2004-05-07[n年前へ]
2004-06-16[n年前へ]
■ルーツ
誰もが一回はおれカネゴン文体の模倣をする【すでに何度もおれカネゴン】。その【〜おれカネゴン】の始まりについて、今日のおれカネゴンの「算数記」で触れられてる。そこで、ふとその原始時代、「あけてくれ創世日記」や、同じ頃の過去の恥部を眺めると、誰もが(良くも悪くも)文章が老いてきているんだなぁ、としみじみ思う。ほんの数年のはずだけれども、そんな数年でも書いてる内容が結構枯れてきてしまっているような。書いてる文体がこなれてきてしまっているような。
逆に言ってしまえば、昔の恥部文章なんかに似た文章を見かけると、「若い文章だなぁ」と思ってしまっているのかも。
そして、さらに逆に言ってしまえば、その「若い文章だなぁ」と思っている「日記・ブログ」の書き手も数年経つと枯れた「何か」を書いてるのだろう。もちろん、そんな「元」書き手達が何も書いていなくなっている可能性が一番高いのかもしれないけれど。
2004-10-12[n年前へ]
■ネットにおける一人称を考えてみる
「ネットで主に使われていると思われる一人称の代名詞とそれに伴う個人的な見解」from あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんの気にし過ぎとや」日記
2005-01-02[n年前へ]
■「自分を単純作業の機械にする」文化
void GraphicWizardsLair( void ); //の「PublishingSoftware 講談社はLightWayTextとInDesignで組版」から
「自分を単純作業の機械にする」という文化に激しく抵抗感があった。デザイン系の人は、手や指で反復作業をすることにあまり苦痛が無い人が多いのかも。デザイン系だけでなく、師弟伝承「ものつくり文化」はこの単純作業スパイラルに陥いりやすい。それが、特別に訓練が必要な作業であればともかくも、とりたてて特別なところのない(あるいは比較的容易な)単純作業の繰り返しに対してこの「単純作業スパイラル」が向けられることも多い。恐ろしいのは、教える側も教えられる側も、この「自分を単純作業の機械にする」という文化に心酔(あるいは他の文化を知らないのだろうか)していることが多いことだ。人間はロボットじゃないのになぁ…。
下記のリンクは、「ドラえもん〜ロボットらしく、ロボットらしくなく」「ロボットは安心を創造するか」「人を楽にする作業」です。
2005-02-11[n年前へ]
■「四捨五入と五捨五入」
おれカネゴン「算数記」経由で「日記における四捨五入」を読んでみる。「自分の中の何かを四捨五入して、切り捨ててみたり・切り上げてみたり、そういう感覚はあるかもね」なんて考えながら、ふと、心に思い浮かぶのは四捨五入ではなくて、五捨五入(JIS Z 8401 特にiii項)(ISO31-0)。
自分の中の何かだったり、自分自身が、四捨五入される感覚というのはありがちなものだと思う。今時の季節であれば、もしかしたら受験生なんかはそんな感覚を持つことも多いかもしれない。四と五ではほんの一つしか違わないのに、四捨五入後には大違いになるのだから、自分の力が四以下にならないように、なんとか五以上までがんばって上げないと…なんて思ったりしたことがある人も多いかもしれない。捨てられるか捨てられないかの瀬戸際で、自分自身の桁の数値を大きくしてみようか、なんて思ったことがある人もいるかもしれない。
四捨五入では、「どこかの桁」が切り捨てられるか切り上げられるかは、その桁自身の値の大小で決まる。ところが、五捨五入だと(もちろん、この方法を使う必然性があるわけだけれども)その桁を切り捨てるか・切り上げるかは、(その桁ではなくて)その上の桁が偶数か奇数かで決めてしまう。つまりは、自分が切り捨てられるか切り上げられるかの運命決定権は自分の上の桁が持っていて、その桁がサイコロを適当に振って自分の行く末を決めてしまう。「自分を四捨五入する」と「自分が五捨五入される」のと、どちらがありがちなのかはわからないけれど、どちらもよくありそうな話だ。
「日記における四捨五入」の話に戻るなら、「四捨五入は必ずプラス側に誤差を生じる」という言葉を、この場合にはポジティブに眺めてみるのも、それはそれで良いのかもしれない。今回のような話題であれば、そういったこともあるかもしれないから。「四捨五入で必ずプラス側にシフトする」といったようなことが、少しはあるかもしれないから。
(ところで、こんな話題を書こうとする時、いつも「おれカネゴン文体」霊に憑依されそうになるのは一体何故なのだろう【人は誰しもおれカネゴン】)