2010-12-23[n年前へ]
■「答え」にたどり着くための「羅針盤」や「地図」
ある人の影響で、今年の春頃から、数学パズルが好きになりました。単純に解くことができそうにも思える・・・けれど、実際に解こうとするとなかなか溶けない頭の体操をする楽しさを教えられ、「数学パズル」に挑戦する心地良さに魅入られています。
たとえば、それはこんな「バシェの分銅の問題」のようなパズルです。
太郎の「リュック」の重さは、「1〜40kgまでの整数で表される」ということがわかっている。天秤を使って太郎の「リュック」の重さを量るためには、最低何個の分銅があればよいか?
そして、その数学パズルを深追いして納得するための四苦八苦にずっとハマっています。その四苦八苦の楽しさも・・・また別の若い誰かに教えられたような気がします。 「どうやったら、解くことができるか」ということに悩み、そして「その解き方に、どうしたら必然的にたどり着くことができるのか」ということを腑に落ちたくて、「とても長い時間」をひとつひとつのパズルに使っているような気がします。
「答え」という名前の「登山道」のひとつより、その答えにたどり着くための「羅針盤」や「地図」の方がずっと魅力的です。たとえば、冒頭の「バシェの分銅の問題」で言えば、「(1,3,9,27kgの分銅)トータル4つ」という答よりも、その答えにたどり着くための「考え方」やその答えにたどり着いたあとに得られる「何か」の方が何百倍も(あぁ、なんて数学的でない表現なのでしょうか)魅力的に思えます。
2010-12-29[n年前へ]
■人の会話の上で成り立つ「学問」
「NHKスペシャル 100年の難問はなぜ解けたのか—天才数学者の光と影 」中の、小島定吉のウィリアム・サーストンに対する言葉。
優れた定理を証明し続けることが必ずしも数学の発展につながらず、むしろ数学者のやる気をそいでしまうこともある、と知ったことは、博士が「数学は、人の会話の上で成り立つ学問だ」と考えるひとつのきっかけになったのかもしれません。さらに、ウィリアム・サーストン自身の言葉。
自分の研究の進め方に二つの問題点があると反省しました。(ひとつは)自分の理論のバックグラウンドを丁寧に説明せず、いわばわかる人にだけわかれば良い、という書き方に陥っていたのです。もうひとつは、周囲が「答え」を期待しているのだと勘違いしていたことです。だがそうではなかった。皆が求めていたのは答えではなく、どうやって考えたかという過程だったのです。
2011-02-06[n年前へ]
■街で見かけた「ケーニヒスベルクの橋渡り問題」
「街を流れる川に架かる7つの橋を、一筆書き状にすべて渡り、(どこでも良いから)スタート地点に戻ってくることができるか?」というのは、オイラーが解いた「ケーニヒスベルクの橋渡りの問題」です。ケーニヒスベルクというのは、今はカリーニングラードと呼ばれるバルト海沿いにあるロシアの街です。
この「ケーニヒスベルクの橋渡りの問題」は、私たちの住む街にも、実はたくさんあったりするものです。たとえば、今日頂いた「街で見かけたケーニヒスベルクの橋渡り問題」が下の写真です。看板に描かれた川と、その川にかかる橋群は、まさに「ケーニヒスベルクの問題」です。「鉄道専用らしき橋を渡ることができるとしたら」とか「鉄道専用橋は渡ることができないとしたら」という風に、条件を変えながら眺めてみても面白そうな、そんな「ケーニヒスベルクの看板」に見えます。
あなたの街にも、きっと「ケーニヒスベルクの橋渡り問題」がどこかに隠れているはずです。今日頂いた「ケーニヒスベルクの問題」看板のように、あなたが見つけた、そんな風景(写真)「理系の散歩道」をお裾分けして頂けたら、心からうれしく思います。
2011-02-27[n年前へ]
■「ビルの階数」と「エレベータに並ぶ人数」でエレベータが停まる回数がわかるの法則
都会で感じる「気まずい時間」のひとつが、ビルのエレベータで過ごす時間です。エレベータという三畳一間以下の狭いスペース中で、たくさんの人が視線を合わせずに「進行階表示を眺めている」瞬間は、まさに「気まずい」という言葉を描いたような時間に思えます。そんな瞬間こそが好きだ…という人が決して多いとは思えませんから、「エレベータに乗る時間をいかに少なくするか」を考えている人はきっと多いことだろうと思います。
M階のビル(の一階)で、エレベータの前にN人が並んでいるならば(そのN人がエレベータに乗り込むならば)、平均的に、エレベータが停まる「階の数」は
M ( 1- ( (M-1)/M )^N )と表されます。…これはつまり、高いビルならば停まる階数が多い可能性が高く、エレベータに乗り込む人数が多ければ、やはり階数が多い可能性が高い、という単純な真実です。
それは、エレベータが停まる階数は、NとM次第で変わるけれど、ビルの階数とエレベータに並ぶ人の数を眺めてみれば、どれだけの「気まずい時間」を過ごすことになるのかを知ることができるという面白い真実、「ビルの階数」と「エレベータに並ぶ人数」でエレベータが停まる回数がわかるの法則です。
明日、あなたがエレベータに乗り込んで気まずい時間を過ごそうとする時に、「ビルの階数」と「エレベータに並ぶ人数」を数えて「何階に停まるか」予想してみるのも面白いかもしれません。エレベータの中で、「科学が予測する数」が真実と一致するかどうか、そんな賭けにワクワクしてみるのも楽しいはずです。・・・そうすれば、都会で感じる「気まずい時間」が少し減るのではないか、と思います。
2011-03-05[n年前へ]
■「正しい問題へのおおよその答」と「誤った問題への正確な答」
次の言葉は、「自然の中の数学—数学で見る自然の美しさ 」の中に書かれた一節です。これと同じような言葉はよく見かけるような気がします。
「正しい問題におおよその答を得るほうが、誤った問題に正確な答を得るよりはましである」と言ったのは、統計数学者のジョン・ターキーである。
「正しい問題」を設定し、それに対しておおよその答を導くことはおおよそ正しい答を出しますが、「誤った問題」への「正確な答」は、ほぼすべての場合、役に立たない答しか出してはくれないのです。
異なる領域の問題に対して同じ形式の関係が成り立つということは多いものです。「正しい問題へのおおよその答」と「誤った問題への正確な答」…あなたのまわりにも、そんなことに似たものがあったりはしないでしょうか?