hirax.net::Keywords::「昭和」のブログ



2010-01-02[n年前へ]

ことを見つめるのは人である。 

 最近、「鳥」について書くことが多かった。「ドナドナ」の歌詞中に登場する燕や、サイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」のスズメや、あるいは、北村薫「鷺と雪 」のサギなど、不思議に、鳥についての話をタイプすることが多かったような気がする。ーそういう一見偶然に見えることというのは、実際のところよくあることだと思う。なぜなら、それは本当のところは偶然でなくて、必然のことだからではないか、と思うからだ。直接の因果関係はなくとも、それらは同じようなものだと思うからだ。

 (チャップリンの映画をひいた)「街の灯 (文春文庫) 」に始まり、「鷺と雪」に終わる北村薫が書いた三冊は、五・一五事件を背景にする年に始まり、二・二六事件のその日のある「一瞬」で頁が閉じられる小説である。

 第1作目の「街の灯」は、9.11のちょうど次の年9月、2002年9月に発表されたもので、つまり、「イラク戦争」が開始される前の年に書かれたものである。そして、イラク戦争が続く2005年から2006年にかけて書かれた、第2作目の「玻璃の天 (文春文庫) 」中の言葉が次の言葉である。

「…今日のお話はいかがでしたか」
「思想的というより、いささか感情的なものに思えました。わたくしは、もう少し、数字などを挙げ、納得させてくれるものー日本の現状改善に、具体的な手掛かりを与えてくれるものを期待していました」
 今現在の瞬間のメディアをみた後の感想だと言われても、何の違和感もないフレイズだ。

 直木賞受賞をきっかけとしたインタビューで、インタビュアの次のような問いかけに対して、

 今日の晩ご飯も明日の仕事も大切だけど、うかうかしてると、国そのものが取り返しのつかない方向へ進んでしまい、そこに巻き込まれてしまう、と。
北村薫が答えた内容は、次の通りである。
 私たちは普通に、日々、日常生活を続けていると思っています。でも、いつものように道の曲がり角を曲がってみたら、とんでもないことが起きていた、なんてことがあるように。案外知らず知らずのうちに、歴史の大事件に巻き込まれていたということは、いつでも起こりうるものだと思うんです。現在だって、国を揺るがすような大事件の曲がり角を曲がっている最中で、何ヶ月も経った後に始めてそのことに気がつく、という事態だってありえますから。

 北村薫「鷺と雪」のたくさんの参考文献の最後に、ただ一文のあとがきのように書かれた一段、を書き写してみる。

 ことを見つめるのは人である。これらの様々な出来事の中に、登場人物たちはいた。
 これらの小説群を、昭和初期の物語とだけ読むのは「間違い」である。

2010-01-08[n年前へ]

”今”を生きる私たちに向けて発せられた「ひとこと」 

 ほとんどすべての本で、単行本と文庫版の間には、あとがきの部分に大きな違いがある。単行本ではあとがきがないが文庫版ではある、というものも多い。また、その逆に、単行本では長い解説がついていたりすることもある。だから、単行本と文庫本の両方を読んでみると、新鮮に感じることがある。

 北村薫の「街の灯 (単行本) 」には、田中博による、「北村薫論」と「北村薫スペシャル・インタビュー」が掲載されている。このスペシャル・インタビューが、良い。

(昭和初期を舞台とした「リセット 」「街の灯」に関して)
北村薫:その時代の人には結局、”今”は見えないもんだなと。われわれの時代にしても、五十年経って、どう評価されるのかなんて分かりませんよね。どんなに頭のいい人でも”今”っていうことは評価はできないだろう。それなら、別のかたちで”今”を書いてみたらどうかという気持ちもありますね。
(「街の灯」の続編はあるのですか?という問いに対して)
 一応、予定として、この人はこうなるというのは、ぼやっとは浮かんでいるんですがね。一番最後の場面、ベッキーさんの言う台詞もわかっています。
 シリーズ最後の「鷺と雪 」で、ベッキーさん(別宮さん)は登場人物2人に、それぞれある「ひとこと」を言う。一人は、その言葉を聴き「護符をいただいたかのような表情で、そっと頷き」、もう一人は、「この言葉を胸に刻んでおこう」と思う。

 これらの小説は、昭和初期という舞台上に、”今”という瞬間が描かれている。だから、小説に登場する登場人物たちは、”今”を生きる私たち自身である。

 この、”今”を生きる私たちに向けて発せられた「ひとこと」に、少しばかり、目を通してみるのも良いと思う。

2010-03-24[n年前へ]

「贈る言葉」 

昭和の中頃を描いた、西岸良平の「三丁目の夕日」は、もうずっと昔の物語なのだろう、と読む人は誰しも思うのではないだろうか。それなら、「3年B組金八先生」はどうだろう。それも、やはり、昭和の中頃を描いたずっと昔の物語なのだろうか。

 1979年の10月26日から、翌年の春先までの期間、半年にも満たない期間に放映されたのが「3年B組金八先生」だ(第1シリーズ)。その短い期間に、どれだけ密度の高いものが詰まっているように感じたろうか。どれだけの気持ちを感じたろうか。

 「我々もまた、次の世代、そのまた次の世代のために、何か人間が幸せになれるようなことを残さなければならない責任があるのです。そのために諸君は今、受験勉強をやっているわけです。もし東大に入って大蔵省の官僚になれる人がいたら、人間の本当の幸せのために1万円でも多く予算をぶんどってきなさい。大工さんになる者は家族たちの笑い声がいつも絶えないような、そんな素晴らしい家を作ってください。(中略)そしてこの川の流れ込んだ海の向こうでは、受験戦争どころか本当の戦争で傷つき、肉親を失い、食べ物すらない、そんな少年少女たちがいることをお前たちは忘れるな。

3年B組金八先生 第1シリーズ 「第十六話」

 ふと…考える。もう、ずっと昔に「3年B組金八先生」は、前世紀の古い物語になってしまっていたのかもしれない。21世紀になって、すでに十年以上が経っている。時代が「平成」という名前になってから、すでに二十年以上過ぎている。あんな「贈る言葉」を、もう古く感じる時代になっているのだろうか。

 戦後が一段落して、これからバブルが来るっていう第2シリーズの頃が、一番いい時代だったのかもしれないね。

「”≠腐ったミカン”加藤優」を演じた「直江喜一」

2010-06-15[n年前へ]

1984年頃の秋葉原マップ 

 秋葉原に行く時、ラジオデパートには必ず寄る。何を買うわけでなくとも、秋葉原に初めて行った時のワクワク感に浸りたくて、いつも寄る。表口から入った時には、いつも裏口から金属製のドアを開けて通りへ抜ける抜ける。あるいは、裏通りからラジオでパートに行く時には、自販機とゴミ箱の横にある裏口のドアを開けて、ラジオデパートに入る。それが、何というか、あの場所を通る時の儀式になっているような気がする。

 今日見る景色は、1984年頃の秋葉原マップ。記憶の底に眠っている店がどの場所にあって、どんな名前で店を開いていたか…眺めてみれば、切なくも懐かしい気持ちに襲われるかもしれません。

2013-07-04[n年前へ]

1月・2月・3月の高出生率のヒミツ!? 

 1899年から2000年までの月別出生率を見ると、昭和20年くらいまで、1月・2月・3月の出生率が高いことに驚きます。下のグラフが、その「1899年から2000年までの月別出生率」ですが、「1月・2月・3月の出生率が他の月の1.5倍くらい高い」「一番出生率が少ない6月と比べると2倍ほど高い」という具合になっています。これは、一体なぜなのでしょうか。

 「農作業を行う貴重な労働力を無駄にしないために、農作業オフシーズンの時期に出産をするように計画出産をした」とか「(出産の約9ヶ月前にあたる)春という季節は恋と愛の季節だ」とか…色々な理由が考えられそうですが、このデータやはり何だかとても不思議でミステリアスです。

 たとえば、1・2・3月以外の出生率は、長い間(それほど)変わっていないにも関わらず、1・2・3月に限っては、1905年あたりから急に上昇しています。都会で働く職業の人たちが増えたこの時期、そんな風に急激な変化があると、何かの制度とかシステムとか…そんな変化があったのだろうか?と想像したくもなったりします。

 …この理由は、一体どんなことなのでしょうか。その時代は、どういった変化があった時代だったのでしょうか。


参考:南半球のパラグアイの月別出生数



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