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2008-05-01[n年前へ]
■「大人はいつも子どもの心を持っている」
「大人はいつも子どもの心を持っている」
ウォルト・ディズニー
■「君は胃袋が痛くなるほど、ものを考えたことがあるかい」
「君は胃袋が痛くなるほど、ものを考えたことがあるかい」
円谷英二
2008-05-04[n年前へ]
■夢を紡ぎ続ける画家や作家や多くの芸術家たち
美しいものと醜いものが同時に存在する。それは人間関係においてとくに顕著に現れることがあり、青空がたちまち暗雲に閉ざされる気持ちがするものだ。しかし、生きていくということは、きれいごとだけではすまない。夢の虚しさを知ったところで、その夢は消えないものである。そして、そう信じる人たちのために夢を紡ぎ続ける画家や作家や多くの芸術家たちがいる。
本書に登場する人物をひとつの共通項で要約すると、イメージの達人であり夢を一生追い続けた人たちであるといえる。
「夢と遊びの設計者たち 」
■”ファール”は”フェアー”で”フェアー”は”ファール”
(シェークスピア「マクベス」の”きれいは汚い、汚いはきれい”="Fair is foule, and foul is failr"を指して)fiarとfoulということであれば、これは野球用語ではないか。そして、野球が成り立つためには、fairとfoulは、もちろん画然と区別されていなければならない。「Fair is foule, and foul is failr.」といった両義的なルールでは、そもそもゲームは成り立たないのだ。
……現実の人間の生活世界とは異なってスポーツでは、両義的ないし重層的ではない、ごく限られた単純明快なルールが設定されていて、その約束事の下で選手たちが熱いドラマを繰り広げる。
中村達也 "きれいは汚い、汚いはきれい"
2008-05-05[n年前へ]
2008-05-06[n年前へ]
■ノウハウの限界
何かノウハウがあるようになってくると、決まった仕事しかできなくなるんですよね。悪く言えば、演習問題の域を出ないものばかりになる。それは、むろんまだ誰も解いたことがないから新しい問題のように見えるけれども、誰もが予想できる範囲のものなんです。
池内 了「不合理こそが面白い」"GRAPHICATION No.156"
■隠された非合理的な部分
"GRAPHICATION No.156"
論文には試行錯誤のところは絶対に書かないんですね(笑)。だから、ある日、天才的な閃きによってそれが発見されたかのように見えるんです。
赤木昭夫
「君、科学論文はこう読むんだよ」
「大体ずるいキツネほど自分の足跡を尻尾で消していくんだ」
「肝心なところは、アインシュタインもハイゼルブルグも全部隠しておるのや。そんなのにだまされたらあかんよ」
内山龍雄 via 赤木昭夫
数学の三段論法のような論理だけで論文は仕立ててあるわけですね。
赤木昭夫
つまり、論文には(筋道をたどれるような)合理的なことしか書かれていないわけですね。本当はその裏に隠された不合理な部分が重要なんですね。
池内 了
2008-05-07[n年前へ]
2008-05-08[n年前へ]
■「個性的な石も集めて見ればただの砂利」
個性々々と云って、一つの石ころが他の石ころと違うことを得意になっても、お前さん方を大勢一緒に集めて見たら、ただの「砂利」ではないか。
広津和郎「年月のあしおと」
2008-05-13[n年前へ]
■「前に出る人間」「それを支える人間」
人間には2種類あってよ。「前に出る人間」と「それを支える人間」前に出る人間は大変だよ。自分が武器だからな。前に出る人間は自分の替えはきかない。自分以外では食えない。
キッツイよな。……おまえはどっちの人間なんだろうなぁ。
岡田恵和 「あかねSAL☆」
2008-05-14[n年前へ]
■古典のリレー
古典というものは(落語に限らず)前代の口跡をただ継承しているだけでは、古典の伝承にはならない。前代のこぴーでは必ずいつか死滅するか、無形文化財のようなものと化して烈しい命脈を失ってしまう。リレーというものはそうではないので、その時代に応じて新しい演者が、それぞれの個性、それぞれの感性で活かし直していく。それではじめて古典が伝承されていくのである。
色川武大「寄席放浪記」 p.51
■「せこはせこなりの用途がある」
寄席は下手な人が大ぜいいていんだな。デパートなんかで、ブランド商品ばかり並べてあるコーナーがあるでしょう。寄席はああなっちゃ、だめなんですよね。せこの部分がたくさんある中に入って、初めて光ってくるものがある。せこはせこなりの用途があるんですね。
色川武大「寄席放浪記」 p.51
2008-05-17[n年前へ]
2008-05-24[n年前へ]
■「大村益次郎」の頭
私が大村益次郎の肖像画を描いたキオソーネであれば、「コノアタマ、スコシ、ヘンデス!」と、何度も確かめただろう。しかし、益次郎の弟子は、「シ、然り。されど師匠はまさにこのようでありまして……」南伸坊は天才である。南伸坊が雑誌「旅」に連載したものが本になったのが、「歴史上の本人」だ。10年前の本である。その人のなりをして、その人が過ごした場所に行き、その人になって感じていく。
神技とおそれられた大村益次郎の軍略とは、つまり「情報」であり「技術」であり、「近代」であり「合理主義」であった。……つまり、大村益次郎は、その頭によって必要とされ、その頭によって殺された。
「この頭部は……」と私は頭部をまた脱ぎながら思った。見掛けの滑稽さに似つかわしくなく深刻である。
大村益次郎には、平時に、学者や研究者として生かしてあげたがった。知ることの楽しさ、一途にそこにつき進んで、家庭に帰れば冗談を言って笑い転げるような、そんな生活をさせてあげたかった。そうしていたら、明治維新がならなかったとしてもだ。
南伸坊 「歴史上の本人」
2008-05-29[n年前へ]
■「余の辞書に不可能という語はない」
「余の辞書に不可能という語はない」っていうのは「余に不可能事はない」というのとは違うので、不可能なときは、ほかの人の辞書を借りてくればいいリクツだ。この辞書を経由したあたりに、けっこうアジがあるかもしれない。
南伸坊「ごはんつぶがついてます」 P.107
2008-05-30[n年前へ]
■RADWIMPS オーダーメイド
きっと僕は尋ねられたんだろう。生まれる前、どこかの誰かに。
「未来と過去、どちらか一つを見れるようにしてあげるからさ。どっちがいい?」
「そういえば、最後にもう一つだけ。”涙”もオプションで付けようか?無くても全然支障はないけれど。面倒だからってつけない人もいるよ。どうする?」