2010-01-01[n年前へ]
■「願えば必ず叶(かな)う」という言葉
年の初め。北村薫 ベッキーさんシリーズ三部作の最終巻、「鷺(さぎ)と雪 」から。
年の初めには願い事をなさい-と国漢の先生がおっしゃったわ。でもね、先生は「願えば必ず叶(かな)うものです」と仰ったの、ずいぶんと無責任じゃないかしら。だって願いごとなんて、十に一つ叶(かな)うかどうかでしょう。-簡単じゃないから、わざわざ、お願いするんですもの。
お嬢様、お嬢様とその先生では、どちらが年上でいらっしゃいます?先生の方が上ではございませんか?
でしたら、さまざまなことを見てらっしゃいます。<<この世では、あれもこれも思いのままにならぬ>>と知り尽くしていらっしゃるのでは?
お嬢様がおっしゃったのは、失礼ながら、<<いうまでもないこと>>でございます。先生が、それをご存じないと、お思いになりますか?
別宮には、そのお言葉が多くの哀しみに支えられたものに思えます。お若いうちは、そのような言葉がうるさく、時には忌まわしくさえ感じられるかも知れません。ですけれど、誰がいったか、その内にどのような思いが隠れているか、そういうことをお考えになるのも、よろしいかと存じます。
2010-01-02[n年前へ]
■コンピュータが生まれてから、人間が何かを知る速度は大きくなりました。
1982年~1985年まで月刊ASCIIで連載されていた、鷹野陽子の「Yoのけそうぶみ 」の最終話、から。
コンピュータが生まれてから、人間が何かを知る速度は大きくなりました。・・・でも、ふっと不安にもなります。知らない方が良かったことも、中にはあったんじゃないかな。また、これからも、知らない方が良かったことを、ついつい知ってしまうんじゃないかな、って。「けそうぶみ」は懸想文と書きます。つまり、それは恋文です。25年ほど前、コンピュータというものを日常生活の中に見かけるようになった頃、その時代に書かれていたのがこの「Yoのけそうぶみ」です。
2010-01-03[n年前へ]
■「今」の先にある50億年先の地球
宇宙航空研究開発機構宇宙教育センター「宇宙(そら)のとびら 」の「第4章 太陽」から。
(今から50億年くらいすると)太陽の表面は温度が下がって赤っぽくなってくる。それで、だんだんに大きくなって地球の軌道ぐらいまでふくらんでくる。
地球は溶けるか飲みこまれるかしてしまう。
いいかい、何十億年も先の心配をするより、今この瞬間をしっかり生きることが大事だよ。そういう積み重ねで…
第1章 宇宙への飛翔 第2章 人工の星たち 第3章 惑星 第4章 太陽 第5章 星と銀河 第6章 宇宙といのち 第7章 宇宙でくらす
2010-01-04[n年前へ]
■ナヴィエ・ストークス方程式の誕生秘話
「オッパイ星人の力学 仏の手にも煩悩編::(2001.01.27)」から。
「指を通り過ぎてく空気は、指をとおる前後で運動量がそのまま変わってないってことさ。つまり、空気は指を通り過ぎる時になんら抵抗を受けてないってことだ。」
「えっ?おかしいじゃないか、それなら逆に言うと、指も空気からは何の抵抗も受けないってことか?この指先に感じる、まぎれもないおっぱいの感触は幻だとでもいうのか!?」
「これがダランベールのパラドックスだ。」
「そもそも、空気をサラサラな理想流体として取り扱ったところが間違っているわけだ。そこで、登場するのがナヴィエとストークスだ。彼らはオイラーの運動方程式に粘性を導入した。全ては疑似おっぱいの感触を説明するために、だ。」
2010-01-05[n年前へ]
■学生の頃に「有限要素法」をもっと活用できたなら…
手描きFEMなどを眺めていると、学生時代にもっともっと色々な科学・工学・技術をきちんと学んでおけば良かった、もっと何かに打ち込むべきだった…と、つくづく後悔してしまう。
学生時代に、ボーリングした穴の形状変化を計算するために、有限要素法(FiniteElement Method=FEM)を勉強した。その時に参考書代わりに使ったのが「森博嗣 著、 C言語による有限要素法入門」だ。
まさか、その後この本の作者がミステリーを量産し、そしてまさか自分がFEMで「巨乳アナライザー」の作成に挑戦することになるとは思いもしなかった。時の流れは・・・時にほろ哀しいものだ。
「有限要素法でおっぱい変形シミュレーション」
「バストに関するヤング率」はまさにヤング率(Young率) なのである」「こんなの作るくらいなら、男の人のヤング率でも計算しなさいよ」
「バストに関するフックの法則」
2010-01-06[n年前へ]
■無限の資源である人間と有限の時間というパラドクス
J.P.ホーガンの「断絶への航海 "VOYAGE from YESTERYEAR"(ハヤカワ文庫SF) 」から。
「人間の心は無限の資源だって言ったけど、でもそれは無駄使いしないとしての話だ。これ、面白いパラドックスだと思いませんか?」
2010-01-07[n年前へ]
■本当の「等身大」の人の姿
広告批評 編集「私の広告術 」から、一倉宏の言葉。
今の広告が描く人間の姿は「等身大」と呼ばれて、だけど本当の人間たちよりもほんの少し小さく描かれているように僕は感じる。
その、指一本が入るような隙間の中に詰まっているのが、愛とか夢とか希望とか志とか誇りとか、なんじゃないんだろうか。
それがあって、本当の人間の大きさなんだと、僕は思う。
2010-01-08[n年前へ]
2010-01-09[n年前へ]
■未来を考えるヒント
14年前、1996年にに出版された池内了「科学の考え方・学び方 (岩波ジュニア新書) 」のあとがきから。
本書は、21世紀を担うであろう若い君たちを主にイメージして書きました。…果たして、本当に励ましとなっているかどうか十分の自身はありませんが、君たちが未来を考える上で、少しでもヒントになれば幸いです。
この本の「はじめに」では、「理科系と文科系」というキーワードが入っている。この本を読み直していると、そんなキーワードをふと思い出した。また、途中、研究者にとっての研究費を得るための話が出てくる。その部分を読む際には、池内了の専門が天文学という”何に繋がるかが問われ、そのことを-確かに-考えているかを問われるはずの”学問であることを考えながら読まなければいけないのではないだろうか、と少し考えた。そして、もうひとつ、21世紀の現代は、すでにアーサー・C・クラークの3法則の3番目「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」時代になっているのではないか、ということがひとつ重要なキーワードなのではないか、という思いが一瞬頭の中に浮かんだような気がした。
そういえば、今日は、「宇宙に文明をもとめて」という話を、京都大学時計台で聞くことができたようだ。時間が許せば、こっそりと、ホールの片隅で、父が語る内容に耳を傾けてみたかったように思う。
2010-01-10[n年前へ]
2010-01-11[n年前へ]
■「言いたいこと」があるかどうかだ
北村薫「北村薫の創作表現講義―あなたを読む、わたしを書く (新潮選書) 」から
一言にいって、私は文章と言うものを非常に簡単に考えている。つまり、言いたいことが、十分に言えているかどうかということだ。というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。
小島信夫
2010-01-12[n年前へ]
■ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ
「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」という言葉を、新年早々に読みました。この哲学者ヘーゲルの言葉が、どういう意味なのかということを考えるのは、人それぞれが楽しんでみると良い迷路だろう。
Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.この「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」という文字を読んだ時、「16才の若い高校生たちに対するアドバイス」を三十代半ば過ぎで読んだ時のことを思い出しました。その時、やはり三十代半ば過ぎの方がこう書いていたことを、思い出したのです。
「人生の到達点はそれまでの積分なんだから、同じアドバイスがどの時点でも有効なはずだ。
やりたいことはたくさんある。それなら、絶対後悔しないから、貪欲に、遠慮せずにやればいい。
今日書きとめたヘーゲルの言葉は、次のもの。
知らないうちからすぐに、すでに知っているという思い込みが忍び込む。
2010-01-13[n年前へ]
2010-01-14[n年前へ]
■「技術」+「学問」=「科学技術」
森下伸也の「逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか (光文社新書) 」を読んだ時に、手帳にメモした言葉。
「技術(テクネー)+学問(ロゴス)」が、科学技術(テクノロジー)である。
2010-01-15[n年前へ]
■京都には桜の名所がいくつもあります
そこに描かれる舞台、街並みや通りや山道に惹かれて読んだ、森見登美彦 「新釈 走れメロス 他四篇 」の「桜の森の満開の下」から。
「私は何を間違っていたの?」
「君は間違っていない」と男は言いました。
「俺が間違っていたのだ」
この本、特に「藪の中」「桜の森の満開の下」「走れメロス」を読み、もう一度、森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女 」を(あの文体を強引に消化しながら)読み直してみようと思う。
2010-01-16[n年前へ]
■寺田寅彦の文学的表現に流れる「重く喪失の感覚」
末延 芳晴「寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者 」から。
寅彦の文学的表現の根底には深く、重く喪失の感覚が流れている。人間が人間として生きていくうえで、欠かすことのできない大切な何かが失われ、断ち切られている。
寺田寅彦に関する書籍は多い。しかし、昨年の末に出版された本書は、これまでに出版された寺田寅彦に関する書籍中でも、最も情報量が多く、そして奥深いものではなかろうか。
理系と文系と言う単純な1次元の世界は、多くの場合、誰もが一度は通り(語り)、そして誰もがいつか卒業する(飽きる)単純極まりない世界だと思う。・・・けれど、あえて書くならば、(そのひとつの道を選んだ)科学者が書く寺田寅彦評論とは一味違うものが、(やはり、そのひとつの道を選んだ)文学者が描いた本書には確かにあるように思う。
俳諧で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
寺田寅彦 「無題六十四」
2010-01-17[n年前へ]
■人間とは他人と自分の心の間の感覚器集合に過ぎない
石黒浩の「ロボットとは何か――人の心を映す鏡 (講談社現代新書) 」から。
「人間とは他人の心と自分の心にはさまれた感覚器の集合にすぎない」
見事なくらい、ロボット工学における試行錯誤を通じて、人間というものは何なのだろうか、ということを「単刀直入」に語る本である。どれだけ、「単刀直入」で「わかりやすい」かは、数頁本書をめくってみればすぐにわかると思う。
2010-01-18[n年前へ]
■少し損な話も高座にかけて、腕を磨いたらどうなんだと
ミステリー部分以外を楽しんだような感のある、落語ミステリーの愛川晶「道具屋殺人事件──神田紅梅亭寄席物帳 [ミステリー・リーグ] 」から。
「せっかく芽が出てきたんだから、たまには少し損な話も高座にかけて、腕を磨いたらどうなんだと、そこんところさ」
「得な」とは口演が楽なわりによくケる噺。「損な」はその逆で、骨が折れるが、お客にはあまりウケない噺のことを指す。誰でも得な噺が好きに決まっているが、そればかり遣っていると、噺家としての技量が向上しない。そのあたりが難しいところだ。
2010-01-19[n年前へ]
■悪用できない技術は偽物である
石黒浩の「ロボットとは何か――人の心を映す鏡 (講談社現代新書) 」から。
「悪用できない技術は偽物である」
これが私の持っている一つの基準だ。技術とは世の中を変える可能性があるものである。逆に世の中にまったく影響を与えない技術は、意味のない技術であって、技術とは呼べない。その技術の使い方次第で、悪いこともできれば、よいこともできる。
2010-01-20[n年前へ]
■お前が何を云いたいか、だ
堀井憲一郎「青い空、白い雲、しゅーっという落語 」から、立川談志が、入門直後の志の輔に言ったことば。
「何も言いたくねえやつが落語やってたってしょうがねぇ、お前が何を云いたいか、だ」
2010-01-21[n年前へ]
■消えた、「財布」と「夢」と「景色」
落語「芝浜」へのコメントから。
人類は夢を見ることで、想像力を掻きたてられ、時には妄想と非難されながらも夢を追い続け、実現を試みてきた。また手近なところでは夢の実現のために宝くじやギャンブルで「夢を買う」行動をとることがある。予期せぬ金を手にしたとき何に使うか、金額の多寡により現実的な使途からはじまり、生活費の足しにする、頭金にする、焦げついた借金を返済する、海外旅行に行く、働かずに余生を過ごす、出来なかったことを試みる、新たに人生をやり直す等々を考え、使途や想像が現実とかけ離れていればいるほど「夢」は広がり、心地よい。しかし、いつか目覚めてしまうのが「夢」である。
鉄道好き・古地図好きの人には、「芝浜は現在の東京都港区東部の田町駅の JR線路沿い(浜松町側)である。元々、新橋-横浜の鉄道は海岸線沿いに堤防を作り、その上を線路としたものである。芝浜の近辺に限ると、線路の内陸側にも海が残り、その上を跨ぐように線路が橋のようにして作られていた。三代目三木助が現役で芝浜を演じはじめているころは、浜や海岸線の痕跡がまだあったが、東京オリンピック以降、埋め立てが加速度的に進み、痕跡が完全に消えた」という一節も、芝浜に描かれた景色とともに読むと、味わい深い。
2010-01-22[n年前へ]
■(ただの夢でも)いいやないの。夢はタダなんだし。
映画 「デトロイト・メタル・シティ 」から。
(ただの夢でも)いいやないの。夢はタダなんだし。現実は厳しいし、誰でも夢が叶うわけじゃない。でも、誰でも夢を見る事だけは自由でしょ。
夢って凄いよ。
それを思うだけで勇気が出て、一歩前へ進んで行ける。
2010-01-23[n年前へ]
■へぇ、…夢を見ました。
モチーフのひとつとして、「悪意」というものを、後味を決して悪くすることなく描いた北村薫の「夜の蝉 から、落語の「つるつる」を題材にしつつ、「悪意」について語る部分。
それからゆっくり無量の思いをこめて≪夢を見ました≫というのである。
まぁ、それは僕の落語の弱点かもしれません。綺麗事にしたがる、というね。
しかし、あぁいう結末になる噺です。だから、僕はその途中に≪悪意≫らしきものを置きたくないんです。
2010-01-24[n年前へ]
2010-01-25[n年前へ]
■義理固い人というのは、依存心の強い人なんです
小倉千加子と中村うさぎの「幸福論 」から。
依存というのは甘えであり、義理固さの別名なんです。義理固い人というのは、依存心の強い人なんですね。
素直に読める対談は、つまらない。真剣勝負の対談は、事前調和的なヤラセの対談よりも、一見するに噛み合わないのが本当ではなかろうか。本書は、少なくとも、事前調和的ではない。
2010-01-26[n年前へ]
■知らないことは知らないと言おう。
太宰治の(「パンドラの匣」と「正義と微笑」が収録されている)「パンドラの匣 (新潮文庫) 」のAmazonレビューから。
世にある(太宰治)のイメージは、「人間失格」や「桜桃」の虚無的な人なのでしょうが、太宰は意外に軽みと明るさのある人であったな、と、大人になった今は思います。
私が始めて読んだ太宰は「正義と微笑」でした。前向きな、爽やかな青年の姿がかかれています。しかし、その底流には、病気と闘っていたり、繊細な心で色々なことを考えたりするといった、陰の部分もあるわけです。
この小説を読むと、何かと戦いながら、軽やかな明るさをつかんでいく青春の姿を感じます。それは、まるで夜明けの寂しい明るさのようです。けれど、そこには(ほのかな)希望の光が見えます。
ぼくは、きょうから日記をつける。この頃の自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がしてきたからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格が作られる、ルソーだか誰だか言っていたそうだが、あるいは、そんなものかもしれない。
「正義と微笑」の冒頭節から
まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らないことは、知らないと言おう。できないことは、できないと言おう。思わせ振りを捨てたなら、人生は、意外にも平坦なところらしい。岩の上に、小さい家を築こう。
僕は、来年、十八歳。
「正義と微笑」の最終節から
2010-01-27[n年前へ]
■「フロー」と「ストック」と「豊か」ということ
塩沢修平「デフレを楽しむ熟年生活 (講談社プラスアルファ新書) 」から。
これまで説明してきたように、GDPや国民福祉指標などのフローの指標で豊かさをはかることは、適切とも言えないし、難しくもある。
ヨーロッパでは何百年も前に作られた建物や道路がいまでも立派に使われている。人々はそれらを利用して豊かに暮らしているのであるが、それらを利用してもGDPには換算されない。
あなたが今年、家を建てて、そこに住み始めたとしよう。その家の建築費は今年のGDPに含まれるが、来年以降のGDPには含まれない。建物や道路あるいは耐久消費財などは、つくられた年のGDPには含まれるが、その後は何人使われても、家賃などを除いてGDPには換算されないのである。
ただしそれらは、フローとしてではなくストックとして社会に残り、あなたが豊かな生活を送るために大きく貢献する。(中略)豊かさはフローだけではなく、ストックも考慮して比較したほうが実態に近いと思われる。
ふと、「理系サラリーマン 専門家11人に「経済学」を聞く! (Kobunsha Paperbacks Business 17) で感じた、いくつかの疑問を思い出した。
「フローとストックというのは、作業給と能力給の違いのようなものでしょうか?」
「技術者が勉強用に本を買ったりするのも、単にモノを買う消費ということになるのでしょうか?」
2010-01-28[n年前へ]
■もし、それが明日でもかまわないのなら、なにも今日する必要はない
小倉千加子と中村うさぎの「幸福論 」の中村うさぎの言葉から。
(そうしたら、先生は)「明日できることは、なにも今日する必要はない」
「もし、それが明日でもかまわないのなら、今日一日生きてみればいい。そう思って、少なくとも三日間生きてみなさい」と言われたんです。
いままで、私はそれで生きてき続けてきた、みたいなところがあるんですね。
2010-01-29[n年前へ]
2010-01-30[n年前へ]
■よく知っている物事からスタートすれば…
リチャード ウィリアムズ「アニメーターズ・サバイバルキット 」の最後の頁から。
よく知っている物事からスタートすれば、知らなかった物事が明らかになってくるものだ。アニメーションを作る、アニメーター向けの本を読んでいると、私たちが認識する「世界」とはどういうものであるか、ということを少しだけわかるような気がする。言いかえれば、私たちにとっての世界というものが、一体どんな姿をしているのかを改めて認識することができるように感じる。
レンブラント、1606-1669年
本書は「教科書」というのはこういうものだ、「教科書」を作るというのはこういうことだ、ということを教えてくれる。
アカデミー賞をトリプル受賞した映画『ロジャー・ラビット(Who Framed Roger Rabbit)』のアニメーション監督が自ら解説する、実用的なアニメーション制作マニュアルの決定版。本書は、アメリカおよびヨーロッパ各国で、ウォルト・ディズニー社、PIXAR社、DreamWorks社、Blue Sky社、Warner Bros社のアニメーターたちが参加した「アニメーション・マスタークラス」に基づく内容だ。ウィリアムズは、初心者からエキスパートまで、あるいは古典的な手描きアニメーターからCGアニメの名手まで、すべてのアニメーターが必要とするアニメーションの基本原則を提供してくれる。
2010-01-31[n年前へ]
■自分で考えない力
小笠原喜康「新版 大学生のためのレポート・論文術 (講談社現代新書)」から。
日本は明治以来、近代教育と言う国民皆教育の時代に入った。(中略) この目的のために重要な学力は、「時間を守る道徳」と「自分で考えない力」の二つである。
戦後は、近代教育が社会に合わなくなってきた。学校は、70年代以降は急速にその力を失ってしまった。つまり時代に合わなくなっていった。「オイッチニー、オイッチニー」が通用するのは、古いタイプの大量生産工場に過ぎない。
本書は、こんな日本の教育を受けてきた若者たちへのささやかなエールである。