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2007-11-24[n年前へ]

海辺 

 上半身はウィンドブレーカーで、下半身はショートパンツでも、風を気持ち良く感じるくらい暖かい。そんな、晩秋の海辺。n年前の景色を見ながら、こんな文章を思い出す。

 さて、大正の末から昭和二十年代まで活躍した木版画家に川瀬巴水という人がある。

 巴水のもっとも得意としたものは、暗く清澄な景色で、とりわけて夕焼けの風景を描いたものに、誰が見ても傑作という作物が集中している。

 彼の夕暮れには、独特の寂しさが横溢していて、どこか人恋しい感じも漂っている。画中小さく描かれる人物はたいて後ろ向きで黙然と遠くを眺めてい、私どもはその画中の人物となって等しく日本の寂しい夕景を眺めつくす。

林 望「夕映えの渚にて」トランヴェール 2007,11

海辺海辺海辺海辺海辺海辺海辺






2008-02-25[n年前へ]

「ゴールデン/デッド・クロス」と「ナンシー版画」 

 株とか為替の売買のタイミングの指標である「ゴールデン・クロス」「デッド・クロス」というものを知った時に、対象ジャンルがどんなに違っていても、(専門的でない)基本的な技術はほとんど同じなのだな、と感じたのが「ナンシー版画アルゴリズム」を作った時後に、株や為替売買の指標となる「ゴールデン/デッド・クロス」を知った時だ。

 ゴールデン・クロスとデッド・クロスというのは、何かの価値の「短期的な平均」が「長期的な平均」よりも上になったら(ゴールデン・クロス)、その価値が「上昇中」と判断し、その価値の「短期的な平均」が「長期的な平均」より下になったら(デッド・クロス)、その価値は「下降中」だと判断するやり方である。たとえば、何かの株価の「25日間の平均値」が「75日間の平均値」を上回ったら、その変化はなにかのノイズや誤差でなく「株価が確かに上昇傾向にある」ことを示していると判断し、その株価の「25日間の平均値」が「75日間の平均値」を下回ったら、株価が確かに下がり始めていると判断する、そういったやり方である。言い換えれば、「25日間の平均値」と「75日間の平均値」、すなわち、「短期的な平均」と「長期的な平均」が交差した瞬間が、「上げ」と「下げ」の境界地点だと判断するやり方である。そういった株や為替の上下の境界線を長期平均と短期平均の差分から判断する方法が、「ゴールデン・クロス/デッド・クロス」だ。

 「ナンシー"小"関 風 パッチもん版画」作成ソフトの輪郭抽出アルゴリズムも、「ゴールデン・クロス/デッド・クロス」と完全に同じアルゴリズム(やり方)で作られている。実際のところ、このプログラムは10行に満たないほどの実にシンプルな「境界」検知プログラムに過ぎない。そして、その実現アルゴリズムは「狭い範囲で平均化した明るさ」が「広い範囲で平均化した明るさ」が等しくなる=交差する箇所がモノの「境界」だと判断するだけ、である。つまり、「ガウシアン差分」を行うことで顔や景色の境界線を描画した上で、さらに塗りつぶしを行うだけのアプリケーションが「ナンシー"小"関 風 パッチもん版画」作成ソフトである。

 株や為替の売買の判断も、目に見えている画像の認識・判断も完全に同一のアルゴリズムで判断することができたりする。それは、対象とする現象(のジャンル)は違えども、どちらも「境界線」「分水嶺」判断をするという同じ作業に過ぎないのだから、至極当たり前の話であるのかもしれない。…けれど、それはやはり少し面白い話であると思う。全然違うように思える事柄が、完全に同一の処理で解決することができたり、一つの道具で全く違う(ように見える)世界を描くことができたりするのは面白いと思う。

ゴールデンクロスとデッドクロス「ナンシー






2008-02-27[n年前へ]

「1bit変調」と「誤差拡散法」 

 「ゴールデン/デッド・クロス」と「ナンシー版画」と同じように、一見違う分野の技術に見えても、実は全く同じ仕組みで動いている技術のペア(対)はたくさんある。そんな技術ペアの一つが「ΔΣ変調」と「誤差拡散法」である。ΔΣ変調の方は「1bit変調」といったキャッチフレーズとともに、オーディオ機器のAD(アナログ→デジタル)・DA(デジタル→アナログ)変換において使われることが多く、誤差拡散法はアナログ画像をデジタルの離散階調(多くの場合1bit=2値)で表現する場合によく使われる技術である。どちらも、結局のところ、離散的に表現した結果の誤差を、「将来」にフィードバック(ズレの帳尻合わせ)をするだけである。そうすれば、ちゃんと帳尻が合う、という技術である。

 それは、変な例えかもしれないが、一日1200kcalのカロリー制限をしているのに、今日は「天丼詰め合わせの一杯(たとえば、1800kcal)」食べてしまったから、明日は絶食しよう、(そして、それとは逆に)必要カロリーがもしも足りなければ、次の日は天丼一杯食べよう…そういうことを続けていれば長期的には「必要カロリーと摂取カロリーの帳尻」はきちんと合うよね、というような仕組みだ。つまりは、「ただそれだけ」の仕組みである。

 と書きながら、「ただそれだけ」の単純なやり方だからこそ、色々な分野に応用が利くのかもしれない、と考えた。きっと、基本的なことは色んな応用ができる、ということなのだろう。たぶん、そういうことなのだろう。

ΔΣ変調誤差拡散法






2008-03-05[n年前へ]

「広重」と「ゴッホ」について書いたこと 

 いくつかのものを並べて眺めてみたり、あるいは、まとめて平均して眺めてみた時、ようやく浮かび上がり見えてくるものがある。たとえば、安藤広重の「名所江戸百景 大はし阿たけの夕立」とゴッホが描いた"Bridge in the Rain (after Hiroshige)"をを眺めてみれば、江戸とパリで時間と距離を隔てて描かれた、けれど不思議なくらい線が重なる景色が見えてくる。そう思う。

 広重とゴッホが描いた景色をモーフィングさせた時、その景色を眺めたとき、そのモーフィング画像の中に一体何が見えるだろうか。色の違いだろうか。それとも橋の設計の違いだろうか、それとも、歩く人の気配だろうか。顔料を通して見えてくる静謐感や躍動感だろうか。

 並べて眺めることで、初めて見えてくるものの一つが「立体感」だ。ゴッホ(など)の絵画などの絵画を並べて眺めることで、立体的にゴッホが眺めた景色を私たちも見ることができたり、する。不思議なくらい、立体的に見えてきたりする。

 広重「名所江戸百景」を3Dで再現しようという、"CG"名所江戸百景を眺めてみたり、114年前にゴッホが眺めた満月を眺めみるたび、とても不思議な気持ちになる。何しろ、空間や時間を、まるで透明人間のように、自由に行き来できるように(自分が眺めることができない、けれど、他の誰かが眺めている)景色を眺めることができるのだから。

 「左下」の画像は広重の東海道五十三次の中の「由井」で、「右下」が「由比」でいつの日かに見た景色だ。長い年月を隔ててはいるけれど、多分、ほとんど同じような場所で眺めた同じような景色だ。たぶん、コンピュータで相対的な色ヒストグラムで解析でもすれば、きっと同じような景色に見える。けれど、人が眺めたら、全然違う時代の景色に見える。地形は同じだけれど、自体は全然違う景色に見える、きっと、そんな写真だと思う。
東海道五十三次今日

 静岡県 由比にある「東海道広重美術館」の入り口には「版画体験コーナー」がある。「広重の東海道五十三次の「由比」を青・赤・黒の三色の版画で再現し、三色重ね刷りすることで、浮世絵の版画(世界初のカラー印刷技術)を体験しよう」というものだ。
 色毎の位置合わせは、手でやるにせよ、機械がやるにせよ、とても難しいことだから、(色あわせに祖失敗した)「見当違い」の版画になってしうことも多い。少なくとも、私はそんな見当違いの版画を作ってしまった。けれど、そんな風に版画を作る体験はとても楽しかった。

 カラープリンタが割に一般的になった現在、プリントゴッコで浮世絵を作ったりするのも新鮮で良いと思う。消しゴム版画で浮世絵を作ったりするのも、とても面白いと思う。
一色刷二色刷完成






2008-03-21[n年前へ]

「ちりとてちん」と「地獄八景亡者の戯れ」と「自己言及パラドクス」 

 NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」がもうすぐ終わる。エンディングに近づきつつある「ちりとてちん」では、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」を演じる音声が、画面の後ろに流れているシーンも多い。

 もともとこの話は、その時その時の事件や世相流行などをとり入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。

 森下伸也の「逆説思考」~自分の「頭」をどう疑うか~(光文社新書)を読んでいると、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」における、自己言及的パラドックスが挙げられていた。

 このはなしの一応の原典と見てよいものは江戸時代の小咄本にありますが、各地の民話にもあり、また欧州の民話にもあるそうで、…本当の原典は従ってよく判らないというのが答えと言えましょう。

 森下伸也「逆説思考」で挙げられている「地獄八景亡者の戯れ」での自己言及的パラドックス一つは、三代目桂米朝のものであ り、もう一つは桂文珍のものである。ちなみに、桂米朝のものはこんな感じの「地獄八景」である。

  冥土の歓楽街に、亡くなった過去の名人の名前が豪華に並んでいる。よく見ると、そこに「桂米朝」の名前もなぜかある。
「そないな名の亡くなった落語家いてへんやろ?」
「よう見て下さい。”近日来演”って張り紙してありまっせ」
「なるほど、本人はそれも知らんと落語でもしてるんですやろな」

  桂米朝 「地獄八景亡者の戯れ」

 もうひとつ挙げられている桂文珍のものは、閻魔の前で特技の落語として「地獄八景亡者の戯れ」を披露し始めると、その話の中でさらに、「地獄八景亡者の戯れ」が展開されて…というM.C.エッシャー描く版画のような、「地獄八景」である。

 それにしても、ドラマ「ちりとてちん」は面白い。あと、一週間で終わってしまうのが残念だけれど、本当に旨く美味しい「半年間ほどの短編ドラマ」だと思う。一見長く見えるけれど、短いショート・ショートの連作のような、実はそれが繋がっている一つの短編小説のような、そんな素敵な作りだ。

 その内に、これを十八番の持ちネタとして新しい「地獄八景」を作ってくれる人が出てくることでしょう。

 何ヶ月かすると、このドラマのことも忘れてしまうかもしれない。けれど、何かの折に受ける印象・する選択に、どこかで影響を与えたりしてくれたら良いな、と思う。



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