2007-07-20[n年前へ]
■ラプラス方程式とドンキホーテ
from n年前へ.
ラプラス方程式を差分化して、エクセルで静電界計算をしているところ。これは、2007年の昨日にも、同じ品川で見た景色。
ドンキホーテは、自分が何を行っているか、知っていたのだ。知っていながら、人を楽しませていたのである。
善人の数だけ悪人が必要なように、謙虚な人の数だけ思い上がった人が必要なのだ。
奴隷の数だけ主人が必要になるように、賢い人の数だけ馬鹿が必要なのだろうか。何だかカネゴンは生きることを許してもらったような心持ち
ネット上のニュースを流し読みしがちな自分を反省しつつ、図書館へ行き「ドンキホーテ」を手に取ってみる。けれど、その本のあまりの厚さに衝撃を受けパラパラと流し読みして本棚に戻す。
ハムレットは日記を書くだろう。ドンキホーテは日記を書かない。
枝に言葉を書き込みます。あなたの言葉を枝葉にして樹が育ってゆきます。参加者が増えると葉がどんどん増え、「 エコトノハ 」の樹は大きな言葉の樹に育っていきます。 そして、「 エコトノハ 」プロジェクトで育った樹木は、書き込まれた葉100枚(100クリック)を、植林1本分として換算し、オーストラリアカンガルー島での植林計画にプラスされていきます。
2007-09-15[n年前へ]
■「線路」と「人生の方程式」
朝早くは晴れていたけれど、10時を過ぎる頃には雨と霧で包まれる。高原特有の、白い霧が風に早く運ばれていく。
√a = 18 旅路(ルート)の中では、人はいつも18(age)である。青春18切符をポケットに入れて、京都と東京の間を11時間かけてよく移動した。
河から海へ船が出て行く。後ろの港には船が帰っていく。風の流れがそのまま波を動かして、その波の上に立っている人たちがいる。風が吹くともっと潮の匂いが強くなる。安いPCでグリッド・システムを組むと、どうしても巨大なハードディスク領域ができあがる。そんな領域を有効活用しようと思うと、Gmailみたいなものになるのだろうか、と昔考えた。
この方程式で使われている"="は、いわゆる等号"=="ではなく、代入の"="かもしれません。"=="が"="に変化した途端に、「人生の方程式」が「人生の定義式」に変わる。自らは決め得ない未知数を条件に応じて解くという行為が、能動的に何かを決めていくということに変わる。
素直に言い換えれば、「旅路(Route)の中では、人は誰でも18(Age)になる」というコピー文そのままに変身します。さらに言い換えるなら、「すべての人を18歳の頃に戻す」ものが「旅路(Route)」なんだと、声高らかに宣言する力強い定義式なのかもしれません。荒木経惟が撮る青春18切符が好きだった。あるビルの回転ドアを出るとき、その回転ドアの対角線上には、ビルへ入っていく荒木経惟がいた。
自分や他人のつまらない考えに沿った「道(Route)」の上を走り続けるのも、なんだかつまらなく感じられることがあります。そんな時には、そんなルートを外して色んなものを眺めてみるのも、少しだけは、良いのかもしれません。"=="が"="に変化した時、 if 文で使われる「こんな場合には」という等号が、定義という意志と行動に変わる。
「決められたレール」は無いほうがいい。 1995年 「青春18切符」冬
2008-01-28[n年前へ]
■「(いかにも)微分方程式」から「カルマンフィルタ」までのラクガキ
本屋で理工系の棚を眺めてみると、制御工学の書籍がたくさん出版されている。その半分くらいは「Matlabによる○×制御工学」というような感じだ。手にとってみると、数式が滝のように流れていて、難しくて話の流れを終えない。最後は結局Matlabコマンド一発で済ませるなら、数式追いかけたくないような…流し読みしたいような…と考えて、ふとわれに返りカナシイ気分になりながら、「(いかにも)微分方程式」から「カルマンフィルタ」までのラクガキを下敷きに描く。
2008-01-31[n年前へ]
■微分方程式とラプラス変換のラクガキ
「(いかにも)微分方程式」から「カルマンフィルタ」までのラクガキでは、微分方程式→状態空間制御の方しか描かなかった。だから、微分方程式→ラプラス変換→伝達関数の方もラクガキしてみることにした(描きかけ)。
2008-02-11[n年前へ]
■「ギャラリーフェイク」と「コピー」
美術の歴史を知ると面白く感じる。そして、ミステリー=謎解きも好きだ、と感じる人がきっと好きになるマンガが「ギャラリーフェイク」だ。時には、「カルマン渦」や経済学者でもあったマンデルブローの"株価変動予測"フラクタルを考える「連立不当方程式」といった理系心をくすぐる話も詰まっている(13巻目第2話)、そんなマンガだ。
「フェイク」つまり、「偽造した絵画」を題材にしたマンガ「ギャラリーフェイク」を読むとき、いつも思い出すのが「コピーの時代」という美術展だ。『現代の私たちの日常生活には多種多様な「コピー」が満ち溢れています』という言葉で幕が開く美術展を見たとき、感じたのは「コピー」が持つ劣化性だ。そして、「コピー」が持つ「進化能力」言い換えれば「可能性」だ。
時に、自分が何かの「コピー」になってしまいそうに感じる瞬間がある。影響を受けたものをただなぞるだけ、になってしまいそうになる。しかも、幸か不幸か「テキストをなぞるのが不得手」なせいか、劣化コピーになってしまうことが多い。
…これは困ったものだと感じながら、そんな時は、小器用なコピーでは、無限縮小コピーになってしまいそうだから、「とても質の悪いコピー」は「一種の進化だ」と眺めなおそう、と思ったりもする。小器用な縮小コピーを続けていたら、原始生物も人類も生まれなかったかもしれないし。