2009-12-19[n年前へ]
■「知っている」ことと「できる」ことは全く違う
齋藤孝の「なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943) 」のあとがき、から。
できていないのに、「わかっている」と言い続ける人には、進歩がない。「知っている」ことと「できる」ことは、全く違うことだ。そのあいだには深い川が流れている。
2010-01-17[n年前へ]
■人間とは他人と自分の心の間の感覚器集合に過ぎない
石黒浩の「ロボットとは何か――人の心を映す鏡 (講談社現代新書) 」から。
「人間とは他人の心と自分の心にはさまれた感覚器の集合にすぎない」
見事なくらい、ロボット工学における試行錯誤を通じて、人間というものは何なのだろうか、ということを「単刀直入」に語る本である。どれだけ、「単刀直入」で「わかりやすい」かは、数頁本書をめくってみればすぐにわかると思う。
2010-01-19[n年前へ]
■悪用できない技術は偽物である
石黒浩の「ロボットとは何か――人の心を映す鏡 (講談社現代新書) 」から。
「悪用できない技術は偽物である」
これが私の持っている一つの基準だ。技術とは世の中を変える可能性があるものである。逆に世の中にまったく影響を与えない技術は、意味のない技術であって、技術とは呼べない。その技術の使い方次第で、悪いこともできれば、よいこともできる。
2010-01-31[n年前へ]
■自分で考えない力
小笠原喜康「新版 大学生のためのレポート・論文術 (講談社現代新書)」から。
日本は明治以来、近代教育と言う国民皆教育の時代に入った。(中略) この目的のために重要な学力は、「時間を守る道徳」と「自分で考えない力」の二つである。
戦後は、近代教育が社会に合わなくなってきた。学校は、70年代以降は急速にその力を失ってしまった。つまり時代に合わなくなっていった。「オイッチニー、オイッチニー」が通用するのは、古いタイプの大量生産工場に過ぎない。
本書は、こんな日本の教育を受けてきた若者たちへのささやかなエールである。
2010-08-22[n年前へ]
■「講談社文庫 刊行の辞」と「ぼくらの時代」と「未知の時代」
講談社文庫を寝転がって読んでいると、巻末にある「刊行の辞」にいつも感銘を受けます。思わず、起き上がって背筋を伸ばさなければ、という気持ちになります。いつの時代でも通用する褪せないことを、高らかに宣言する野間省一の言葉には、いつも心動かされるのです。それは、こんな浪漫溢れる一節です。
二十一世紀の到来を目睫(もくしょう=目と睫毛(まつ毛)。転じて、きわめて近いところ)に望みながら,われわれはいま,人類史上かつて例を見ない巨大な転換期を迎えようとしている。「われわれはいま,人類史上かつて例を見ない巨大な転換期を迎えようとしている」「世界も,日本も,激動の予兆に対する期待とおののきを内に蔵して,未知の時代に歩み入ろうとしている」「激動の転換期はまた断絶の時代である」といった言葉は、おそらくどの時代・どの時を生きる”わたしたち”にもあてはまることだろう、と思います。私たちは、いつも転換期を迎え、いつも激動の予兆を感じ、そして、いつでも未知の時代に足を踏み入れようとしているような気がします。だから、「講談社文庫 刊行の辞」を読むと、いつのときもその言葉に酔いしれるのです。
世界も,日本も,激動の予兆に対する期待とおののきを内に蔵して,未知の時代に歩み入ろうとしている。(中略)われわれはここに古今の文芸作品はいうまでもなく,ひろく人文・社会・自然の諸科学から東西の名著を網羅する,新しい綜合文庫の発刊を決意した。
激動の転換期はまた断絶の時代である。われわれは戦後二十五年間の出版文化のありかたへの深い反省を込めて,この断絶の時代にあえて人間的な持続を求めようとする。いたずらに浮薄な商業主義のあだ花を追い求めることなく,長期にわたって良書に生命をあたえようとつとめるところにしか,今後の出版文化の真の繁栄はあり得ないと信じるからである。
同時にわれわれはこの綜合文庫の刊行を通じて,人文・社会・自然の諸科学が,結局人間の学にほかならないことを立証しようと願っている。かつて知識とは「汝自身を知る」ことにつきていた。現代社会の瑣末な情報の氾濫のなかから,力強い知識の源泉を掘り起し,技術文明のただなかに,生きた人間の姿を復活させること。それこそわれわれの切なる希求である。
われわれは権力に盲従せず,俗流に媚びることなく,渾然一体となって日本の「草の根」をかたちづくる若く新しい世代の人々に,心をこめてこの新しい綜合文庫をおくり届けたい。それは知識の源泉であるとともに感受性のふるさとであり,もっとも有機的に組織され,社会に開かれた万人のための大学をめざしている。
野間省一 1971年7月
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