2009-11-01[n年前へ]
■無駄に終わる経験など何一つない
万城目学のエッセイ集「ザ・万歩計 」から。
小さなことからコツコツと。とはご存知西川きよしの名言であるが、まあ、世の中とは得てしてそういうものだなあ、と近頃ようやく思えるようになった。どんなことも積み重ねが大事であり、無駄に終わる経験など何一つないのだ、と近頃ようやくわかるようになった。
それは万歩計の目盛りを一つずつ増やす作業にどこか似ている。少し歩いたくらいじゃ、確かに何の意味もないのかもしれない。だが、目盛りの数字が(後略)
2009-11-02[n年前へ]
■「マンガ」と「物語」
「ニッポンのマンガ (アエラムック―AERA COMIC) 」に収録されている、萩尾望都×浦沢直樹×夏目房之介という3名による座談中から。下の言葉は、その中にある萩尾望都によるもの。
ではなぜ、人間は物語に魅かれるのか。なぜ物語を求めるんでしょう。生きてると、矛盾したことがいろいろと起こる。「どうして生きてるの」とか、(中略)…ということが日常的にある。
そこに正しい答えはない。でも、物語の中ではさまざまなことが一応整って見えてくる。答えがあるわけじゃないんだけど、道筋は分かる。
2009-11-03[n年前へ]
■「経験」を持たない「賢者」
ふと目にした言葉、衝撃を受けた言葉や、気になった言葉を、システム手帳にいつも書き写し、時間がある時にはいつも読みなおしている。…その一部をここに書くことが多い。
その中で、「腑に落ちないけれど、書き写した」というものもある。たとえば、次にひく勝間和代の言葉もそうだ。これは、朝日新聞の2009/05/09に掲載されていた「人生を変えるコトバ」に書いてあった言葉だ。
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。書き写して読み直すのだけれど、どうにも消化できず、この言葉が胃もたれしたままでいる。
ここで書かれる「賢者」は、数多くの否応なしに学ばさるを得なかった「経験」を自らのものとしては持たなかったのだろうか。あるいは、ここで「愚者」と呼ばれる者は、本屋で歴史書を手にすることはないのだろうか。
「腑に落ちない胃もたれしたままの言葉」を書いたのは、この言葉だけだ。どうにも、この言葉の深さというものを計ることができず、書き写した頁を眺めるたびに、いつも悩んでしまう。
・・・だから、というわけではないが、今日張り付けたイメージ画像は同じ「愚者」でも、勝間和代の本ではない。「指が月をさすとき、愚者は指を見る―世界の名科白50 」である。
本当に重要なことは、あるものが何であるかよりも、誰がそれをいっているのかを知ることなのです。
四方田犬彦
2009-11-04[n年前へ]
■きみが見つける物語
「京都市鴨川源流」を廻る「理系風デート」で紹介した何人かの作家による小話を集めた短編集である「きみが見つける物語 十代のための新名作 休日編 (角川文庫 あ 100-103) 」はシリーズになっていて何冊か出ています。、5人の作家、この「休日編」では、角田光代・恒川光太郎・万城目学・森絵都・米澤穂信という人たちが書いています。どの作家が描く世界も、切なさ・やるせなさ・楽しさ・・・あるいはたくさんの感情を与えてくれる素晴らしいものばかりです。
シリーズの一冊、「きみが見つける物語 十代のための新名作 スクール編 (角川文庫) 」では、あさのあつこ・恩田陸・加納朋子・北村薫・豊島ミホ・はやみねかおる・村上春樹というこれまた魅力的な作家たちの作品がまとめられています。先の「休日編」と同様に 藤田香織氏による紹介・解説と・各作家の作品が収められています。
「スクール」を舞台にした作品はどれも、自由さとよく自由の狭間で、はっきりとは見えない可能性の中を生きていく(生きてきた)主人公たちが描かれています。豊島ミホの「タンポポのわたげみたいだね」で始まり、村上春樹の「沈黙」を最後に置かれることで、全く別々の作家の別の作品なのに、まるで、一つのテーマを扱った短編集のようになっています。
「まだ時間は早いけれど、ビールでも飲みませんか」と少しあとで彼は言った。飲みましょう、と僕は言った。たしかにビールが飲みたいような気分だった。
村上春樹 「沈黙」
「休日編」「スクール編」ともに文庫本ですが、小さい割に、とても密度の高い本です。カバンに入れておくには、とても良い本だと思います。
2009-11-05[n年前へ]
■経済成長率下のゼロサムゲーム
小島寛之「数学で考える 」から。
どんなに個人が有望そうな投資戦略を取ったとしても、経済成長率がゼロなら、国民全員の投資収益を集計するとゼロになる。つまり、国民全員で見た場合、投資とは単なるギャンブルによって現資産の再分配をしているにすぎないことになる。
以下は、「数学で考える 」の中で引用されている村上春樹の「パン屋再襲撃」から。
つまり世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、正しくない結果をもたらす正しい選択もあるということだ。
2009-11-06[n年前へ]
■メルヘンというものが物語っているもの
「教養の役割」という問題を考える時、ノーマ・フィールドが「教養の再生のために―危機の時代の想像力 」において、話した言葉。
(ドイツのジャーナリストで映画評論家であったジークフリート・クラクカウアーは)御伽話(おとぎばなし)、つまりメルヘンについてとても印象的なことを言っています。メルヘンとは奇跡を描いているのではなく、正義の奇跡的到来を物語っているのだ、と。
2009-11-07[n年前へ]
■11月7日に「生きる」
各作家たちが書いた名作短編集「きみが見つける物語 十代のための新名作 休日編 (角川文庫 あ 100-103) 」の恒川光太郎「秋の牢獄」から。
いつかあれに捕まる日が来ると思うから、それまではなるべく楽しんでおこうと寄り集まったり、旅行したりしているような気がするのだ。
もしも北風伯爵が存在せずに、11月7日がただひたすら永劫に続くとしたらどうだろう。私はやがて行動する気力を失い、朝起きたら、睡眠薬を買いに行き、あとは一日中眠るだけの日々を続けるようになる気がする。
私はもう充分に、楽しんだし、悲しんだし、苦しんだのだ。
ふと気付くと、今日は11月7日でした。これは、本当に不思議なくらいの偶然でしょう。それと同じように、不思議なくらい、この短編は「何か」が心に残り続ける物語です。
2009-11-08[n年前へ]
■合理と非合理、客観と主観というふたつのまなざし
「河合隼雄―こころの処方箋を求めて (KAWADE夢ムック)」で、鏡リュウジが書く一節。
合理と非合理。客観と主観。このふたつのまなざしを両立させてゆくことは容易なことではない。
非合理なはずの占い師の多くは、簡単に疑似科学者に堕してしまっているからだし、あまりに合理的な生き方をしようとしtも、人生の意味を見失い、ニヒリズムに陥ってしまうことがある。近代の抱える病とは、そんなところにあるのではないだろうか。
2009-11-09[n年前へ]
■罵倒的・批判的・懐疑的気分を抱きつつ上昇欲や絶望を飼いならす
高田里惠子「グロテスクな教養 (ちくま新書(539))」から。
斎藤美奈子は現在でも女性誌で得々と生き方やら恋愛やらを語るセレブたちを見ると、「正直、ケッってな気分にならないでもないけれど、情報自体は女性誌ならではのものもあって結構役に立つ」と言っているが、女性誌読者というのはたいてい、半分はそのように罵倒的・批判的・懐疑的気分を抱きつつ、半分は自分の上昇欲や絶望を飼いならしているのだろうと想像できる。
2009-11-10[n年前へ]
■人に何をされたかを数える人生は、さびしい。
PRESIDENT プレジデントロイター 「キーパーソン図鑑」中、近藤史郎の「記憶に残っている言葉」
人に何をされたかを数える人生は、さびしい。人に何をしてあげられるかを考える人生でないと、楽しくないよ。
2009-11-11[n年前へ]
■「河合隼雄」と「吉田寮」と「ボーイズラブ」
「河合隼雄―こころの処方箋を求めて (KAWADE夢ムック)」を読んでいて、「はて?」と首をかしげたのがこの部分。
それから僕は1988年に60歳になったんですが、還暦祝いに1年遊ぼうと思って京大の学生部長になったんです。京都大学には吉田寮というのがあって、みんな金も払わず名前も言わずに20年以上ずっと入っていたんですが、それを僕が学生部長になって1年半で解決したんです。このときも学生さんとよく団交なんかをやりました。その頃、確か寮費として400円/月を払っていた(が、大学が受け取らなかったので積み立てていた)ような気がする。「団交」もあったが、同時に、茶碗に日本酒が入っていた「会合」もあったような気もする。
河合捕捉計画を立てようと作戦会議を開いた。教育学部の戦闘的学友の情報提供もあって河合のスケジュールも把握できた。
ところが、戦闘的学友は闘争に忙しすぎて授業に出ておらず、河合の顔が分からないという。そもそも吉田寮生は授業にほとんど出ない。
仕方なく図書館で河合の著書を借り出し、後ろの方に載っていた著者プロフィールの顔写真をコピーして回した。ものすごく粒子の粗いコピーで、人相はよく分からない代物だった。
「おっとせい日記」 2006/08/19 土
ちなみに、もっとびっくりしたのが、かわいゆみこ「猫の遊ぶ庭 (ショコラノベルス) 」という新書。
今年K大の院に進学する織田和祐は入居予定だった下宿が取り壊されてしまい、やむなく吉田寮に住むことに。この吉田寮、過激派が住むだの、幽霊が住むだのと言われるほどの尋常ならざるところだった。寮生も変わり者ばかりで、これからの生活に不安を覚える織田だったが、そこでまるで蒸留水を飲んで育ったかのような涼やかな青年と出会う。寮内で唯一まともそうなその青年、杜司篁嗣にすっかり魅せられ、親しくなろうと必死になるが…。ノンケも非ノンケも普通にいたと思うが、こんな本が出ていて、偶然作者「かわいゆみこ」の名字が同じ「かわい」だということが、何だか河合隼雄ならぬユング心理学のシンクロニシティっぽく新鮮で面白い。
2009-11-12[n年前へ]
■がんばりや。
万城目学「プリンセス・トヨトミ 」から。
「人は自分と違うことを、なかなか理解せえへん」
「でもね、女として生きるのも、いいことばかりやないよ」
「でも、何があっても、もう僕は負けへんと思う」
「少しづつ、世の中は見えへんところで変わっていくもんやと思う。どんな阿呆みたいな話だって、いつかはみんなに伝わる。だから、僕も伝えられると思う。」
「がんばりや」
2009-11-13[n年前へ]
■「未来を見通す法則」
小林弘人「新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に 」から、米国の未来学者・ポール・サッフォ(Paul Saffo)が、2006年に挙げた「未来を見通す法則(Paul Saffo on rules for forecasting)」
「未来を見通す法則」
- 見通せないときがあることを知れ
- 突然の成功は、20年以上の失敗の上にある
- 未来を見通すには、その倍、過去を注視せよ
- 前兆を見逃すな
- (見通すときは)中立であれ
- 物語れ、あるいは、図にするがよい
- 自分の間違いを立証せよ
2009-11-14[n年前へ]
■広告は人間そのものの映し絵だ
「広告批評 最終号(2009/04)」から。
広告の世界は、いま大きく変わろうとしています。が、広告がなくなることは決してありません。広告は、時代の映し絵というだけじゃない、いい面も悪い面も含めて、人間そのものの映し絵であるからです。
島森路子・天野祐吉
ずっと人間のことを、想ってきた。
RECRUIT
30年間 ありがとうございました。
広告批評
THERE IS NO FINISH LINE.
JUST Do IT. NIKE
2009-11-15[n年前へ]
■決意で自分の道を選べる「人」はいない
水月昭道「アカデミア・サバイバル―「高学歴ワーキングプア」から抜け出す (中公新書ラクレ) 」から。
決意で自分の道を選べるほど「人間ができている人」などいない。これが、浜田(浜田寿美男)の持論だ。
「たまたま私たちの目の前で起こる出来事のなかに、身を投じていって、そのなかで出来ることを一生懸命やった結果、次の自分の道が見えてくると思うんですよ。人生ってそんなもんじゃないでしょうか」
2009-11-16[n年前へ]
■ぼくらの時代
「あの人は今こうしている 直江喜一さん」から。
武田鉄矢主演の人気ドラマ「3年B組金八先生」(TBS系)シリーズがスタートしてちょうど30年。この学級ドラマから数多くの人気タレントが生まれ、また、たくさんのエピソードや名セリフが残された。第2シリーズ(80年)の「腐ったミカン」もそのひとつだろう。このセリフの主、ドラマの陰の主役でもあった直江喜一さん、今どうしているのか。
髪は薄くなり、恰幅(かっぷく)がよくなったことも手伝い、その温和な笑顔を見ると、とてもあの“不良転校生・加藤優”には見えない。名刺には「1級建築施工管理技士」「2級建築士」とある。
「知名度は一気に上がったものの、現実は厳しかった。なかなか役者一本では食っていけず、コンビニや下水工事、塗装会社のアルバイトをしながらの二足のワラジでした。でも、21歳で結婚し、愛娘が2人いましたから、将来のことを考えると不安が先に立って……」 かくして29歳のとき、社員約50人の建築会社に入社。
週に2日、会社が終わると専門学校に通い、前述の資格を獲得した
2009-11-17[n年前へ]
■「分かっていない」ことを「分かる」
仲正昌樹「知識だけあるバカになるな! 」から。
勉強すればするほど、知的に謙虚になり、自分のことを反省的に振り替えることができるようになれる人ばかりであれば、何の問題もありません。自分の知的限界が本当に分かっていれば、次にどうすべきか自ずから分かってくるはずです。そういう人が「教養のある人」だと思います。本を読んで賢くなったような気がするとき、何冊かの本を読んでそれらの孫引きのような文章を書いてしまっている時(あぁ、今がまさにそうだ)、この言葉を繰り返し思い返さなければ、と思わされる。
ほとんどの人はその逆です。勉強して知識が増すほど、横着で傲慢になっていきます。横着で傲慢になると、自分の無知や考え違いを素直に認めることができません。
特に今の時代には、この本を定期的に繰り返し読みなおしたい。
2009-11-18[n年前へ]
■「合理化」「自動化」って何だろう。
古田足日「宿題ひきうけ株式会社 」から。
戦争がおわってクワ畑はまたできたが、マユが売れなくなったので作らなくなった。なぜ売れなくなったかというと、ナイロンやビニロンのような化学せんいができたからだ。
電子計算機が発明されたことも世の中の進歩だ。だが、そのために(そろばんの名手だった)アキコの兄は違う職場にかわらなければならなかった。
合理的-むだのないようにやっていく、という言葉をタケシは知っている。このことばはたいていよい意味で使われている。
おそらくこの下部に「自動」で出ているだろう、この記事の「関連お勧め記事」も辿ると、やはり「合理化」「自動化」って何なのだろうか、と時折考える。そして、「人が操作しなくても自動で調整し・動くもの」を作ろうとしている自分もいる。
2009-11-19[n年前へ]
■「こころを喜ばす科学」
平林久・黒谷明美「星と生き物たちの宇宙―電波天文学/宇宙生物学の世界 (集英社新書) 」の「おわりに」から。
平林:最後のメッセージです。僕は、科学、技術と、一般の人々との遊離を憂います。一般の人々に、科学を率直にみて好きになって欲しいと思います。
産業、経済、医療等々は僕等の生活を安全で豊かなものにしてくれますが、芸術、スポーツ等がこころを楽しませてくれます。科学は応用を通じて実生活に関わり、知的追求というこころの喜びにも関わる二面を持っています。科学、芸術を愛し、ちゃんと理解する社会は、いい社会だと思います。
黒谷:多くの人に、こころを喜ばす科学を楽しんでもらいたいですね。
2009-11-20[n年前へ]
■ほんとうに大事なものを選び、それ以外は捨てる
結城浩「数学ガール/フェルマーの最終定理 」から。
「本質が同じかどうかは、抽象化しなければわからない。抽象-抜き出すというのは、本質以外を捨象-つまり捨てることだ。ほんとうに大事なものを選び、それ以外は捨てる」
この言葉が心に残ってしょうがない。「何かを表現する」というということは「何かを捨てる」ということだ。何かを捨てて何かを残し、その残した何かが「表現」となる。
「選ぶ」ということは「捨てる」ということとイコールだ。この恒等式を、とても切ないと感じる人もいれば、きっとそうでなく感じる人もいる。
2009-11-22[n年前へ]
■「時間」は「辛い思い出も」「美しい思い出」も公平に消し去る
自転車に乗り小一時間ばかり走ると、古い家屋に囲まれた公園を見つけた。そこで、リュックから「硝子戸の中 (新潮文庫) 」を取り出して読みふける。
彼女は、その美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱きしめていたがった。不幸にして、その美くしいものは、とりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷そのものであった。二つのものは紙の裏表のごとく、とうてい引き離せないのである。「時間」は「辛い思い出も」「美しい思い出」も公平に消し去っていく、という文章を読んだ後に、頁を閉じる。そして、多分、じきに忘れるだろう景色の中を自転車で走る。
私は彼女に向って、すべてを癒す「時」の流れにしたがってみなさい、と言った。彼女は、もしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥げていくだろう、と嘆いた。
公平な「時」、大事な宝物を彼女の手から奪う代わりに、その傷口も次第に癒してくれるのである。
「硝子戸の中」 夏目漱石
2009-11-23[n年前へ]
■人間は始終同じ事を繰り返して居るばかり
「今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはないサ」というのは、「現在から過去を眺めれば、現在から未来を眺めることと同じ」ということである。
時に古今の差なく、国に東西の別はない、観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはないサ。
「黙々静観」 勝海舟
2009-11-24[n年前へ]
■「人」と「時」
夏目漱石「こころ 」から。
悪い人間という「一種の人間」がこの世の中にいると、君は思っているのですか?そんな鋳型に入れたような「悪人」が世の中にある筈がありませんよ。平常はみんな善の人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。
2009-11-25[n年前へ]
■馬鹿で人に騙されるか、疑い深くて人を容れることができないか
夏目漱石 「硝子戸の中 」から。
今の私は、馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れることができないか、この両方だけしかないような気がする。
この文章の後に続くのは、「不安で、不透明で、不愉快で…」といったものだ。しかし、後者はともかくも、前者の互いに「馬鹿で騙されあう」の世の中は、意外に幸せなものではないだろうか。
互いに、「自分が得をする」と思わなければ、物の売り買いだって成り立ちそうにないし、ワイワイガヤガヤの賭けごとなんていうものも、あり得ない世界になってしまうだろう。それは味気なく、実につまらない世界に違いない。
そして何より、互いに馬鹿で騙されあう毎日・世界だなんて、言葉にしただけで、とても楽しそうではないか。
2009-11-26[n年前へ]
■自分の中における人生の価値基準
「西原理恵子の人生一年生 (2号) 」から。
抒情系のまんがって、一見軟弱そうに見えるけど、実はこう、ある程度自分の中における人生の価値基準とか、『こっから先は自分の中で崖だ』っていう一線が決まっていないと、本当にただドロドロ、甘々になってしまうという難しさがある気がするんです。
安野モヨコ 「西原理恵子の人生一年生 (2号) 」
2009-11-27[n年前へ]
■理屈より事実の迫力の方が上
渡辺淳一「男と女のいる風景 」から
理屈より事実の迫力の方が上なんです。たとえば野口英世のお母さんが、アメリカにいる英世に充てた手紙に「はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ」(早く帰ってきて下され)ってチビた鉛筆でカタカナとひらがなと感じと全部まぜこぜで繰り返し書いてあるけど、この文章のほうが、本当に帰ってきてほしい、という愛情がわかるんです。読む人が読めば、文章などの技術を超えて、嘘の部分と本当の部分がわかるものなんです。
-ミヤコ蝶々さんとの対談より-
2009-11-28[n年前へ]
■「やる気になればやれる」という言葉
「全集古田足日子どもの本 (第7巻) 」中、「忍術らくだい生」の冒頭に掲げられた言葉から。
だれだって
どんなことだって
やる気になれば やれるさ
その気になれば できるさ
-先生も そういう
-お父さんも そういう
ほんとうだろうか?
「全集古田足日子どもの本 (第7巻) 」には、「宿題ひきうけ株式会社 」と「忍術らくだい生」が収録されている。いずれも、1960年代に書かれたものだ。
末尾には、『宿題ひきうけ株式会社』の勇気、と題した鴻上尚史による2ページほどの一文も入っている。
自分で考えること、自分が自分の意思で自立することの可能性を教えられたと思った。
この作品は、確かに、ある時代の、まだ希望と未来を堂々と語れた時代の風景にもとづいている。がしかし、そこに提出される『宿題ひきうけ株式会社』のコンセプトは、どんな時代になっても、リアルであり続ける。
僕は大学時代、小学生の家庭教師をしていた。最後の授業の日、僕はプレゼントとして、この『宿題ひきうけ株式会社』を渡した。
それは、どんな時代になっても、この作品の勇気を知ってもらいたかったからだ。
2009-11-29[n年前へ]
■過去の一瞬を舞い戻す匂い
渡辺淳一「男と女のいる風景 」から
ある歌や曲で、ある人の思い出が蘇(よみがえ)るように、ある季節の匂いで過去の一瞬が舞い戻ってくることがある。
「公園通りの午後 (集英社文庫)」
2009-11-30[n年前へ]
■ああ、あんなことを言ってしまった、してしまった。
何か気になったものがあれば、そのことに関する本を手に入る限り読むことにしている。だから、たとえば、向田邦子に関する本は、たぶん、すべて読んでいる。
ああ、あんなことを言ってしまった、してしまった。
何度目になるだろうか、「男どき女どき (新潮文庫) 」を読み返す。「男どき女どき」は、前半の小説でなく、後半のエッセイが良い。
私は、自分の中にこういう要素があることを知っていました。
彼女が書く本を読んでいると、言葉をそのまま読むのでなく、一人部屋で万年筆を走らせる姿を想像しながら読んでしまう。たとえば本書中の「独りを慎む」を読むのなら、そこに出てくるさまざまなモチーフ、たとえば、ここにこの話になぜわざわざ車の事故をも紛れ込ませたのだろう、などと思い悩んでしまう。
人が見ていないと、してはいけないことをしようとしてしまう癖です。
書かれたことを、言葉どおりに受け取ってはいけない。けれど、書こうとした思いはそのまま受け取る。それが、こういう随筆の読み方のひとつかもしれない。