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2003-05-07[n年前へ]

ぼくらの一日は風景を描く 

はてなダイアリー・デ・モザイク


 人間の想像力は貧しくもあり豊かでもあると思う。例えば、びっしりと文字が詰まっている小説を読んでみても今ひとつ実感がわかないこともあるし、ほんの少しの文字だけの日記を読んだだけでわくわくすることもある。そんな風に、文字だけで色んなことを想像できたりもするし、文字だけでは今ひとつ判らないことだって多かったりする。もちろん、その逆のことだってたくさんある。

 そういえば、WEBの世界でよく見かけるアンテナ・ページ(=WEBページが更新されているかどうか調べるページ)はたいていが文字だけで書かれているものがほとんどのような気がする。それらのアンテナは更新された内容を文字で表示してくれて、ぼくらはそのアンテナが表示する文字を読んで更新されたページを読みに行くわけだ。いわば、電車の中に吊られている中吊り広告を読んで週刊誌の発売を知って、そして週刊誌を買いに行くようなものだ。

 だけど、電車の中の中吊り広告の場合はシンプルな文字だけじゃなくて、もっともっとカラフルで強烈に目に入ってくるものがほとんどだ。人間の想像力は豊かでもあるけれどやっぱり貧しくもあるから、単なる文字の羅列ではなくてもっと色とりどりに目に入ってくるような広告がほとんどだ。WEBの世界のアンテナにだってそんなカラフルなアンテナがあっても良いに違いない。

 そう思って、こんなアンテナを作ってみた。「はてなダイアリー」というウェブ日記サービス上で書かれている日記達の更新情報をカラフルなWEBページのサムネイル画像で表示する「はてな・デ・モザイク」というサムネイル・アンテナだ。「はてなダイアリー」の中から600ページほどを更新順に小さなWEBページ画像で並べて表示する、そんなアンテナだ。
 
 

はてな・デ・モザイク
(とても画像がたくさん入ったページです。重いです。)

 とりあえず、こんな風にサムネイルで表示すると、色んなページが鮮やかに目に入ってくるに違いないと思う。例えば、1日一枚づつ花の写真を飾っているページとか、1日一枚アイドルの写真を飾っているページとか、とにかくよりどりみどりのページが目に入ってくるはずだ。そして、これはもちろんアンテナだから、誰かが日記を書けこめば、そのページは小さくだけど上の方に浮かび上がってきて表示され、あなたの目にとまることになる。カラフルなサムネイル・画像群が作る「はてな・デ・モザイク」の世界は、はてな日記を上から眺めているようなもので、そんな世界を眺めていると近くでは見えなかった色んなものがきっと見えてくる。上空の世界を飛んで下の世界を眺めてみれば、きっとこれまで近くからそんなページ達を見ていたのとは違う感覚に襲われるに違いない。それぞれ小さく見える色とりどりのページ、それぞれ誰かが書いてる何処かであった1日の日記を読めば、これまでとは違う感覚を少し感じたりするに違いない。
 

 例えば、600人が書いている600種類の日記と言えばすごく数が多いような気もするけれど、上から眺めてみればそれはそれはとても小さく密集した狭い世界のような気もするだろう。はてなダイアリの上空の世界を飛んでみれば、きっと何処かで手を振っている人もいるし、きっと近くにだってよく似た人もいるに違いない。
 

 そういえば、以前ネットワーク上にたくさん散らばっている「笑顔」を集めて、一枚の風景を描いてみたことがあった。屈託のない笑顔もあれば、泣き顔もあるだろうし、こわばっているようなそんな笑顔だってあるだろう、そんな笑顔を集めて一枚の「絵」を作ってみたことがあった。そんなことを思い出しながら、今日は下の写真のような「一枚の風景」を作ってみた。この写真の本物は実はとても大きいから、ここに貼り付けた写真では細かいところはよく判らないかもしれないだろうし、きっと「何か変な三日月の人形かな?」と思うくらいのものだろう。
 

はてなダイアリの一日で景色を描く

 だけど、この写真を拡大してみれば実はモザイク画であることが判る。よく眺めてみれば、色んな人達が書いているはてなダイアリのWEBページを集めて作ったモザイク画であることが判る。昨日から今日にかけて「何百人もの色んな人達が書いたその一日の出来事」で作られた一枚の景色であることが判るに違いない。つまるところ、この写真は数百人の人達のとある一日の記録を集めて作った一枚の風景だ。

 何処かの誰かが一日の出来事をWEBページに書いてみる。笑顔もあれば、泣き顔もあるし、何にもない一日だったかもしれないし、あるいは呆然とするような一日だったかもしれない。そんなWEBページをちょっと遠くから眺めると、色んな風景が見えてくる。ぼくらのの想像力は貧しくもあり豊かでもあるけれど、きっと何かが見えてくる。ぼくらの一日の記録はきっと何かの風景を描いているに違いない。

2003-12-31[n年前へ]

「一日」「新年」が始まる瞬間 

「ヨチヨチ歩き」は1秒遅く、「つま先立ち」で0.05秒早く

 最近、一日がとても短いような気がする。正確に言うと、一日が短いというよりは、夜の時間に比べて昼の時間が短いように感じる。ふと気づくと日が暮れていて、いつの間にか夜になっているような気がする。遙か昔の小学生の頃は昼の時間がとても長かったような気がするけれど、最近では昼の時間がとても短いように感じる。そして、昼の時間が短いだけではなくて、そもそも「時間」自体がとても短いような気がする。一年なんかあっという間に過ぎて、すぐに次の年がやってくるような気にさえなる。

 江戸時代などであれば、普通の人々は日の出を「一日」の始まりとみなしていた。日の出とともに「一日」が始まり、そして「初日の出」とともに「新年」が始まると捉えられていた。だから、その感じ方に沿って言うならば、最近は刻々と日が昇るスピードが速くなっているような気がする。

 そんな、日の出と共に始まる「一日」や「新年」であるけれど、「一日」や「新年」というものは誰にでも同じように始まるものだろうか? …もちろん、そんなことはあるわけがない。東京にいる人とニューヨークにいる人では日の出の時間は大きく異なる。それでは言い方を変えて、例えばほとんど同じ場所にいる人、例えば同じ場所で並んで日の出を眺めるような場合であれば、「日の出」=「一日の始まり」はほとんど同じように訪れるものだろうか?

 もちろん、並んで日の出を眺めてみても、身長が違ったりすれば視点の高さが違うわけで、(単純な丸い地球を例に考えるだけでも)日の出の時間は当然その人の身長ごとに違うことになるに違いない。それでは、その「新しい一日が始まる時刻のズレ」「新しい一年は始まる時刻のズレ」というものは、一体どのくらい人それぞれ違っているものなのだろうか?

 例えば、ヨチヨチ歩きをし始めるような一歳児であれば、平均的な身長は70cm程度だろう。そして、大人の女性であれば平均身長は160cm程度で、大人の男性であれば平均身長は170cm程度である。すると、それぞれの視点の高さは、60cm,150cm,160cm程になるだろうか。 こんな身長の人達が、元旦に東京(標高30m北緯35.41度)で初日の出を眺める時に、(もしも視界を遮る山が仮に無いとしたならば)それぞれの視点の高さからの日の出の時間のズレを算出してみると、次のようになる。
 

 まず、身長170cmの(例えば)お父さんが160cmの高さの視点から日の出を眺める。その0.1秒後、日の出を眺めたお父さんが思わず感嘆の声をだし始める瞬間に、身長160cmの(例えば)お母さんの目からも昇ってきた朝日が見えるようになる。そして、お母さんが日の出を眺めてから少し時間が経って0.9秒ほど経った頃に、両親と手をつないで立っている一歳児の子供の顔にも太陽の光が差しこむようになる。

 0.1秒とか0.9秒という時間はとても短いほんの一瞬にも思えるし、意外に長い時間のズレにも思える。同じ場所にいる人には同じように差し始めるように思える日の出であっても人それぞれに結構違う時間であったりするのは面白いと思う。同じように(江戸時代のとらえ方で)始まるように思える一日や一年であっても、身長ごとに一秒近い時間のズレが存在するのである。ヨチヨチ歩きの子供は大人よりも約1秒遅く一日や一年が始まるし、身長170cmの人には身長160cmの人よりも0.1秒早く昼間がスタートするのである。

 ところで、ヨチヨチ歩きの一歳児にとっては、元日の日の出は大人より1秒遅く差し込み、その一方で日の暮れは1秒早く訪れる。ということは、日の出から日暮れまでの時間=日が差している時間を考えれば、大人よりも2秒短いということになる。小学生の頃の方が昼の時間は長かったような気がする- と思ったわけだけれども、子供から比べれば実は大人の方が2秒ほども昼の時間は長かったのである。

 そしてまた、もしも身長160cmの人がつま先立ちをして精一杯の背伸びをすれば視点が5cmくらい上に上がって、その結果として日の出は0.05秒ほど早く訪れる。そうすれば、一日は0.05(秒)* 2≒0.1(秒)というわけで、日が差している昼の時間が0.1秒長くなることになる。逆に、日の出と日暮れ時にちょっと座って休んでみれば昼の時間が1秒ほども短くなる。こんな風に、私たちは秒単位で昼間の時間を長くしたり短くしたりすることができるのである。

 だから、毎日が忙しくて時間が経つのがとても速く感じるときには、例えば高めのハイヒールを履いて、日暮れを0.1秒遅くしてみたり、…あるいは、なんだか疲れて一日がとても長く感じるときには、ベンチに腰掛けて日暮れを少しだけ早めてみるのも楽しいかもしれない。そんなテクニックを使わないにしても、こんな時間を操作するテクニックを知っていれば、日の出や日暮れが楽しく感じられるかもしれないし。

「一日」「新年」が始まる瞬間 

 『「ヨチヨチ歩き」は1秒遅く、「つま先立ち」で0.05秒早く』です。忙しい師走も日暮れと共に終わり、明日の夜明けで新年を迎えることになります。初日の出を迎える前に、一日の始まりを自由自在に変えるテクニックを知っておけば、結構楽しいかもしれません。
 あるいは、忙しい毎日を過ごしていて、いつも時間に追われているようであれば、やっぱりそんなテクニックを覚えておけばきっと損はないと思います。 …特に得することもないかもしれませんが。

2004-01-01[n年前へ]

「初日の出」と抜きつ抜かれつ 

実は、これから近くの山にスキーを背負って登って、初日の出を拝んで来ようと思っているのです。登るのは札幌市の藻岩山(531m)です。
コズミィ・カレンダーによりますと、(http://homepage1.nifty.com/cosmy/cosmycal/calcal_b.html)山頂での日の出は07:01、ゲレンデ下(173m?)での日の出は07:03とのことですから、2分以内に滑べり降りれば二度初日の出を拝めそうです。ぎりぎりですねー。せっかく時間をかけて登るので、もったいなくてできないですけれど…

 もし、いつか「初日の出」とスキーで競争したら、滑ってる間に朝日に抜きつ抜かれつ、何度も何度も初日の出を眺めることになりそうですね。太陽が稜線から上がってきたり、精一杯滑ってその太陽を稜線の下に戻してみたり、そんな-「初日の出」と抜きつ抜かれつ-するなんてとてつもなく面白そうです。そういったことは案外とたくさんあるかもしれませんね。

2005-12-14[n年前へ]

下丸子/多摩川 

 ここ何年かの間でも、ここまで締め切りに追われ続けることはなかったような、今日この頃。今日見た景色は、下丸子の多摩川沿い。

 そういえば、今日はいくつか面白いことがあった。その面白いことの一つは、fj時代に一世を風靡した人の一人を見かけたことだ。昼過ぎにエレベータに乗りこんで、ふと目の前のいる人の名札を見ていたら…なんと「voidさんか、この人か」という方の名前だった。あぁ、この目の前にいる人があの方だったのか…。もしもこの方のサインがPCを刻むことができたなら、きっと機関銃のような速さと攻撃力で「色んなお言葉」をキータイプすることができそうだ。…ということが、大学時代に見ていたfjを思い出して、何だか感動した今日の出来事の一つ。

下丸子/多摩川下丸子/多摩川下丸子/多摩川下丸子/多摩川








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