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2009-10-08[n年前へ]

「雑誌」について考える 

 無料の「ネット記事」を読むなら、無料の「GRAPHICATION」も読みませんか? を、さらに続けます。GRAPHICATION(グラフィケーション)の最新号である 2009 No.164 通巻353号 特集「雑誌を考える」から、気になった言葉を書き写してみることにします。これらの言葉は、すべて「雑誌」に向けられた言葉です。

 雑誌の愉しみ方にはいろいろあるが、総じて雑誌が、知る喜び、読む楽しみにつながる知的訓練手段であることにも目を向けるべきではないだろうか。

巻頭言

 雑誌というのは本来、それを始めた人の志が常に続いていくのが基本です。

池内 紀

 歴史学者のE.H.カーは「歴史とは何か」と問われて、「それは現代の光を過去にあて、過去の光で現代をみることだ」と答えている。

佐野愼一

 パラパラと紙を操るたびに似ても似つかぬ雑多なパラレルワオルドが目まぐるしく展開していくこの構造は、ネットサーフィン(もう死語かな)とは似て非なるものだ。関連記事のみに相互リンクが張られ、検索すべきキーワーすら思いつけない未知の世界には永遠にたどり着けそうにないウェブの構造に、そんな雑誌の構造的快楽を「移植」するのは、それほど簡単なことではないのだ。

山崎浩一

 若い人は(書くのに慣れていない年寄りも)専門のことしか頭にないから、どうしても単調で硬い文章になってしまう。ありていに言えば、読んでいて楽しくないのである。
 わかりやすく、深みのある文章にするためには時間をかけねばならないが、まだ片手間仕事の意識が強いから書き飛ばしになっていることもある。
 また、専門の話だけでなく、もっと話題の幅を広げてくれればいいのだが、なかなかそうにはなっていない。科学は想像だけで書けるものではなく、事実の蒐集が不可欠なのだが、その余裕を持って執筆しないのだ。
池内 了

 雑誌について本誌は1975年10月号で「雑誌考」という特集を組んでいる。「雑誌とは何か(PR誌というあり方を含めて)を読者と共に考えたい」と編集後記にあるので、今回とほぼ同じ主題を扱っている。30数年を経て、何が変わり、何が変わらないかを確認したいという思いと、雑誌を取り巻く環境の問題もあり、今回の特集号を組むことにした。

編集者 (T)

 さて、GRAPHICATIONの定期購読申し込みはされたでしょうか? 読みたくなっては…きませんか?

2009-10-09[n年前へ]

「漱石のマドンナ」という旅情ミステリ 

 人がいない屋外で読書をする、というのはとても気持ちが良いものです。リュックに軽い本を入れ、自転車に乗り人気ない気持ちの良い場所を見つけます。そして、ひとときの間、本を読みます。

 今日読んだ本は、河内一郎「漱石のマドンナ 」です。本書の半分は、大塚楠緒子と漱石について実証的に書かれ、残りの半分は、漱石が好感を抱いたと伝えられている「10人の女性」につい調べた結果が書かれています。

 これまで、漱石の”マドンナ”について書かれた本を色々読みました。そんな中でも、この本は旅情ミステリのように、「いつ・どこへ行った」「いつ、どこからどんな手紙を書いた」といったことが書き連ねられていて、不思議に心惹かれます。ミステリのプロットそのままに、まるで漱石とともに人生という名の地方旅行をしているような気になります。

 同年7月25日、漱石は群馬県の伊香保温泉に向かった。(中略)上野発午前7時25分、前橋着11時10分の列車に乗ったのはわかっているが、前橋から伊香保へはどのような経路で行ったかは不明である。
 この伊香保行きに、漱石の人生を決める決定的瞬間があると考えている。

 「漱石のマドンナ」は、リュックに入れるには少し重いような気もしますが、夏目漱石の本を(それとともに大塚楠緒子の著作についても)読み直してみたい人には一度読んでみても面白いと思います。

屋外で読書






2009-10-11[n年前へ]

「雑誌」の寿命 

 編集者の姿が見える雑誌というものがある。そういう雑誌に寿命があるのは自然なことなのだろう、と思う。たとえば、少し変な例かもしれないが、「噂の真相」なんていう雑誌も、そんな雑誌のひとつだったのかもしれない。

 堀井憲一郎「落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書) 」の一説を読んでいて、雑誌の寿命というものを連想した。

 何が残ろうと、死んだらおしまい。そう送ってあげるのがいいんだよと、落語は教えてくれています。それは残ってる者がしっかり生きろというメッセージでもあるわけで、動物としてはそういう生き方が正しいと思う。

 さて、これも、グラフィケーション(GRAPHICATION)に関して考えていた時に(無料の「ネット記事」を読むなら、無料の「GRAPHICATION」も読みませんか?)、ふと連想したことの「ひとつ」です。雑誌の作り手が消えても、その雑誌の読者が消えても、どちらにしても「その雑誌」はどこかに消えていきます。さらに、こういった話は雑誌だけに限らない話なのだろう、とも思います。

2009-10-13[n年前へ]

単位は「取る」か「来る」か? 

 堀井憲一郎「若者殺しの時代 (講談社現代新書) 」から。

 単位を取る。僕たちはそう言っていた。1979年に30単位取ったときも、1980年に16単位しか取れなかったときも、僕はそう言っていた。
 最近の学生は「取る」とは言わない「来る」と言う。
 いつのまにか「単位」は「来る」ものになっていたのだ。いつからそうなったのか。歴代のアルバイトにさかのぼって、聞いてみた。1997年からだった。
 世界は自分の思いで動いてくれない。だから自分のまわりの世界を、ちょっと非現実的にとらえていたほうが、自分を守りやすいバーチャルが楽なのだ。
 だから努力してがんばっても、単位は「来る」のである。

2009-10-14[n年前へ]

位置付けを欠いた”自在”な思考 

 橋本治の「あなたの苦手な彼女について (ちくま新書) 」から。

 平気で「我”こう”思うゆえに我あり。お前”こう”思わぬゆえに我なし」という認識をしてしまうのです。それがつまり、「あなたは私のような考え方をしていないから、あなたには自分がないのだ」という即断です。
 位置付けを欠いた思考は、いくらでも”自在”になります。でもその自在さは、一向に「外」とは噛み合いません。どんどん自在になるだけで、自己完結へ導いていきます。
 「自分がどこに存在して、自分の思考はどのようであってしかるべきか」という自覚のない人の思考は、どんどん自在になって現実から遊離をして行きます。
 思考が自在になってしまえば、「自分は位置付けを欠いている」というそのこと自体が、問題にならなくなります。だから、(中略)なにを言っても無駄です。しかるべき距離を置いて、「あなたは、自分が位置付けを欠いているということに、気づいていないんじゃないの?」ということを、黙って気づかせるようにしてあげるしか、その対処すべき方法はないように思われます。

2009-10-15[n年前へ]

世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかない 

 堀井憲一郎「若者殺しの時代 (講談社現代新書) 」中の「1989年の一杯のかけそば」から。

 世の中には「自分は人を騙さない。でも人からも騙されずに生きていたい」というムシのいいことを考えてる人が多いこともわかった。僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の二種類しかないとおもっている。
1 騙す人
2 騙される人
これで全部だ。どっちかを取るしかない。
 どちらかを選ぶしかない。もちろん騙されるほうに立っても、大きく騙されることもなく生涯を終えられることもあるだろう。騙す側を選んでも、表立って人を騙すことなく、平穏に人生を過ごせる可能性だってある。でもそれは結果である。どっちのサイドにつくかはきちんと自分で決めないといけない。人生の成り行きは自分では決められない。

2009-10-16[n年前へ]

「帝国主義のモットー」と「近代科学」の共通点 

 河合隼雄「物語をものがたる―河合隼雄対談集 」から。分厚いこの本は、この後、「続 物語をものがたる―河合隼雄対談集 」「続々 物語をものがたる―河合隼雄対談集 」と二冊続く。

 帝国主義のモットーとして使われる「divide and rule」(分割して統治せよ)は、少しもじって使うと、そのまま科学の標語にもなるところが面白い。つまり、物事を区別(分類)して、その間の法則(ルール)を見出して秩序付ける、と読み換える。これは近代科学の行っているところである。

 近代の科学・技術的思考法は人間関係にも持ち込まれて混乱を生じせしめているように思う。

2009-10-17[n年前へ]

ライト兄弟の飛行機が実用化されなかった理由 

 山田大隆「心にしみる天才の逸話20―天才科学者の人柄、生活、発想のエピソード (ブルーバックス) 」のライト兄弟に関する章から。

 ライト兄弟の飛行機には二つの謎がある。それは、ライト機に一貫してついていた「先翼」と「チェーンドライブ」である。先翼はいわゆる昇降舵で、チェーンドライブはエンジンからプロペラへの駆動系である。なぜ、これらが謎であるかというと、この二つの技術だけは、じつに効率の悪い不自然な技術だったのである。(先翼は主翼前で乱流を発生させ、飛行が不安定になる。チェーンは、外れ・切れ・エネルギーロスも大きい)
 この二つの技術をよく見ると、先翼は「舵取りが前」、チェーンドライブは「動力伝達はチェーン」ということである。つまり、これらは自転車の発想なのだ。もともと自転車屋であった兄弟は、最後まで自転車の発想から抜けられなかったのである。

2009-10-18[n年前へ]

今わたしたちは、日本の歴史の、どのあたりを歩いているのだろう。 

JRの駅を歩いていると、見慣れた景色が視界に入ったような気がした。その何かは、「そうだ京都、行こう。」のポスターだった。そこには、京都市近郊にある長岡京市の光明寺の景色があった。

2009年の秋。今わたしたちは
日本の歴史の、どのあたりを歩いているのだろう。
 この景色を、春夏秋冬、さまざまな時間に眺めたような気がする。ある時は、近くの天下一品でこってりラーメンを食べた後の腹ごなしのために(少し距離のある)散歩に行く。また、ある時は、竹林の中で被写体にカメラのレンズを向ける。
 「平家物語」でも有名な、一の谷の戦いで平敦盛の首を取った頼朝方随一の豪傑、熊谷直実。その慙愧の念と無常感から出家し、法然に師事。この地に念仏のための寺を開きました。

 ちなみに、少し前に書いた柳谷観音は、長岡天神の駅をずっと山奥に上ったところにある。

2009-10-19[n年前へ]

ライフ・イズ・ノット・イージー 

 この先を読みたいと思いつつ、ゆっくりと頁(ページ)を読み進めていきたくなる本が、つまり、決して一日で読み終わってしまいたくないと感じる本がある。たとえば、「逆風満帆 」はそんな本だ。朝日新聞のbeに連載されていた記事の一部をまとめたこの本の頁は、丁寧にゆっくりと一文字一文字読み進めたい。

 <ライフ・イズ・ノット・イージー> (人生は楽じゃない) ニューヨークに住む矢野から槇原に届いた手紙には、そう記されていた。(中略)槇原を思いやる言葉とともに、人のこころの「光と影」についての深い洞察が、手紙にはつづられていた。
 …僕はまだ人の気持ちが全然わからないのに、なぜこの人にはわかるのだろう。こんなに優しい気持ちでいてくれる人に、なぜつらい思いをさせてしまったんだろう。
槇原に”謝罪”を迫る人はごまんといたが、心の底から素直に『ごめんなさい』と言えたこの瞬間を、彼は今も忘れない。

 この記事は、連載時からメモ帳にメモしたり、張り付けたりした文章や言葉が、いくつももあった。

 「人はさびしがりやであるべきだと思うよ。さびしくないように、相手のことを考えるから。多少は不安なほうがいいんだよ。そのほうが助けあえるからね」

 この下で彼が歌う歌は、このインタビュー記事の一年ほど前に彼が作ったもの。

結局、僕はそんな事を何度も繰り返し。
最後には何も見つけられないまま、
ここまで来た道を振り返ってみたら。
それを見た時の気持ちが、
僕の探していたものだとわかった。
今までで一番素敵なものを、
僕はとうとう拾うことができた。

「僕が一番欲しかったもの」(EXPLORER )

2009-10-20[n年前へ]

「キュリー夫人の運命の一夜」 

思わず内容をメモしたくなる内容を「技術」という分野に分けるか「人文」という言葉で表現するのか、=悩むことがある。けれど、そんな風に悩むことは少ない。

 けれど、山田大隆「心にしみる天才の逸話20―天才科学者の人柄、生活、発想のエピソード (ブルーバックス) 」を読んだときには、そんな悩みを感じた。なぜ、この人は「技術を確かに見る視点」と「人を冷徹に眺める視点」を共に兼ね備えているのだろう・・・と感じ、そこに書かれている内容を「技術」に分類するのか、「人を表す言葉」に分類するのか悩んだ。この山田大隆氏の行う授業を聞いてみたい、と悩んでしまった。つまり、このサイトでいえば、Tech-logsに分類するのか、Logosに悩んだ、というわけである。

 今日書き写すメモは、「人を表す言葉」に分類しておこうと思う。その対象は、山田大隆「心にしみる天才の逸話20―天才科学者の人柄、生活、発想のエピソード (ブルーバックス) 」の中のキュリー夫人に関する部分だ。節で言うと、「キュリー夫人の運命の一夜」である。

 人は単純ではない。さまざまな本を読んで感じるキュリー夫人も、一言ではいえない綺麗な色も・濁った色も、それらをすべて兼ね備えた複雑なものを見せる。それでも、私の好きな人のひとりだ。

 しかし、「一度、遊びに来ないか」といわれて相手の実家までついて行けばどういう状況になるか、はたまた、誘いを受けること自体どういうことか、いくら勉強一筋で世間知らずとはいえ、マリーに考えがおよばなかったはずはない。
 マリーは、故郷ポーランドで一介のさえない物理教師で終わるより、天下のパリで研究者として自分の能力をためす道を選んだ、と考えたほうがよい。
 この文章だけでなく、そのあとに繋がる文章、そしてさらにその他に描かれている人物に関する文章も含めて、この本の一番感銘する部分は「人」と「技術」の両面を「深く」考察している点にあると思う。

2009-10-21[n年前へ]

「ジェームズ・ワット」のひとつの横顔 

 山田大隆「心にしみる天才の逸話20―天才科学者の人柄、生活、発想のエピソード (ブルーバックス) 」から。

 蒸気機関の改良と普及で、功なり名を遂げたワットだったが、やがて彼を追い抜く若者が出てきた。ウェールズの鉱山機械技師の息子、トレビシックである。(中略)ワットが本質的な恐怖を感じたトレビシックの着想は、高圧蒸気機関をつくろうというものだった。
 彼はトレビシックに対してさまざまな嫌がらせを開始する。(中略)「殺すぞ」と書かれた嫌がらせの手紙も数通におよび、用心棒がトレビシックに直接暴力をふるうこともあった。

 ワットのトレビシック潰しに見られる、競争者を徹底的に抹殺する陰湿なところは、一時代を実力で築いた実力者にしばしば散見される。
 ところで、ニューコメン、ワット、トレビシックと続く流れを見てつくづく思うのは、旧技術は後発の新技術に発展解消するのではなく、旧技術のまま朽ち果て、それを破壊する新技術がつぎの時代を築くということである。これが、技術の歴史において過酷なまでにつらぬかれている真実である。

2009-10-22[n年前へ]

「漱石のマドンナ」と「こころ」 

 河内一郎「漱石のマドンナ 」から。

 楠緒子は保治に対し、学者としては立派だが、心を理解してくれない型物の夫として不満をつのらせていたのではないだろうか。
 漱石は人の模倣が大きらいで、独創性を宗としてきた人である。それにもかかわらず、楠緒子だけ唯一の例外で、いくつかまねをしている。

2009-10-23[n年前へ]

走り続けた「ライブ・トレイン」 

 「夏の日の1993」で知られるclassの津久井克行が逝去

 深くリバーブがかかったストリングスと堅い音色のシ ンセサイザが奏でるclassの「夏の日の1993」の前奏が鳴り出しました。東京国際フォーラムという大きな会場で したが、一人の観客も立ち上がったりしませんでした。私もそうでしたが、音楽を聴きながら・その時代を感じ 、そこで立ち上がる必要も、立ち上がることもできなかったのだと思います。何しろ、R35=35歳以下禁止の、あの時代を共有する人たちですから。

私たちが乗った魔法の「ライブ・トレイン」

 何だかそれはライブ(Live)の続きのような、あるいはライブ(Live)の最後のようにも感じました。

私たちが乗った魔法の「ライブ・トレイン」

2009-10-24[n年前へ]

「愛は勝たない」ことが多いから「愛は勝つ」を聴く 

 児玉清が25人の作家にインタビューした児玉清の「あの作家に会いたい」 から北村薫の言葉。

 ずいぶん前に「愛は勝つ」という歌が流行(はや)りましたが、この世の中は往々にして愛は勝たないということをみなが知っているから、あえてこの歌を聴く。

2009-10-25[n年前へ]

完全主義へのこだわりを捨てると、新しい道が見えてくる 

 重力多体問題の専用計算機GRAPEなどを作り上げ、同時に「栄光なき天才たち 」の原作者でもあった伊藤智義の「スーパーコンピューターを20万円で創る (集英社新書)」から。

 そのとき、「ワシントン・ポスト」紙の広告面に、ワインが半分だけ入ったグラスが描かれているのを目にした。そこには次のような問いかけが付記されていた。
「あなたはこれをハーフ・フル(半分も入っている)だと思いますか、ハーフ・エンプティ(半分しか入っていない)だと思いますか」
 「半分では不十分」といつまでも完全主義にとらわれていると、一歩も前に進めなくなる。「半分もあれば十分」と完全主義を捨てた時、肩の力が抜けて、かえって大きな前進がもたされるという考え方だ。

 この本は、第五章以降から、特に面白くなる(都立武蔵高校出身者なら、第四章から面白く感じられるかもしれない)。少なくとも、第三章より先まで読み進めると、読むことを途中で止められなくなる、と思う。

2009-10-26[n年前へ]

続「手作りスーパーコンピュータへの挑戦」 

 重力多体問題専用計算機から始まったGRPAEに関する本は、それが本屋に並ぶようなものであれば、すべて読んでいると思う。「完全主義へのこだわりを捨てると、新しい道が見えてくる」の「スーパーコンピューターを20万円で創る (集英社新書)」もそうであるし、あるいは、「手作りスーパーコンピュータへの挑戦―テラ・フロップス・マシンをめざして (ブルーバックス) 」もそうである。あるいは、「専用計算機によるシミュレーション―デスクトップ・スーパーコンピュータ入門 」もそうだ。論文は…それほど多くないが、読んでいるつもりだ。

 たぶん、この手の本で一番最初に読んだのは杉本 大一郎「手作りスーパーコンピュータへの挑戦―テラ・フロップス・マシンをめざして (ブルーバックス) 」」だ。この本は、とても惹かれる本だが、自分で本屋で見つけ出し買ったのか、それとも帰省した時に「この人の本は面白い」と肉親に渡されて読んだのかは、思いだせない。けれど、とにかく、この本は面白かった。

 1988年の秋、国立天文台野辺山宇宙電波観測所の近田義廣さんから一通の手紙が届いた。(中略)彼は天体相互の間に作用する重力を計算する重力を計算する「重力マシン」としての計算機を作ろうと、提案したのである。
 この本に登場する人物・場所が、聞いたことのある名前であったり、暮らしことがある馴染み深い場所であったこともあるし、何よりもその内容が面白かった。
 20年あまり前、アメリカのNASAで研究生活をしていたときのことである。ワシントン・ポストという新聞の一面を買い取って、ワインが半分だけ入ったグラスを描き、「あなたはこれをハーフ・フル」だと思いますか、ハーフ・エンプティーだと思いますか」と問いかけた公告が載せられた。何のための広告だったか忘れてしまったが、私にはこの言葉が永い間こびりついて離れなかった。
 こうして私の人生訓は、「完全主義は捨てて、楽をしよう。ハーフ・フルと思う方が幸せ」ということにしている。

 この本は、1992年2月に出版されたものである。けれど、今でもときたま読み直す。そして、その一頁々、一行々に感銘を受け、興奮させられる。そして、時間・発想というものの歩み・進みというものは実に意外なほどに遅々として遅いのだ、ということに今さらながらに気づかされる。…それは、決して悪いことではない。

続「手作りスーパーコンピュータへの挑戦」






2009-10-27[n年前へ]

「数学」と離れた世界で読む「新鮮な数学の世界」 

 3人の主人公たちの目と考えを経由して、数学の世界を私たちに垣間見せてくれる、結城浩「数学ガール 」から。

 世界に人間がたった二人しかいないなら、人間の悩みはずいぶん減るんじゃないだろうか。人間が多すぎるから、比べて落ち込んだり、争ったりするんじゃないだろうか。
 ーじゃ≪世界に素数が二つだけなら≫という話をしよう

 この本を読むのには、時間がかかった。「何か」へ辿りつくために、何段もの数式上を歩いて行く、その数式階段を納得しながら読むのに、とても時間がかかった。たとえば、「≪数列の国≫における「たたみ込み」は、≪母関数の国≫における積なのだ」という、「結果自体は(式を頭の中で展開してみれば)自明」なことでも、そこにたどり着くまでの数式が続く回廊を歩いていくのに時間がかかる。

 何も見つからずに終わることも多いだろう。では、探すことは無駄かな?違う。探さなければ見つかるかどうか、わからない。やってみなければ、できるかどうか、わからない。…私たちは旅人だ。疲れることがあるかもしれない。道を間違うことがあるかもしれない。それでも、私たちは旅を続ける。
 疲れたなら、休めばよい。道を間違えたなら、戻ればよい。-そのすべてが、私たちの旅なんだから。

 読むのに時間がかかる…けれど、それでも「数列」と「母関数」…といったものを、頭に思い浮かべることもない生活を続けている中で読むこの本は、意外なほどに新鮮に感じた。

 数学への≪あこがれ≫-それは、男の子が女の子に対して感じる気持ちと、どこか似ているような気がします。
 難しい数学の問題を解こうとする。なかなか答えは見つからない。手がかりすら見つからない。でも、その問題はなぜか魅力的で、忘れられない。何か素敵なものが隠されているに違いない。
 ところで、素敵なものが隠されているか、そうでないものが隠されているか…、それは最後の最後までわからないのではないか、と私は思う。それでも、「…≪あこがれ≫-それは…」の一文は、間違いなく真実だと確信する。

2009-10-28[n年前へ]

「マスコミニュケーション」と「マイコミニュケーション」 

 下川裕治「世界一周ビンボー旅行ふたたび 」から。

 マスコミの世界で経験を積めば積むほど、マスコミというものの力の程がわかってきてしまう。それは親の死に目に会うことを超えるものでもないことに気づいてしまうのだ。

2009-10-29[n年前へ]

何かを求めるなら、継続するしかありません。 

 (数々のアニメを作成してきたアニメーターである)西澤晋「リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座 (漫画の教科書シリーズ) 」のあとがきから。

 何かを求めるなら、継続するしかありません。到達するべき目標を決めたら、そこにたどり着くためのビジョンをもち、それを毎日地道に実行していくことです。
 本当に求めるものがある人なら、そういう生き方をしてほしいと思います。

 ところで、この本、特にChapter.02の「写実的に描くための画面構成」はとても新鮮で素晴らしい。人が画面(画)を見て無意識に感じることを明晰に解説し、具体的な例を通じて「悪い例」を「良くしていくための対策」を説明してくれる。その素晴らしさについては、いつか書きまとめてみたいと思う。書かれている内容を「消化」し、自分の使い方として「昇華」するには、時間がかかりそうだが、いつか自分なりのやり方で、まとめたいと思う。

2009-10-30[n年前へ]

どの年代の人々にとっても本当は言えること 

 万城目学のエッセイ集「ザ・万歩計 」から。

 (ラスト)すっからかんになって、また高校の校庭に自転車で戻ってくる主人公の二人。最後のシーン、シンジがマーちゃんに言う。
 あれは別に若者を意識した言葉ではなく、そのとき北野武が抱いていた「素」の気持ち、等身大の言葉だったのではないか。長い芸人生活を通じ、たけしは四十を超えてブレイクする人、二十年間苦渋を嘗め続ける人、たくさんの人間の生き様を見てきたはずである。
 どの年代の人々にとっても本当は言えることを、たけしは若い二人に言わせたのではないか。
「俺たち、もう終わっちゃったのかな」
「馬鹿野郎、まだ始まっちゃいねえよ」

2009-10-31[n年前へ]

自分で納得するまで考える。それが大事だと僕は思っている 

 結城浩「数学ガール 」の「相加相乗の平均の関係」から。

 「好きなことをしっかり追い求めていくと、本物と偽物を見分ける力も付いてくる。いつも大声を出している生徒や、賢いふりをする生徒がいる。きっとそういう人たちは、自己主張が好きで、プライドが大事なんだ。でも、自分の頭を使って考える習慣があって、本物の味わいを知っているなら、そんな自己主張は要らない。大声を出しても漸化式は解けない。賢いふりをしても方程式は解けない。誰からどう思われようと、誰から何と言われようと、自分で納得するまで考える。それが大事だと僕は思っている」