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2005-09-11[n年前へ]

「経済学とはどういう学問ですか?」 

 Tech総研ブログに「経済学とはどういう学問ですか?」を書きました。
 そうえいば、おれカネゴン先生が「統計学」の本を書いたらさぞ人間くさい数学本ができるのだろう、と先日ふと思いました。もし、できれば【おれカネゴン】文体だったりしたら、最高に人間くさく崇高!?なものができるハズです。

2006-04-06[n年前へ]

MMR「キバヤシ隊長のモデル」と「都立高校の学生」 

 あけてくれ-おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記経由で、「都立校の統計学」を読む。

逃亡学生の追跡に明け暮れる教授生活を○年間重ねるうちに、私はひとつの統計学的事実に到達した。すなわち、逃げるヤツはほとんどすべて都立校出身の学生だということだ。
偉愚庵亭憮録: 都立校の統計学 出身高校を訊かれるとき、「都立武蔵です」と答えたものだ。「へぇ〜」と驚かれることが多かったが、もちろんその「へぇ〜」はお門違いなのである。そこで、いつも私(たち)は「いえ"私立"武蔵ではなくて"都立"武蔵なんです。優秀な私立武蔵高校じゃない方の、同名だけれど無名な方の都立武蔵高校なんです…」
 一回りしたエリート意識。あるいは夢を喪失した人間の韜晦だろうか?たかだか90分の授業時間を我慢して座っていられない生来の懶惰。そのくせ、出席だけは確保しておこうとする小ずるさ。敵前逃亡を卑怯と考えず、痛快事であるかのごとくに装う腹黒さ。
東京都立武蔵高等学校 - Wikipedia まさにこんな感じだったような気がする。色々大人のように主張するくせに、朝礼で並ぶのに20分はかかる小学生以下だ。授業はできる限り抜け出し、外を散歩したりする。けれど、最低限の卒業単位数だけは確保する。お酒はいつも飲む、けれど、教師の顔が利く警察の管轄だけを通ろうとする…。

OOエンジニアの輪! 〜 第 21 回 川合史朗 さんの巻 〜 先日、そんな都立武蔵高校が中高一貫になる、と同窓の川合史朗さんから聞いた。すでに、校舎も私のいたころのものではない。生徒はもちろん全員学校を出て行き、教員もすでに変わってしまっていることだろう。あの雰囲気は少し弱く変わっているのだろうか、それとももっと強くなっているのだろうか。

 Wikipediaの都立武蔵高校の項を眺めると、著名な卒業生たちが載っている。MMRの主人公「キバヤシ隊長」のモデルとなった漫画原作者・小説家の亜樹 直も卒業生の一人だ。あぁ、確かにそういう感じの雰囲気だ。
  結局、いつも都立出身の、惰弱な人々が集まる内弁慶なテーブルに身を寄せてきたわけです。 なぜでしょうね。 この謎は、簡単には解けそうもないな。
Title キバヤシ隊長ならその謎を解いてくれるだろうか。私のほんの少し先輩だったキバヤシなら、「なんてことだ!」「そうか!」「そういうことだったのか!」「そうだんだー!」とその謎を解いてくれるのだろうか。それとも、人生の謎として、せっかくのミステリは自分自身で考えてみる方が面白いのだろうか。

2006-11-06[n年前へ]

小島寛之「算数の発想」 

 小島寛之の「算数の発想」を読んだ。あくまで、本書のタイトルは「数学の発想」でなく、「算数の発想」だ。その「数学」と「算数」の違いこそが、この本の「言いたいこと」である。

 …無理を承知で、この本の印象をひとことで書いてしまえば、それは「カオス」だ。「はじめに」を引用するなら、まな板の上にあげられる題材は「物理学・経済学・数学・ゲーム理論・統計学…」であるという。それらは、実にバラバラな分野に見える。しかも、「フィクション・作り話」と絡めて、その分野は数学や国語や人生の哲学に話が広がっていく。その話の跳び具合を堪えられない人もいるだろう。けれど、その跳ね具合の中に「繋がり・方向性」を感じる人には、実に面白い本だと思う。

 序章の中盤はこのように書かれ、

算数の「なんとか算」のような問題、つまり、つるカメ算、旅人算…などは中学の数学になると、方程式によってすべて統一的に解けてしまう。
これは格好良く言うと、「個別性」から「普遍性」へ関心領域の転換が起こったということである。
そして、その序章はこんな風に終る。
算数の発想は、日常生活や人間関係や人生の経験の中からやってくるさまざまなものの見方を集積したものである。
数学の持つ「普遍的な操作性」は、思考や時間の節約という「効率性」あるいは、考え落としや飛躍のない「厳密性」を与えるかもしれないが、世の中を眺める楽しみを育むのは、むしろ算数の「個別的な思考」のほうだといっていい。
あけてくれ - おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記 ところで、この本を読みながら、算数も数学もどちらも同じように苦手な私が、ふと思い浮かべていたのは、おれカネゴンの「算数できんのやっぱり気にしすぎとや」日記2006年11月05日(日)分
個別のノウハウをおろおろと個別に実行することしかできず、生活のためにしなければならないことをさっぱり一般化できない
という一文を含む、「個別」や「一般化」を題材に挙げた一連の日記だった。

2008-03-20[n年前へ]

「町の甍の乱反射」と「乱反射する友人」 

 日が傾いた時刻に、波立った水面を眺めると、水の上に輝く道が見える。川面・海面・湖面に太陽が足元から陽の方向へ、一直線につながって見える。そんなことを『「海面に写る太陽」の不思議』で書いた。その後、住宅街を見下ろしても、やはり、そういう「道」が見えた、という話を読んだ。

 丘に上がってみると、眼下の住宅街の屋根の群れが細長く光っていた。海で日没を見る時のように太陽から道が伸びて見えている。

   「甍の波と

 日が傾き始めた頃、高台に上って町を眺めてみた。すると、住宅街の屋根で日の光が乱反射し輝いている。その輝きは、住宅街の向こうにある河口の上、そしてさらに、海の先まで続いている。屋根の傾きに傾向はありつつも、やはりさまざまな方向を向いていて、いろいろな方向を向いた屋根が太陽の光を色んな方向に光を跳ね返している。あぁ、確かに、海も河口も町の景色も、みんな同じように乱反射した光を返している。

 そういえば、『黄金の日日』や『落日燃ゆ』などを書いた城山三郎は「乱反射」というものが好きだった。城山三郎のいくつかの随筆を読むと、自分が思うことをそのまま写し返す鏡のようなものでなく、乱反射するものの方を好ましいものだと何度も書いている。

 考え方も色々なことを言ってくれて、乱反射する友人とでもいいますかね。

   城山三郎
 住宅街の屋根や水や風が作る乱反射面を見ていると、ふとそんな言葉を思い出す。そして、屋根の向きは、やはり南北向きが多いのだろうか、とか些細なけれど生活に密着しているはずのことに想像を巡らせてみたくなる。

 これまで特に意識することもなく眺めていた町の景色、光る屋根の瓦にも、きらめく水の小波にも、光学や統計学といったものが、その姿を見え隠れさせながら、幕の内弁当のように箱にギッシリ詰められている。

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2008-04-23[n年前へ]

「統計はビキニ水着」で「説明文は(ミニ)スカート」の法則 

 説明文の長さに関し、実に的確なアドバイスの一つが「説明文は(ミニ)スカートだ」という言葉だと思う。

Sentence length is like a girl's skirt: the shorter the better, but it should cover the most important parts.
 (文の長さは女性のミニ・スカートのようなもので、短ければ短いほど良い。しかし、最も大切な部分はカバーしていなければならない)

 ミシガン・メソッド(ミシガン大学で開発された言語教習の流儀)から広まった伝えられているこの言葉は、まさに必要十分な「長さ」の「説明文」である。


 この「説明文は(ミニ)スカートだ」という言葉と良く似た表現を使って、「統計」というものをこれまた上手く現したものがある。それはこんな言葉だ。

“Statistics are like a bikini. What they reveal is suggestive, but what they conceal is vital.”
(統計というものは、女性のビキニ水着と同じだ。実に思わせぶりで意味ありげな魅力的なものがさらけ出されているがように見える。しかし、肝心な部分は隠されている)

  Aaron Levenstein

 しかし、考えてみればこの「統計はビキニ水着」「説明文は(ミニ)スカート」といった表現は、結構何にでも使うことができるものかもしれない。
 「必要十分」が望ましいものに対しては、それがどんなものであっても「○×は(ミニ)スカートだ。長すぎても短すぎてもダメだ」と言うことができるだろう。
 また、多くの商品・技術…つまりはほとんど全てのものが「○×はビキニ水着のようなものだ。…」という風に言うことができそうだ。たとえば、"Ruby on Railsはビキニ水着のようなものだ、なぜなら…" "ダイナミックリコンフィギュアラブル技術はビキニ水着のようなものだ、なぜなら…"という具合である。
 実は、「ビキニ水着」でないものの方が少なかったりするのかもしれない。

「説明は(ミニ)スカート」ビキニ水着








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