2010-01-07[n年前へ]
■本当の「等身大」の人の姿
広告批評 編集「私の広告術 」から、一倉宏の言葉。
今の広告が描く人間の姿は「等身大」と呼ばれて、だけど本当の人間たちよりもほんの少し小さく描かれているように僕は感じる。
その、指一本が入るような隙間の中に詰まっているのが、愛とか夢とか希望とか志とか誇りとか、なんじゃないんだろうか。
それがあって、本当の人間の大きさなんだと、僕は思う。
2010-03-14[n年前へ]
■愛とは、見つめ合うことでなく、同じ方向を見ることである。
角田光代の「今、何してる? 」から。
(フランスの作家、「星の王子さま」の作者、サン・テクジュペリの言葉から)「愛する、それはお互いを見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである。
ふと、「お笑いパソコン日誌」に書かれていた、こんな言葉を思い出す。
仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。同じ方向を見ることはできないのかもしれない。だったら、せめて同じ方向へ、前へ、進むことならできるのだろうか。それとも、その「前方」は、やはり二人違う方向を向いているのだろうか。違う方向を向いているとしたら、それはただ離れていく方向なのだろうか、それとも、現実世界でよくあるように、やがてまたどこかで交(まじ)わったりするものだろうか。
それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが
ここでは引用していないが、サン・テクジュペリの言葉を導入部分に使いつつ書かれた、角田光代の文章はやはり魅力的だ。変なたとえだが、それは久世光彦が書く、向田邦子の魅力に、少し、似ているような気がする。
2010-03-19[n年前へ]
■同じものを見るという「奇跡」と「幻」
角田光代の「今、何してる? 」から。
親とかきょうだい、もしくは恋人は友達と、とても親密なある一日を過ごしたとする。(中略)その一日について、ともにすごした人と照合してみると、びっくりするほど記憶が違う。私は空を横切る飛行機を見ていて、彼/彼女は散歩中の巨大猫を見ている。私はサテンで男女が大喧嘩しているのを見ていて、彼/彼女は行列のできるラーメン屋を新発見している。
だれかとともに一日を過ごして、何から何まで同じものを見、うりふたつの記憶を持つという奇跡のようなことは、きっとある。そして私は気づく。恋人でも友達でもない、未知のだれかとも、同じものを見、同じ記憶を共有することは可能である、と。
繰り返し、そんな「奇跡」を夢見ます。そして、いつもこの言葉を反芻(はんすう)するのです。
仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。
それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが。
「お笑いパソコン日誌」
2010-03-21[n年前へ]
■"15-0”と「15才の君へ」
テニスで"15-0”という点数を表す言葉、フィフティーン・ラブ "Fifteen-Love"と宣言する声を聞くと、「十五の愛」とか、「十五歳の恋」とか「十五年の愛」とか、そんな風に聴こえてしまうことがある。
1995年の関西・淡路大震災から15年が経った。関西電力の「15才の君へ」というコマーシャル・ビデオを観ているとき、ふと、そんな"15-0”の幻聴を思い出した。
君たちがいたから、15年でここまで来られた。
君たちこそが、希望の光。
"0"を、なぜLoveというのだろう。それは、ゼロが卵に似ていて、卵を意味するフランス語の音から来ているのだ、という説もある。
The origin of the use of "love" for zero is also disputed; it is possible that it derives from the French word for an egg (l‘oeuf) because an egg looks like the number zero.あの時のゼロの卵たちが、今では十五歳になっていく。やはり、何だか、"Fifteen-Love"という声が聞こえてくるような気がする。
拝啓、この手紙を読んでいるあなたは、
どこで、何をしているのだろう。
アンジェラ・アキ 「手紙~拝啓 十五の君へ」
2011-12-26[n年前へ]
■「おっぱい」と「愛」
「おっぱいとお月さま(La Teta y la Luna) 」という映画を見ました(ニコニコ動画へのリンク)。1994年に公開されたスペインの映画です。「おっぱいとお月さま」のあらすじ・概要を書くと、こんな具合です。
カタロニアの少年、9歳のテテは、生まれたばかりの弟にママのおっぱいをとられてしまう。 じぶんだけのおっぱいを見つけようと決めたテテが眺める、周りの人たちの喜怒哀楽を、そして愛を、心地良い歌 声と音楽とともに写しだし…そして、テテはおっぱいを手に入れる。ところどころ「ん?」と思う言葉が入っているかもしれませんが、それは映画を見た私の視力と文章力が良くないせいです。 …とにもかくにも、こんなある決意をした男の子テテが、想像力・妄想力たくましく眺める「愛」が描かれた映画です。
ぼくだけのおっぱいがほしい。「おっぱいとお月さま」という映画は人を選ぶ、いえむしろ人によっては「おっぱいとお月さま」という映画を選ばない、と言った方が良いかもしれませんが、この映画を大好きになる人は、私以外にもきっとたくさんいるだろうと思います。呆れたり、笑ったりしているうちに、何だか少し人が愛おしくなるように感じる、そんな映画です。
ぼくだけのおっぱいを見つけることにした。
この映画を見る前に、ある感想を読みました。その中の一文が、私にはとても新鮮に感じられました。
少年が、オトナの世界に触れて成長しつつも、おっぱいへの執着はまったく捨てない、乳離れしない、というのが斬新。 いや、男のコってのは、永遠におっぱいがきっと好きなのだ。テテ(主人公)と同じくらいのおっぱい星人の息子を持つ私には、可笑しくてしかたなかった。新鮮に感じたのは「少年が成長しつつも、おっぱいへの執着はまったく捨てない、乳離れしない、というのが斬新」という部分です。 「そうか、普通は”乳離れ”するというのが世間一般の常識だったのだな!」と目からウロコが落ちて、そんな発見に新鮮さを感じたのです。
「おっぱいとお月さま」
ところで、この「少年が、オトナの世界に触れて成長しつつも、おっぱいへの執着はまったく捨てない」という一文を読んだとき、「男の子は皆バカでヘンで、そして、そのまま大きくなる」という、あるお母さんのこんな名言を思い出しました。
男の子は皆バカでヘンです。ちなみにそのまま大きくなるので、オトコという生き物も基本的にバカでヘンだと思って間違いありません。ちなみに、女の子は意地悪。男女両方を育ててみての感想であり確信です。バカと意地悪が共に暮らす人間社会。いろいろあって当たり前ですね。「バカと意地悪が共に暮らす人間社会、いろいろあって当たり前」…なるほど、それは確かにその通りに違いない、と思わされます。
「男の子はバカでヘン」「女の子は意地悪」
そしてまた同時に、こんな疑問も浮かびます。バカ(男)が意地悪(女)を好きになるのはわかるにしても、なぜその逆のこともあるのでしょうか? 意地悪(女)が、よりにもよってバカ(男)を好きになるなんて、これは一体どういうことなのでしょう。
…愛って難しいな・何だか難しくてよくわからないな、と9歳のテテのように首をかしげつつ、「おっぱいとお月さま」中のあるシーンで、力強く・切なく・限りなく愛おしく響く歌声にただ聞き惚れるのでした。
愛する人よ
こんなに愛せるなんて
叫びたいほど
こんなに愛したのは初めて
今日 愛の言葉を
愛の言葉を 繰り返す
別の人に 繰り返す
愛を込めた 言葉を
たくさんの 愛の言葉を
あり余るほどの 言葉を
…あふれる言葉を
愛の言葉を 繰り返す