2007-08-30[n年前へ]
■機械が生成するコトバ
風の吹くまま、気の向くままに、画像処理+Wikiプログラムを書く。今の風と気は、画像処理と高速化の方向に吹いている。画像を繋げる「画像Wiki」の部分は限られた人のコトバか、機械が生成するコトバに限定しよう。だから、明日の夜は、そんな「画像処理マクロ言語」を久しぶりに書いてみよう。
あちこち寄り道しながら歩いていても、しばらくして振り返るとそれなりの道になっていると信じて。
人生は気長な一筆書きだなぁ…。次の世界は…どんな感じなんでしょうね?
技術者の場合は、関係なんかいくら言ってもしょうがない。何か現実にある性能を発揮するものをつくって見せなきゃいけない。
次の点へと線を繋げていくと、いつの間にか一つの絵になっていく
2008-01-10[n年前へ]
■「ビジュアル言語」
グラフィカルな表現でプログラムを表現しようという「ビジュアル言語」の話を読んだ。この記事を読んで、ふと思い出したことがあった。
計測・制御などをする場合、National InstrumentsのLabVIEWや、CYBERNETのSimulinkといったツールを使うことが多いように思う。いずれも、(基本的には)アイコンをワイヤー(線)で結ぶ「ビジュアル言語」である。少し前の実験系の理系学生であれば、誰でも98BASICでGP-IBを操作するプログラムを書かざるをえなかったように思うけれど、現在では、そういった場合に使われるツール群がLabVIEWやSimulinkといった辺りに移行しているように感じる。LabVIEWやSimulinkをPC BOX上で動かして計測や制御を行った上で、さらにはFPGAやASICにしてしまう、ということもある。
こういった「ビジュアル言語」を触り始めたとき、苦手だったことの一つが、「どこから実行されるのかわからない」「どこから眺めて行けば・理解すれば良いのかわからない」ということだった。そして、しばらくそういうツールを使ってから、ようやく気づいたのが「どこからも実行されている」ことを理解していないとダメなんだな、ということだった。「あらゆる箇所で並列計算が行われている」と普通に思えばよいのだな、ということだった。
VHDLなどのハードウェア記述言語では、基本的に、すべての部分が同時に動作する。行番号順に実行されたりするわけではない。そういうことは回路図という「ビジュアル言語」を見たら当然のように理解できるかもしれないが、そういったことはVHDLを見ただけではわかりにくい。どうしても、上から順番に実行されるような感覚で読んでしまう。最初の頃には、そういう感覚でLabVIEWやSimulinkのダイアグラムを眺めていたので、「どこから実行されるのかわからなくてイヤ」と感じいてたように思う。
もう一つ、画像処理に「ビジュアル言語」が向くだろうか。私が素人だからかもしれないが、そうは思えない気がする。
2008-01-22[n年前へ]
■落語に「オチ」がある理由
サゲ(オチ)…というものは一種のぶちこわし作業なのです。さまざまのテクニックを使って本当らしく喋り、サゲでどんでん返しをくらわせて「これは嘘ですよ、おどけ話ですよ」という形をとるのが落語なのです。「落語の言語学」(野村雅昭 平凡社選書)を読み、一番新鮮に感じたのが「落語にはなぜオチがあるのか」という章だった。それまでに語られた話がストンと落ちて、その瞬間「語(かた)り」が実は「騙(かた)り」であることが明らかにされる「オチ(サゲ)」が存在しなければならない理由に、不思議に魅力を感じた。
三代目 桂米朝「落語と私」
「(落語の原名である)落とし噺」は本来おろかものや弱者の話である。おろかな言動や弱者ゆえの行為を、普通の人間が高所からながめることでワライが成立する。だから、そのままで終わったのでは後味が悪い。そこで、それがウソであったというタネアカシが必要となる。
野村雅昭 「落語の言語学」
2008-01-23[n年前へ]
■落語の「人情噺」にオチ(サゲ)がない理由
落語の原名である「落とし噺」に「オチ」がある一方、落語の「人情噺」は多くの場合、オチ(サゲ)がない。その理由を「落語の言語学」(野村雅昭 平凡社選書)はこう書く。
人情噺の終わりでは、(中略)聞き手はほっとする。それが全部作りごとだったとしても、聴衆はそれが事実であることを信じたいのであり、わざわざ種明かしされることを望みをしない。
NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」が、「立ち切れ線香」に入った。立ち切れ線香は人情噺だけれど、これ以上ないくらい悲しく、複雑であると同時に短く澄んだオチで、日常に戻る。
「わしの好きな唄、何で終いまで弾いてくれんのやろ?」「三味線弾かしません」言葉を、「芸者としてさまざまなものに縛られているから、三味線を(弾きたいけれど)弾けない」と聞いても良いし、日本語の「可能・受身・自発」は繋がっていて、決して分けることができない同一のものだ、とする聞き方もあるだろう。「線香が、立ち切りました」と繋がるというオチ、その関西弁を眺め直してみても、また深く感じることができる。たくさんの混じり合っているものを、味わいのもよい。
「もうなんぼ言うたかて、小糸、三味線弾かしません」
「何でやねん?」
「お仏壇の線香が、ちょうど立ち切りました」
2008-02-02[n年前へ]
■ビジュアル画像スクリプティング環境を作る
「ビジュアル簡易スクリプティング環境」を作ってみようと思う。画像処理プログラミングに「ビジュアル言語」が向くかどうかは疑問なのだけれど、既存の処理の「組み合わせ」だけを変えるだけですむような用途であれば、そして、GUIの設計も同時に行わなければいけないような用途であれば、「ビジュアルなスクリプト」でも良いような場合もあるかもしれない。
ひとまず、操作感はYahooPipesを模範にし、処理データはImagePipes>に準拠するようにして、叩き台を作ってみることにしよう。