2005-04-03[n年前へ]
■文字(文章)デザイン
「カナ入力と半角文化」が面白い。「コンピュータ関係の英単語を全角アルファベットって…」というような話から始まるエトセトラ、である。一連の文章を読んで、技術系の人にとって数少ない「文章の書き方」の教育の機会が「論文書き」なんだぁ、とふと感じた。
ところで、現在のところの私自身は、次のような使い方をしている。
アルファベット → 全角は使わない
現在のところ、そういう使い方をすると
読みづらいことが多い。
日本語の中の英単語 → スペースを両端に入れておく
見やすいし、問題も起きづらい
日本語内の"()" → 全角は使わない
"()"を使うと、間隔が広すぎて読みにくい。
日本語内の"?, !" → 全角を使う
"?!"を使うと、日本語文字と組み合わせた時に、
バランスが悪く読みづらい
WEB上の文章では"、「」"を多くする。
WEBの文章を表示するデバイスは読みづらい。
その読みづらさを何らかの作業で補う
判断基準は、「表示されたものを(内部コードの話ではなく)、自分がその文章を読むときの読みやすさ」である。ちなみに、私は「読む側が少しでも読みにくいと感じる=読者にとって(書き手にとっても)支障が大いにある」だと考えている。だから、「大した支障はないよね。どっちでも良いよね」と割り切ることはできずに、こだわりを持つ人が多いのも当然だとも思う。そういう(人によって異なる)こだわりは、人によって異なる)「伝えやすくしようとする意図の現れなのかもしれない。
コメント欄中の
新聞のような縦組だと、全角大文字ローマ字が相性いいですね。には、「なるほどね」と、とても納得。
2005-07-19[n年前へ]
■「自分のやり方」
ぽいんつさんのブログさんのブログの村上春樹「海辺のカフカ」を読んで、ふと先週渋谷帰りに飲んだ時に話していたことを思い出した。だから、これから書く文章は私自身などへ向けたメモです。
「自分のやりたい仕事であるか」ということや 「会社の中での地位やお金」、「自分のプライド」 について、自分がどういうスタンスであるかという 自己認識が非常に大事なのではないかと思っています。自分が不安になった時、自分の自信がなくなった時、「自分のやり方」の「(自分が考える)良さ」を文章で書きたくなります。「(自分が考える)良さ」に同意してくれる他人を、つまりは、「自分のやり方」に賛同してくれる他人を増やしたり、探したくなってしまうことがあります。自分を支える根拠を他人に求めたくなってしまうような感じかもしれません。そんな瞬間は繰り返し繰り返し訪れ続けているような気がします。自分自身を振り返ってみると、私自信はそんな風に感じたりすることがあります。 自分がどういうスタンスであるかという 「(他人ではなく)自己」認識が非常に大事、と本当にそう思います。
たとえば、収入が高ければやりたくない仕事でもやる、とか 会社のメイン・ストリームでなくても自分のやりたい仕事で そこそこ収入が高ければ良い、とか、多少収入が低くても 会社の中心となっている仕事をやりたい、とか。
自信に満ちあふれているときには、「自分が生み出した結果」を書きたいと思いこそすれ、「自分のやり方」について書きたい、なんてこれっぽっちも思いません。自分の中に、自分の立ち位置に対する「心の強さ」が十分にあれば、「(他)人は(他)人、自分は自分」とだけ鼻歌交じりに他人を眺めていたりします。
もしかしたら、私と違って「さらに自信に満ちあふれている人」だと、「自分が不安になった時、自分の自信がなくなった時」でなくとも、四六時中「自分のやり方」の「(自分が考える)良さ」を書きたくなるのかもしれません。私は、その人の自信を支えるやり方よりも「その人が生み出したもの」を知りたいような気もしますが、「(他)人は(他)人、自分は自分」なのですから、人それぞれスタイルも色々なんでしょう。
「自分が良いと思うやり方」を他の人たちに向かって書いている文章を読むと、この人は「自信が必要十二分以上に満ちあふれている人」なのだろうか、あるいは「自信を無くしている人」なのだろうか、と考えたりします。「自信が必要十二分以上に満ちあふれている人」でも「自信を無くしている人」でも、どちらであるにしても、自分自身に「(他)人は(他)人、自分は自分」という「心の強さ」があれば、きっと人生は楽しいものなんだろう、と想像してみたりするわけです。 そして、どうしたら「自分がどういうスタンスであるかという自己認識」をしっかり強く持てるだろうか、と考えたりするのです。
2005-08-13[n年前へ]
■「自分を正当化してくれるもの」を好む
「自分がおぼろげに感じていることを上手く説明できるものを、好んで読む」人が多いような気がする。そう書くのは、「この本は面白い」と人が本を薦めるときには、「自分の考えや行動を正当化してくれるもの」が多いのだろうかと、先日ふと感じたからだ。
例えば、「○×△する上手い方法」というような本を読んで、「この本に書いてあることって、前から私が感じていたり、あるいは既にやっていたことじゃないか(もちろん、「自分がおぼろげに感じていた」ということと「文章として書き、形あるものとして表す」こととは大違いだが)」というような風に感じるときに、「この本はとても面白い」という人も多いように思う。
「自分の感じていたこと」をはっきりとした言葉にしたものを、つまりは、「自分と同じ考えや行動を言葉にしたもの」を好んで読み、「自分がおぼろげに考えていたことや、やろうとしていたことは適切なことなんだよ」と言ってくれるような文章を好む具体例を挙げると、「ハッカーと画家」とか「ピーターの法則」とか、そんな感じの本を好むようなことである。もしかしたら、多くの人にブックマークされるような文章もそうなのかもしれない。そんな、「自分を正当化してくれるもの」を好む傾向が見えるような気がする。
逆に言えば、「おまえがおぼろげに考えていることや、やろうとしていることは間違ってるぞ」と指摘するような本や文章はほとんど好まれることがない、ということになる。「アンタのやり方は良くないよ」という言葉は読まれない、という感じだろうか。
2005-08-25[n年前へ]
■入力環境
リニューアルして、ウェブログ形式になったTech総研ブログの使い勝手について、たださんが書いている。私も、(自分の使い慣れた環境と比べるせいだろうが)とても使い辛い。文章入力をデフォルトの入力画面で行うのは、かなり時間がかかり遅くなってしまう。道具の性質は書く内容に影響を与えると、私は考えているので、これはちょっとマズイ。なんだか「遅い」文章になってしまう。
それに加えて、スタイルシートの設定が私の感覚からすると違和感がある。引用文などが、(私個人の感覚からすれば)デザインが悪く使用に耐えない。というわけで、引用文を箇条書きに変えてしまった。そういうわけで、このままだと引用文を使わない内容に変わっていくだろう。道具の良し悪しは書く内容に影響を与えるのだ。