2009-02-01[n年前へ]
■川村カオリ "Zoo"
かつての川村かおり、今の川村カオリの"Zoo"を15年ぶりに聴く。
僕達はこの街じゃ 夜更かしの好きなフクロウ 本当の気持ち隠している そうカメレオン 朝寝坊のニワトリ 徹夜明けの赤目のウサギ 誰とでもうまくやれる コウモリばかりさ
あの頃は「愛」っていう言葉に、こんなに色々なたくさんの意味が詰まっているなんてわからなかった。
川村カオリ
見てごらん よく似ているだろう 誰かさんと ほらごらん 吠えてばかりいる 素直な君を ほらね そっくりなサルが僕を指さしてる きっと どこか似ているんだ僕と君のように 愛を下さい oh… 愛を下さい
2009-02-02[n年前へ]
■「一人の人間を救うためには、何が必要かわかる?」
劇作家である鴻上尚史の演劇(の戯曲=シナリオ)「トランス 」の中にこんな言葉があります。
「一人の人間を救うためには、何が必要かわかる?」
「何?」
「もう一人の人生よ」
この文中の「救う」というものがどのようなものであるか、あるいは、そんな言葉を使いたくなる状況というものは人の数だけ数限りなくあると思います。
ただ、この言葉、一人の人間を救おうと思うなら、他の人を救うことはできないし、その他の人の中には自分も入っている、という言葉は正確すぎるほどに的確な言葉かもしれない、と思います。
2009-02-03[n年前へ]
■「岳~みんなの山」と「クロスゲーム」
ドン・キホーテのピアス 702 鴻上尚史
(小学館漫画大賞の一般部門は)山岳マンガの「岳~みんなの山」(石塚真一)がグランプリを取りました。・・・登場人物が、山岳事故で次々と死ぬのですが、申告にはならないのです。それどころか、物語には、前編、不思議な幸福感さえ漂います。それは、山登りが人生に例えられ、悔いのない人生を送った人が死の瞬間に感じる充実感のようなものなのでしょう。
マンガですが、人生の絶望と希望をちゃんと描いていいて、かなりの文学的高みに届いています。
少年マンガ部門は、なんと大御所のあだち充さんがグランプリを取りました。「クロスゲーム 」という野球マンガです。・・・あだちさんは、今、57歳で、少年マンガに落選し、受賞に値する作品を描き続けていられるのです。
2009-02-04[n年前へ]
■ピッチャー体質とキャッチャー体質
酒井順子「入れたり出したり (角川文庫) 」より。
ピッチャー体質というのは、「聞く」よりは「話す」方が得意な、自己主張タイプ。相手に自分の投球を受け止めてもらうのが当然と思っているので、他人の球を受けるのは得意ではない。
対してキャッチャー体質の人は、どんなクセ球もワイルドピッチも受け止めようとします。クセ球をうまく身体でとめることができた時は、職人としての幸福感すら覚える。基本的にはどんな人とも合わせることができる、キャッチャー体質の人間。
誰のことも受け入れてくれる娼婦は、時に聖女にたとえられます。が、彼女は別に自費の気持ちから男性を受け入れているわけでもなかろう。能力としてできてしまうから、そしてそうするしか道がないから、来るものをただ受け止めてあげる、そのひたすら受容的な態度が、見ようによっては聖女に見えるのだと思う。
雑誌には「聞き上手は、生き方上手」なdと書いてありますけれど、聞き上手の方が、本当はよっぽどタチが悪いということも、あるのです。・・・キャッチャーはピッチャーの女房役といっても、両者の関係は実は、一妻多夫。相当したたかでないと、多夫など操れぬはずです。だとしても・・・否、だからこそ、私はキャッチャーというポジションにつく人を、これほどまでに好むわけですけれど。
2009-02-05[n年前へ]
■「男子の小」と「女子の小」
酒井順子「入れたり出したり (角川文庫) 」を読み、目から鱗が落ちるように感じた数節。
液体だけの、男子の小。液体+紙の、女子の小。その両者を、同じ「小」レバーの水で流してしまっていいのか。・・・男子の小を流すことが基準になっているとしたら、果たして女子の小を流し切ることができるのか。
そんな不安を抱きつつ、思わず小の時も大の方へレバーを回してしまう女子が多いのではないかと思うのですが、いかがでしょう。女子の小を安心して流すために、「中」という選択肢があってもいいのになぁ、と私などは思うわけです。
2009-02-06[n年前へ]
■「旅/旅行」と「性/性交」
酒井順子「入れたり出したり (角川文庫) 」を読み、目から鱗が落ちるように感じた数節の続き。
「旅」と「旅行」。この二つの単語の関係は、「性」と「性交」の関係と似ているような気がします。
私たちが持つ「旅」に対する思いも「性」に対する思いも、人間本来の根源的欲求というか、消し得ない魂というか、その手のものでありましょう。・・・その精神には何ら濁りがないからこそ、「旅」も「性」も、単体で見ると崇高な感じすら漂わせる文字なのです。
しかしそれに「行」なり「交」なりといった文字をつけて、具体的な行動を示す単語になると、印象は変わります。「旅」と「性」に比べると「旅行」も「性交」も・・・精神がいくら崇高でも、実際の行動はえてして精神通りにはならないのですよ、ということを「行」や「交」の文字は示すのです。
一人でする旅行為は「一人旅」と言い、「一人旅行」とは言いません。対して複数人数で旅行為は、「団体旅」とか「修学旅」とか「新婚旅」とは言わないように、「旅」ではなくて「旅行」になる。同じように、性交は一人で行うものではなく、二人もしくはそれ以上が関わる行為に対して使用される言葉なのです。
2009-02-07[n年前へ]
2009-02-08[n年前へ]
■ひとつの疑問をべつのかたちの疑問に有効に移し替える作業
「村上春樹全作品 1990~2000 第3巻 短編集II 」
僕は小説というものは、ひとつの疑問をべつのかたちの疑問に有効に移し替える作業であると、基本的には考えている。
2009-02-09[n年前へ]
■夢と現実の境目
「知の休日―退屈な時間をどう遊ぶか (集英社新書) 」より。
本当は夢と現実の境目などないのではあるまいか。想像すると言うことは自分で物語をつくることだ。そして、その「物語を信じる」ことによって、歴史や、科学や、宗教や、哲学などが生まれてきた。
私は、学問というものはすべて想像の産物であり物語であると信じている。
2009-02-10[n年前へ]
2009-02-11[n年前へ]
■強く生き抜くためのユニコーンのアドバイス
週刊SPA! エッジな人々 No.519 「ユニコーン」より、「力強く生き抜くための心構え的なアドバイスを頂ければ」というインタビュアの問いに対して「ユニコーン」が答えたこと。
阿部:僕はそうだな……努力するしかないかな、やっぱり。努力は絶対に裏切らないからね。あと、自分の意志と関係なく降りかかってくる余計なものは、一瞥して流す!
奥田:俺は……好きなことって、簡単に決めちゃダメなんじゃないか、と思うんですよ。「夢を持とう」というのはいい言葉ですけど、それが叶わなかったときに、「そもそもなんで俺はこの道が正しいと思ったんだ?」と考えてみる。
2009-02-12[n年前へ]
■「向田邦子」と「走れメロス」
久世光彦 「触れもせで―向田邦子との二十年 」より。
(太宰治は嫌いだが)向田邦子は「走れメロス 」だけは好き、と言っていた。
信頼という字を書こうとして、そこでどうしても手が止まってしまい、待つという言葉が男の人みたいにきれいに発音できないというのである。
この人は信頼できない誰かを待っているのだろうか。私はその時ふと思った。
2009-02-13[n年前へ]
■太宰治と井伏鱒二
吉田和明 「太宰治はミステリアス 」より。
しかし、それにしても、井伏さんはどうして、ここまで太宰の面倒をみるのでしょう。結婚の世話をしたり、仕送りの仲介を引き受けたり、太宰が何か問題を起こせばその解決のために尽力する。……では、井伏さんはなぜそうした面倒臭いことを引き受けたのでしょうか。
吉田和明 「太宰治はミステリアス 」
2009-02-14[n年前へ]
■井伏鱒二と太宰治
豊田清史「知られざる井伏鱒二 」より。
彼(太宰治)は生活の破綻男で、人間は相手にせなんだが、何しく資産家の子でなア、旅や宿に行っても彼が気前よく代を支払ってくれるので、ぼくは助かったよ。放蕩息子にぼく(井伏鱒二)は生活の面で救われたよ。
井伏鱒二
2009-02-15[n年前へ]
■今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。
井伏鱒二「山椒魚 」より。
「お前は、今どういうことを考えているようなのだろうか?」 相手はきわめて遠慮がちに答えた。 「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」
2009-02-16[n年前へ]
2009-02-17[n年前へ]
■有吉佐和子文学の周辺を賑やかにするべきである
松岡正剛の千夜千冊より。
有吉佐和子をいまなお現代文学の中央の場で議論しないのはどうもおかしい。こんなにすごい作家はめったにいない。日本の家や芸道を描いては他の追随を許さないし、『恍惚の人 』で老人問題を、『複合汚染 』では公害問題を、それぞれどんな作家よりもはやく取り組んで、しかも重厚に仕上げた構想力は並大抵ではない。そろそろ有吉佐和子文学の周辺を賑やかにするべきである。
第三百一夜【0301】2001年5月28日
2009-02-18[n年前へ]
■ウソで隠した迷い
高島俊夫の「メルヘン誕生―向田邦子をさがして 」より
この「手袋をさがす」のなかで向田邦子は自分のことを「十人並みの要望と才能」と言い、また「貧しい才能のひけ目」と言っている。これははっきりウソである。向田邦子は、自分に関して、そんなことはこれっぱかしも思ったことはなかろう。
彼女は、「自分には才能がある」と思っていた。平凡な家庭主婦になるのは宝のもちぐされである。どこかに自分の才能を発揮する場があるはずだ。ーこの考えが一貫して彼女の中にあった。
「潰れた鶴」
向田邦子の「あ・うん 」より
おとなは、大事なことは、ひとこともしゃべらないのだ。
「やじろべえ」
2009-02-19[n年前へ]
■ぐしゃぐしゃに積んだ将棋のコマ
向田邦子の「あ・うん 」より
「ほら、将棋のコマ、ぐしゃぐしゃに積んどいて、そっと引っぱるやつ」
「おかしな形はおかしな形なりに均衡があって、それがみんなにとってしあわせな形と言うことも、あるんじゃないかなあ」
「ひとつ脱けたら」
「みんな潰れるんじゃないですか」
「やじろべえ」
2009-02-20[n年前へ]
■騎兵の気持ち
向田邦子「眠る盃 」より。
人間はあまり高いところに住まないほうがいいな、と思った。なるべく地面に近いところに立ち、人と人はおたがいに同じ高さでつき合った方がいい。全く根拠のないことだが、歩兵の方が人間的で、騎兵はすこしばかり薄情なのではないか。
「騎兵の気持ち」
2009-02-21[n年前へ]
■変わらないものもあるわよ
小林竜雄の「向田邦子 恋のすべて 」を読み直していると、こんな一節に出会う。
向田がTVドラマ「幸福」で最も好きな人物は素子だったという。(中略)素子とは、元素の”素”のことだ。万物の原型である。
TVドラマを「幸福」を小説に書き下ろした「隣りの女」収録の「幸福」では、素子が主人公の物語に変わっている。
変わるものもあるけど、
変わらないものもあるわよ。
「幸福」
2009-02-22[n年前へ]
■「向田邦子」と「有吉佐和子」
小林竜雄の「向田邦子 恋のすべて 」から
向田(邦子)と有吉(佐和子)は一度だけ接点があった。有吉の長編「針女」の脚色である。
向田は(「針女」の演出を行った)和田(勉)との打ち合わせの最中、一度も有吉の名を口にしなかったというのだ。……和田もこの異常なまでのかたくなさは何だろう、と私に言っていた。
2009-02-23[n年前へ]
■有吉佐和子の「女」と「理性」
「有吉佐和子の世界 」中で、橋本治が書く「理性の時代に」より。
男がいて女がいる。その男を何かが歪ませ、その何かが女を不幸にする。有吉佐和子の基本的な認識はこうであろうと思われる。だから彼女は、うかつには動かない。有吉佐和子の揺るぎのなさは、この正確なる認識をする彼女の理性によると思われる。
だから、有吉佐和子の中で、女は聡いし、揺るぎがない・と同時に、女は激しく揺れ動く。有吉佐和子が才女であるということは、そうした世の中全体の関係性を踏まえて女を描き、そして描かれた女が決して邪悪にはならないところにある。”女流”と呼ばれる作家は、えてしてこれをやるのだ、邪悪という開き直りを。
有吉佐和子は、女の中の”女”を描いて、決して邪悪には陥らない。それを読む女達に「もっともだ」と思わせる”何か”を書くのである。
理性的でありながら、それが理性的であると気づかれないことによって”理性”として評価されない女達に、この理性の時代に、実は膨大な理性がないがしろにされて放置されているのだ。
2009-02-24[n年前へ]
■矮小化されない複雑な世界
森達也の 「視点をずらす思考術」より
事件や現象はそんな一面的なものじゃない。もっと多面的なはずだ。…そしてその帰結として、事象や現象はかぎりなく単純化される。
こうして、世界はメディアによって矮小化される。そしてこの矮小化された単純簡略な情報に慣れてしまった人たちは、複雑な論理を嫌うようになる。つまり胃袋が小さくなる。輪とはもう悪循環。わかりやすさを好む視聴者や読者によって、メディアは事件や現象の単純かを当たり前のようにこなし始め、そのスパイラルが加速する。
p.137 「人間が宗教を必要とする理由」
2009-02-25[n年前へ]
■「わかりやすくない世界」を「わかりやすくする」ということ
香山リカの「なぜ日本人は劣化したか (講談社現代新書) 」より。
「とにかくこれから開発するゲームは、少し長いので引用しないが、上の文言と対に、本書を手にとって14ページから4頁にわたる「ひと息200字の時代」も読んで欲しい。
わかりやすくて、すぐに結果が出て、
その結果に対して過剰に褒められる、
という要素がないとダメなんんです」
p.71
これでいいのだろうか。これじゃ原稿というよりは標語みたいではないか
p.75
2009-02-26[n年前へ]
■「視界の幅」と「視点をずらす」
森達也の「視点をずらす思考術 」の「付けたしのエピローグ」より
世界は広い。でも人の感覚の幅はとても狭い。さらに可視光線の幅は電磁波全体のほんの一部でしかない。つまり、見える光と見えない光がある。認知できる音波の幅もとても短い。聞こえる音と聞こえない音がある。
だからもそも可視光線の幅がほんの数ミリずれたなら、それまで見えていなかったものが眼前に現れる。
だからもずらす。可視光線の幅はコントロールできないけれど、視点くらいはずらすことができる。たったそれだけのことでも、まったく違う世界が眼前に現れる。
2009-02-27[n年前へ]
■「痛み」と「道」
バック・トゥ・ザ・フューチャー DVDコレクターズBOX より
Pain is temporary. Film is forever.
痛みは一瞬。映画は永遠。
Where we’re going, we don’t need roads.
私たちが行こうとする先に、道は必要ない。
2009-02-28[n年前へ]
■「阿」+「弥陀」=?
森達也の「視点をずらす思考術 」より
阿弥陀のミダは、測るという意味、メジャーの語源だとの説もあります。アは反意を示す接頭語。つまり、噛み砕いてしまえば、阿弥陀はサンスクリット語で、「わからない」という意味を表しているのです。
p.106 多面的矛盾に満ちた「現代の不安」