hirax.net::Keywords::「荘子」のブログ



2004-02-15[n年前へ]

井の中の蛙大海を知らず、しかし空の蒼さを知る 

井の中の蛙大海を知らず

秋水編 荘子
しかし空の蒼さを知る

詠み人知らず
 「新撰組」を観ていると、「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」というような一節が出ていた。荘子「秋水編」の有名な一節に誰かが「されど空の高さを知る」あるいは「されど天の高さを知る」という一節を付け足したもののようだ。

林の中から空を見る 少し検索などをしてみると、「井の中の蛙大海を知らず、しかし空の蒼さを知る」というものもあった。この付け足された部分の原型がどういうものであるのか、あるいはどういう経緯で生まれてきたものなのかは判らないけれど、「井の中の蛙大海を知らず、しかし空の蒼さを知る」なら良いかもしれない。「天の高さ」でなくて、「空の蒼さ」ならもっと良いように思われる。

 確かに、井の中の蛙には「天の高さ」は判らないに違いないことだろう。人の遙か上にある「天」の高さは確かに判らないかもしれない。その「天の蒼さ」だってきっと判らないに違いない。

 けれど、井戸の「穴」を通じて自分の上に見える「空の青さ」ならよく知ることができることだろう。井戸の中から空を見上げれてみれば、昔なら昼間でも星を見ることができたように、井戸の中からだからこそ「空の蒼さ」を誰よりも知ることだってできるかもしれない。空しか見ることのできない井の中の蛙だからこそ、憧憬とともにその「空の蒼さ」を心に刻むことだってあるかもしれない。

2004-05-17[n年前へ]

バッドノウハウカンファレンス発表資料とレポート 

 バッドノウハウカンファレンス 2004 発表資料とレポートが揃いつつある。私自身の感想は2004年05月14日に追記していくことにして、(おそらく色々差し替えられるだろう伊藤直也氏の資料も含め)発表資料を眺めながら記憶を辿っていると、荘子の「古人の糟粕」という言葉を痛感する。さまざまなところで、「雰囲気は言葉では伝えづらい」と書いてあるのを見かけたが、確かに私もそう書いてしまいたくなる。

2004-08-16[n年前へ]

「理系」と「才能」と「役に立つ」ということ 

 今日頂いたメール。

「数学は役に立つか?」「理系と文系どっちが得か?」という質問自体があまり理系の人々の中では出てこない発想かも、と思います。自分にとって「面白い」か「否」か、「好き」か「どうでもいい」か、という軸で行動している理系な人々なら、よく見かけるかもしれません。
 そして、メールの書き手はさらに「不材を以ってその天年を終うるを得る」という荘子の話が「好き」だと書く。
建築の材料には使えない曲がりくねっている木そんな役立たずの木は、切られることがなく天寿を全うする。立派でまっすぐで、いかにも役に立つ木は、生長したところでばっさり切られてしまう。なまじ才能をひけらかしていると、天寿を全うできない。

2005-02-12[n年前へ]

荘子 meets NEET 

 今の日本は荘子が説いた社会のよう from 日記ちょう

この間中国から来た留学生に、印象深い感想を聞きました。「日本の若者は素晴らしい。 金のために生きていないし、 勉強しようとも思っていない。 みんな自分が一体何者か、 自分は何になりたいか、 何をしたいかだけを考えている。 これはまるで荘子のようだ」    三浦 展

2009-11-17[n年前へ]

「朝三暮四」と「不確実な将来」 

 「朝三暮四」をYahoo!辞書の大辞泉で眺めると、

(中国、宋の狙公(そこう)が、飼っている猿にトチの実を与えるのに、朝に三つ、暮れに四つやると言うと猿が少ないと怒ったため、朝に四つ、暮れに三つやると言うと、たいそう喜んだという「荘子」斉物論などに見える故事から)
1.目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないこと。また、うまい言葉や方法で人をだますこと。朝四暮三。
2.生計。くらし。
とある。ある時期から、この故事を思い出すたびに、妙にここで書かれている内容が気になるようになった。

 トチの実を「お金」というものに例え直して考え始めると、特にその内容に対する好奇心が強まってきたのである。なぜなら、「朝に三つ、暮れに四つやる」と「朝に四つ、暮れに三つやる」では、将来がどう変わるか次第で、全然内容が違うのではないだろうか。

 もしかしたら、夕暮れ時には朝とはトチの実の価値が全然違うかもしれない。朝の時点ではトチの実に価値があったとしても、その数時間の後には、(宿題ひきうけ株式会社のそろばん技術やカイコと同じように)トチの実のデフレーションが激しく進み、夕暮れ時にもらうトチの実には何の価値もないかもしれない。

 もちろん、その逆のパターンもあるだろう。夕暮れ時のトチの実の価値が非常に高まっている、という場合である。…けれど、私たちは将来のことはわからない。楽観的に将来を眺めることができる人もいれば、そうでない人もいる。将来を悲観的に考えて、トチの実4つをもらうなら、その価値がわかっている朝に先に欲しい、と思うことは自然な感じ方のようにも思われる。単純に「非合理的」と断言できるたとえ話ではないようにも、思われる。

 朝三暮四、生計・くらしを営んでいく中で、私たちは、どういう選択をするものなのだろう。猿である私たちは、一体どういう選択をすべきなのだろうか。そういうことが、よくわからないまま、毎日は続く。



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