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2010-04-05[n年前へ]

恋愛の場において、女の人は狩猟型と農耕型に分けられる。 

 角田光代の「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 」から。

 恋愛の場において、女の人は狩猟型と農耕型に分けられる。これはもう、本当にきれいさっぱり分けられる。
 私は後者である。
 私の長年のともに、完璧な狩猟型がいて、(中略)農耕民族への移行を誘ってみた。そのほうが絶対に成功率が高い、と説得し、農耕型の距離の縮め方を伝授したのである。
 それすなわち。絶対に自分から告白しない。行為の欠片も見せない。彼の参加する飲み会には必ず赴く。自分の参加する飲み会にも必ず誘う(だれかに誘ってもらう)。飲み会ではあくまでさりげなく隣の席を陣取る。相手の話をよく聞く。すごいと褒めつつ好みを分析する。自分にも共通趣味があるとあくまでさりげなく強調する。

2010-04-07[n年前へ]

向田邦子の小説から滴る、かなしみ、滑稽さ、懸命さ、やるせなさ。 

 角田光代の「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 」から。

 たしかに、向田邦子の小説はよく切れる包丁のようではある。けれど、その切り口のなんと痛々しいことか。切り口から滴る、かなしみ、滑稽さ、懸命さ、やるせなさ。

 久世光彦の「美の死―ぼくの感傷的読書」から(最も失敗した作品の中で・・・)。

 <<向田邦子は、小説のなかで、虚構をかりてありのままの自己を語ろうとしたが、それは不可能、すくなくとも非常に困難であることが、書きはじめてすぐにわかった。二十編ほどの小説の多くは、こざかしいだけで底の浅いものである。成功した作もあるが、それは自己を語ったものではない。むしろ向田邦子は、最も失敗した作のなかで血をしたたらせている。  (高島俊男 「メルヘン誕生―向田邦子をさがして」)>>

 慧眼である。

2010-04-10[n年前へ]

何気ない一言で、自分の経験と世界観は見えてしまう 

 角田光代の「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 」から。

 人が何かを語っているとき、それがどんなに真実っぽく聴こえたとしても、それはデータでしかない、ということだ。それがその人の経験なのだし、世界観なのだ。何気なく言った言葉で、自分のデータの質と量がばれてしまうことになる。

2010-05-05[n年前へ]

「世界観の変化」と「新製品の登場」 

 角田光代の「いつも旅のなか 」から。

 私たちの生まれ育った国で、変化を味わうのは至難の業(わざ)である。もちろん、コンピュータの普及とか携帯電話によるコミュニケーションの変化とか、そういったことは体感できるが、それは変化ではなくて、単なる新製品の登場である。何か世界観みたいなものが大きく変わる、揺らぐ、それを全身で理解するということは、おそらく七十年代以降、あり得ないというのが私の意見である。

はつ恋

 ウォークマンやケータイという新製品が登場したとき、それは、世界の見た目を大きく変えたような気がする。世界、それ自身を変えたのかどうかはわからないけれど、自分の世界の中にいるままで、街中を歩き、電車に乗ることができるようになった。その結果、たとえば電車の中であれば、それぞれの人の個別の世界が独立に存在することが、あからさまに見えるようになったように思う。

「世界観」はわからないが、「世界の見た目」はずいぶん変わった。「見た目」が変わるとき、「見る目=観」は一体変わらないでいられるものだろうか。

2010-07-03[n年前へ]

重要なのはパワーアップだと思う。 

 江國香織の「雨はコーラがのめない 」の中にこんな一節があった。旅に出るとき、必ず持っていきたい本というものがあって、江國香織角田光代の本は、バッグの中に必ず放り込んで持っていく。

 重要なのはパワーアップだと思う。年と共に技術をアップさせる人はたくさんいるけれど、パワーをアップさせられる人は少ない。
 江國香織の愛しているボーカリスト3人のうちの一人がスティングだという。そういえば、スティングが歌う"So Lonely"と、年を経てから歌う"So Lonely"を聴くと、そんな「パワー」を感じる。もっとも、この曲の場合は、「技術」も違っているように感じるけれど、それでも、異なる時に歌われた声を同時に聴くと、そんな「パワー」を感じる。

 旅をすることが好きな人は、江國香織と角田光代をネイティブに読むことができる幸せを、きっといつも感じているのではないか、と思う。それにしても、江國香織が書く文章は、 一見形にしようがない感情を、冷静な論理でこれ以上なく正確にスケッチしていて、その才能の重なりは奇跡としか言いようがないように思う。



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