだろうと思っていたのだが、残念ながらエスカレーターは直る気配が全く無いまま数日過ぎた。いつまでたっても、いぜんとしてエスカレーターは停止したままなのである。しかし、私たちの職場にはそのエスカレーターを使わないと辿り着けないので、その職場の人達はその止まったままのエスカレーターをいつしか階段代わりに登り降りするようになっていた。止まったエスカレーターは「楽ちんなエスカレーター」ではないけれど、ただの階段としては十分使える、というわけだ。
ところが、である。ただの階段と違って、何故か止まった「エスカレーター」は歩きづらいのである。特に、エスカレータに乗る最初の一歩がなんとも上手くいかないのだ。よく、エスカレーターに乗る最初の一歩や、エスカレーターから降りる最初の一歩が上手く出せない人がいるが、ちょうどあんな感じになってしまうのである。普段、動いているエスカレーターを使う分には、私は「上手く乗れない」なんてことは全然無いのだけれど、何故か止まったエスカレーターに足を踏み出そうとすると、体のバランスが崩れてしまうのだった。もちろん、エスカレーターが止まっていることも、微妙に段差が違うことも判っているのだけれど、だけれども何故かバランスを崩してしまうのである。
というわけで、私も含めてあらゆる人達がスカッスカッと何故かバランスを崩しながら、止まったエスカレーターに恐る恐る足を踏み出していたのである。
そんなある日、止まったエスカレータの横にシミュレーションプログラム作成を生業とするN氏がいつまでも立っていることに気づいた。そして、止まったままのエスカレーターを登り降りしようとする人達を次から次へとつかまえては、N氏は何事かを喋りかけているのである。何故だか、N氏は通る人通る人に何かの言葉を発しているのであった。それはまるで、ピラミッドの前に佇み、そこを通る旅人達に謎かけをするというスフィンクスであるかのようだった。
もちろん何処へ行くにもその止まったままのエスカレーターを使わなければならないので、私もすぐにN氏改めスフィンクスに捕まってしまうこととなった。そして、N氏はこう言ったのである。
「止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき、何故だか体のバランスが崩れるような気がしないか?オマエは?」もちろん、それは私も不思議に思っていたわけで、
「そー、そー、そうなんですよねー。ただの止まったエスカレーターなんだから、普通の階段みたいなものなのに、不思議ですよねー。」と私が答えると、
「喝〜!不思議ですよねー、じゃぁないだろー。何故?どうして?を追求するのがオマエの仕事じゃないのかー!」と怒るのである。そ・それは私の仕事ではないのじゃないだろうか…、百歩譲ってそれが趣味なら確かにそうかもしれないが…、ワタシは別に子供電話相談室ではないんだけどなー…、と私が心の中で考えていると、
「ちゃんと、物事にはすべて原因があるハズだぁー。止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき、何故体のバランスが崩れるのか、その理由を考えてみろー。」と怒りまくるのである。ここまでくると、ピラミッドの前で謎かけをするスフィンクスそのものである。いや、むしろそれよりタチが悪いかもしれない。何しろ、このスフィンクスはシミュレーション・プログラムを作るのを仕事にしているのだから、物理と論理に長けているのである。だから、きっと結構素朴であろう元祖スフィンクスよりなおさらタチが悪いのだ。
う〜む、これはそう簡単にこのスフィンクスからは解放されそうにないな〜、と思いながらも、私が
「う〜ん、エスカレーターが止まっている、って判っていても、無意識のうちに体がエスカレーターが動いていると思いこんじゃうんですかね〜。それで、何かバランスを崩してしまうんですかね〜」とあいまいに答えると、
「違〜う。答えはちゃんとすぐ目の前にあるのに、それにオマエは何故か気づいていないだけなのだ〜」と、スフィンクス、じゃなかったN氏はものすごく嬉しそうに叫ぶのだった。そして、そのスフィンクスは驚くべき解説を始めたのである。
「オレ達はエスカレーターが止まっている、という大きなことに気をとられて目の前、いや足下と言った方が良いか、の大事なことが見えていないんだよ。ホラ、エスカレーターの動く階段部分の直前がどうなっているか、良く見てみろよ。そこだけ傾いて斜面になっているだろう?」「あー、確かにそーですねぇ〜」「確かにそーですねぇ〜、じゃねぇよ。エスカレーターに乗ろうとするときに、俺たちの体を支えている足はそのちょうど斜面の上に乗っかっているわけだよ」「…」
「だから、エスカレーターに足を踏み出そうとする瞬間、実はオレ達の体はエスカレーターの方に傾いてしまっているわけだ。だけど、オレ達は- エスカレーターが止まっている - ということに気をとられて、斜面の上でオレ達の体がすでに傾いてしまっていることに気づかないわけさ」このN氏改めスフィンクスが語る話を聞いたときに、ワタシは目からウロコが落ちるような気がした。そして、ワタシの頭の中で加納朋子「ななつのこ」冒頭の台詞の文章「オレ達が止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき体のバランスが崩れるのは、踏み出したオレたちの足に原因があるわけじゃなくて、もう一方の足下が傾いているということに気づかないことが原因なわけだ」
「答えはすぐ目の前に書いてあるのに、オレ達はただそれに気づかないだけなんだよー」
いつだって、どこでだって、謎はすぐ近くにあったのです。何もスフィンクスの深遠な謎などではなくても、例えばどうしてリンゴは落ちるのか、どうしてカラスは鳴くのか、そんなささやかで、だけど本当は大切な謎はいくらでも日常にあふれていて、そして誰かが答えてくれるのを待っていたのです....。が流れ出したのである。何もスフィンクスの深遠な謎などではなくて、職場の壊れたエスカレーターの前でも謎(大切かどうかはともかく)はいくらでも日常にあふれていて、そして時には誰かがスフィンクスに変身して、その謎に答えを出してくれるのであった。なるほど、なのである。
そして、「動く階段部分の直前にある斜面」を意識するようになった途端、止まったエスカレーターでも何の問題もなく乗れるようになり、むしろ、どうしてあんなにスカッスカッとバランスを崩していたのか不思議に思えるほどになったのだった。
で、その後スフィンクス改めN氏と「動く階段部分の直前にある斜面」のその他の効果、止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき体のバランスを崩してしまうということ以外の効果、についてしばらく話をした。で、数日後成田で「動く歩道」の上を歩きながら、その効果を確認したので、その内容を書いてみる。
上の写真は平らな「動く歩道」だが、この場合にも先の場合と同じように、「動く歩道部分」直前は斜面になっている。そして、私たちは「動く歩道」に片足を踏み出すとき、もう一方の足は必ずその斜面部分に立っている。それは、ちょうど跳び箱を飛ぶ前に必ず私たちが踏切板を踏み込む瞬間のようなのである。すると、斜めになった面に片足で立った私達は、それに気づかないまま無意識のうちに体が前に倒れ、加速するのである。もちろん、斜面を片足で後ろに踏み出す効果もあって加速するのである。
私達が普通に歩いている状態に比べて、「動く歩道」の上を歩く状態というのは、私達の体の速度は速いのである。だから、普通に歩く状態から「動く歩道」の上を歩く状態にスムースに移行するためには、私達はその瞬間に「動く歩道」の速度に応じた若干の加速をしてやらなければならない。ところが、「動く歩道部分」直前の斜面のために、無意識のうちに私達はその加速を行ってしまうのである。だから、比較的スムースに「動く歩道」の上に移動して、しかもその瞬間の不連続な速度変化を感じずに済むわけだ。
そして、「動く歩道」を降りるときには、これとは逆のことが生じる。つまり、通常の歩道部分に踏み出した片足が、斜面部分に着地し、その斜面が私達の方に傾いているため上り坂を上るような状態になって、自然と私達の体は減速するのだ。だから、「動く歩道」から普通の歩道部分への移行がスムースになる、というわけなのである。
このような効果が誰にでも起きるのかどうかは判らないし、仮にそれが一般的に起きる現象だとしても、それが制作者達の意図したものであるかどうかは判らない。しかし、止まったエスカレーターを前に当惑したことのある人や、あるいはいつもエスカレーターや「動く歩道」に上手く乗れない人は、ぜひ「動く部分直前の斜面」に気をつけながら、足を踏み出してみてもらいたい、と思うのだ。
それにしても、「答えは目の前に書いてあるのに、オレ達はただそれに気づかないだけ」とは、ミステリー小説の中の気持ちの名探偵の台詞のようである。色んなところで色んなことで、私達はよろめいたり、つまづいたりするけれど、そんな時目の前の景色や、足下の景色をじっと眺めてみれば、目の前にその答えが大きく書いてあったり、あるいは転がっていたり、そして時にはその答えを踏みつけていたりするものなのかもしれないな、とふと思ったりするのである。だけど、やっぱり私達はそんな答えには気づかないまま、無意識に体が傾いてバランスを崩してしまうのかもしれないな、と思ったりもするのである。
2002-08-09[n年前へ]
2002-08-28[n年前へ]
■時には後ろを振り返る
そーいえば、小学六年の時、東京から長野まで歩いたっけ。子供心に「歩き終えたら、何かになれる」ような気もしたけれど、「結局、そんなこともなかったなぁ」と思ったような気がする。
しかし、考えてみればちゃんと「そのこと自体が報酬だった」んだろうなぁ…。明日、留学していく人を眺めながら、そんなことを思ったり。