hirax.net::Logos::2010-03

2010-03-01[n年前へ]

だから、謝るのが僕の仕事なんです。 

 ダ・ヴィンチ 2009年 07月号 から、「毎日かあさん 」の編集もした志摩和生が、「毎日かあさん」の連載当初のことを振り返った言葉から。

 新聞って地方の真面目なお年寄りも読んでるから、とにかく最初は苦情の嵐。上司に毎日呼び出されて怒られっぱなし。
 ”サラリーマンは我慢するのが仕事なんです。僕のオヤジは一生我慢してきました。僕が一番尊敬してるのは僕のオヤジです。だから謝るのが僕の仕事なんです。”

2010-03-02[n年前へ]

「やりたいこと」と「やれること」について 

 中町綾子「ニッポンのテレビドラマ 21の名セリフ 」の安斎あゆ子脚本の「セーラー服通り」から。

 「ご両親はあなたの進路について理解してくれていますか」と聞くことがある。多くの場合、「自分のやりたいことをやりなさいと言ってます」と答えす。そのうち、やれないとわかったときはどうするのだろう?そんな思いにふと駆られることがある。やれないとわかるのはいつだろうと思う。
 未来(夢)ばかりを見つめると、「いま」が見えなくなる時がある。いまが見えなくて、自分のできることを見失うことがある。
 もし、やりたいことが叶わなかったり、見つからなかったとしても、今の自分を否定する必要はない。才能のあるなしに関わらず、いま自分にできることを精一杯やってみる。そうすることで、何か自信のようなものができるのではないか。あの時以来、私はそんあふうに生きたいと思うようになった。

 テレビドラマは現代を描き、そのテレビドラマの間に挟まる広告は、その現代からさらに未来を描く。

 あの頃、あの時、…そんな時代を描きだしたテレビドラマの台詞や音楽の背景を、深く感じてみたい人(特に、R40世代)がこの本を手に取れば、掌の上にタイムマシンが登場すると思う。

 このドラマのサブタイトルは、最終輪の「さよなら 欲しくない」を除いて、毎回「○○ 欲しい」となっていた。「男の子 欲しい」「お部屋 欲しい」…。彼女たちはいつも何かを欲しいと望んでいた。だけど、ただ貪欲に何かを手に入れていくわけではなかった。

2010-03-03[n年前へ]

地球は止まらんし、反対向きには回らんし 

 中町綾子「ニッポンのテレビドラマ 21の名セリフ 」の大森美香脚本の「風のハルカ」から。すべて、主人公ハルカの台詞。

 「どうしようもないんやな。地球は止まらんし、反対向きには回らんし」
 「明日からまたいつもの朝を始めんといかんから。正巳がおらんくなっても、私は生きちょるし、ご飯を食べて、眠って起きて、前に進むしかないんよ」
 地球は時点を続け、西に太陽が沈めば、やがて、東から太陽が昇る。そして、人は朝版を食べて、また、前に進む。

2010-03-04[n年前へ]

「マンガ」や「物語」を作るワケ 

 ダ・ヴィンチ 2009年 07月号 から、「毎日かあさん 」の西原理恵子インタビューから、サイバラ漫画について。

 でも人間って欠損があれば、それを埋めるために何かするよね。家に人が居つかない家庭で育ったから、それをどうやって埋めたらいいのかっていうんで、物語をつくることがうまくなったのかもしれない。
 だから、出てくる子どもは全部、私です。情けなかったり、いじけてたりするのは全部。
 私の漫画は願いごとなんです。あの時誰も助けてくれなかったけど、本当はこういうふうに言ってほしかったっていう。
 やなせ先生(同じく高知出身のやなせたかし)が言ってたの。”人間何がつらいって、お腹すいてるのが一番つらい。それなのに、世界中のヒーローは餓(う)えを救っていません。だから僕は「アンパンマン」なんですよ”って。やなせ先生って南方戦線の生き残りで、周りはみんな飢え死にしていったんだって…。

2010-03-05[n年前へ]

ハッキリ言って『スカ』な「xx年代の正体」 

 中町綾子「ニッポンのテレビドラマ 21の名セリフ 」の「バブル期のテレビ番組」から。

 1990年、別冊宝島は『80年代の正体!』を出版し、「それはハッキリ言って『スカ』だった」と、その文化状況をばっさり切り捨てた。
 では90年代はどうだったのか。(中略)ばっさり切り捨てるほどの文化もない。
 では、ミレニアム'00年代の文化はどうだろうか。現在の文化、'10年代の文化はどうなっていくだろうか。

 もしかしたら、「つねに、方法論で逃げていただけであり、そこには実体がなく、結局は流行の奴隷になっただけだ」という『スカ』な『80年代の正体』と同じなのかもしれない。あるいは、この「同じ」ことは、その分量は変化するかもしれないが、いつの時代にもあることなのかもしれない。

2010-03-06[n年前へ]

ミカンの隣にリンゴを置くと果物だが、ボールを置けば… 

 非ユークリッド写真連盟(森田信吾+糸崎公郎)「フォトモ―路上写真の新展開 」を読んでいるとセザンヌのこんな言葉に出会う。

 ミカンの隣にリンゴを置くと果物になる。しかし、ボールを置くとそれは球体になる。
 人は、類似性を見つけたがり、そして、分類をしたがる指向を持っているのかもしれない。

 人が二人並んで歩いている時、あるいは、人と何かが並んでいる時、私たちはその中にある類似性を見つけ出す本能を持っているのだろうか。

2010-03-07[n年前へ]

不況下に必要とされる「目の前の小さな幸せを大切にする能力」 

酒井順子の「女も、不況? 」あとがきから。

 不況が続いていけば、目の前の小さな幸せを大切にする能力は、ますます求められるものと思われます。二十年後に今の時代を振り返った時、「あの時代って、考えてみると意外に楽しかった」と思うことができるように、したいものですねぇ…。

2010-03-08[n年前へ]

”大きな”ところのバランスシート 

 色川武大の「うらおもて人生録 (新潮文庫) 」から。

 でも、全勝なんて、幻だからね。
 俺はね。世の中とうまく折り合いをつけて、スムーズに栄えていく人を見ると、「あ、そんなに小さな勝ち星にばかりこだわっていいのかな、大きなところのバランスシートにも神経を使わないと、ご破算になるぜ」なんて思うんだね。
 負け慣れている奴の発想なんだろうけどね。

2010-03-09[n年前へ]

「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない。 

 斎藤美奈子の「文章読本さん江 」から。

 「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない。読む側になって考えてみれば、すぐにわかる。無難で上手なだけの文章なんか、これ以上、読みたい?私たちが求めているのは、常識をくつがえすような、新鮮な文章でしょう?

  「正しいこと」と「面白いこと」は両立しない、と書いてしまうと語弊があるかもしれない。「科学的に正しいこと」「興味深いこと・面白いこと」が両立する場合は、それほど稀(まれ)というわけでなく、あるからだ。たとえば、寺田寅彦の随筆などがそうだ。(科学的に)正しく、そして面白い。もちろん、寺田寅彦のような稀有な例を出してしまうと説得力が失せるかもしれないが、科学的ということに限れば「正しいこと」と「興味深いこと」はそう珍しくない、と言っても良いのではないだろうか。

 ここで、斎藤美奈子が書く「正しいこと」というのは、そういう分野における「正しさ」ではない。それは、たとえば、ニュースを見てレポーターやキャスターが語る「正しいこと」や、それについて、さらに人が語る「正しい」こと、というようなものかもしれない。

 少なくとも、私が読みたい文章は常識に沿った道徳本ではないことは確かである。

2010-03-10[n年前へ]

科学がすべてではありません。 

 阿刀田高「殺し文句の研究 (新潮文庫) 」の「白い恐怖」中の言葉から。

 科学がすべてではありません。人の心の方が正しいことがあります。

2010-03-11[n年前へ]

世界のホンダの足長おじさん 

 小山慶太の「科学歳時記 」から。

 昭和39年、本田宗一郎と藤沢武夫の両氏(本田技研=ホンダの創立者)は、名前を公表しないことを条件に私財を投じ、若手研究者への奨学金を助成する財団法人「作行会」を設立した。以来、20年、1735人の科学者を育てた同会は、昭和59年、十分に目的を果たして解散をした。実は筆者もかつてこの奨学金の恩恵に浴した一人であるが、その時は足長おじさんが誰なのかを知らなかった。
 解散に際し、(中略)初めて二人の足長おじさんの名前を明らかにした。

2010-03-12[n年前へ]

何が間違いで、何が正しいのでしょう。 

 種ともこ「カナリヤ」から。

あなたはスコップ持って、
夢を掘り出すため、はしごをおりてゆく。
闇が心に満ちる時は
きっと出口は近い。知っているの。

何が間違いで、何が正しいのでしょう。
私にはわからない。ただ、耳をすませる。
時代の空気が毒を産みだす時、
歌を歌って、あなたにすぐ告げる。

 まだ回復、とは言えないけど。底は打った。と思う。
レコーディングももうちょっとしたら再開できると思う。

tomoko tane blog
 時の流れの速さに驚くけれど、もう二十年以上前になる頃に、「考えごとしてた。少しだけしてたんだ」「考えてたことは 少し悲しいこと」で始まる種ともこの「うれしいひとこと」が、とても好きだった。「うれしいひとこと。きみに伝える、回路が、心にある限り、歌うよ」という最後のひとことまでが好きだった。その時、採譜して書いた「うれしいひとこと」のギター譜は、多分今でもノート棚のどこかに残っていると思う。
 制作するためのエネルギーを残すために、しばらくブログ、ツイッター、マイスペ、お休みさせてください。

tomoko tane blog
 その頃通っていたバイト先、長岡京市の駅前にあるレコード屋には、「長岡京のロックスター」というチラシが貼ってあった。そして、バイト仲間の駐車場の前には種ともこの実家があって、時折、「お母さんらしき人」が、家の前の道を箒(ほうき)で掃いていたりした。
考えごとしてた。少しだけしてたんだ。
雨の歩道で、いきなりつまづいた。
 何度、「大丈夫ですか?」「ありがとう。平気です」という歌声を繰り返し聴いたことだろう。最後のひとこと、「うれしいひとこと。きみに伝える、回路が、心にある限り、歌うよ」まで、本当に好きだった。

2010-03-13[n年前へ]

恋のさなかにいる女子の記憶力は頑固で、強靭で、図太く、変更・訂正をいっさい受け付けない。  

 「ふつう」に考えているうちに、色んな「ふつう」がみえてくる、軽やかで楽しいそんな本。角田光代の「今、何してる? 」から。

 たしかに、恋のさなかにいる女子の記憶力はずば抜けている。かつ、その記憶力は頑固で、強靭で、図太く、変更・訂正をいっさい受け付けない。
 ふと、プログラミング言語の上で例えるなら、そんな「記憶」はどういう風に表現できるのか・実装されているのか、ということを考えたくなる。
 記憶力の悪い(ように見える)女は、あなたに恋愛的な興味を持っていないだけなんだよ。
 そして、また角田光代の書く文章に惹きこまれていく。

2010-03-14[n年前へ]

愛とは、見つめ合うことでなく、同じ方向を見ることである。 

 角田光代の「今、何してる? 」から。

 (フランスの作家、「星の王子さま」の作者、サン・テクジュペリの言葉から)「愛する、それはお互いを見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである。

 ふと、「お笑いパソコン日誌」に書かれていた、こんな言葉を思い出す。

 仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。
 それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが
 同じ方向を見ることはできないのかもしれない。だったら、せめて同じ方向へ、前へ、進むことならできるのだろうか。それとも、その「前方」は、やはり二人違う方向を向いているのだろうか。違う方向を向いているとしたら、それはただ離れていく方向なのだろうか、それとも、現実世界でよくあるように、やがてまたどこかで交(まじ)わったりするものだろうか。

 ここでは引用していないが、サン・テクジュペリの言葉を導入部分に使いつつ書かれた、角田光代の文章はやはり魅力的だ。変なたとえだが、それは久世光彦が書く、向田邦子の魅力に、少し、似ているような気がする。

2010-03-15[n年前へ]

「政治は一瞬、方程式は永遠」 

「痛みは一瞬。映画は永遠」で、体を張ったスタントばかりだった"バック・トゥ・ザ・フューチャー"を作る時に、主演マイケル.J.フォックスが監督ロバート・ゼメキスと繰り返し交わした言葉を書きました。

痛みは一瞬。映画は永遠。

 "バック・トゥ・ザ・フューチャー"では、主人公は、1985年の世界から1955年にタイムスリップします。今日、引用する言葉は、そのさらに3年前の1952年、まさに時空間を表現する相対性理論で有名な、アルバート・アインシュタインの言葉です。

 1948年にイスラエルが建国されたあと、1952年にはイスラエル初代首相ベン・グリオンから大統領になってほしいと要請されましたが、「政治は一瞬、方程式は永遠」と言って断りました。

米沢富美子「人物で語る物理入門〈下〉 (岩波新書)

 この2つのフレーズは、似ているようで、文の流れは結構違います。前者は、永遠のために一瞬を受け入れることを厭わず、後者は、永遠のために一瞬には目を向けません。

 色々な一瞬と永遠があることでしょう。あなたなら、この形の一文に、どんな言葉を入れたいと思いますか?

2010-03-16[n年前へ]

「自分であるための何か」を見つけなさい。 

 角田光代の「今、何してる? 」の中にある、角田光代が「アー・ユー・ハッピー? (角川文庫) 」と「明日こそハレルヤ!―元殴られ屋のハチャメチャ人生。めざすは最後の一発大逆転! 」を読んで感じとり・書き綴った言葉から。

 自分と、自分であるための何か。それを手に入れて、それさえ手放さなければ、人生は絶対に私たちを裏切らない。大変なことの連続かもしれない現実を、笑ってしまうことも可能なんだ。
 -だから、大変さを乗り越えられる何かを見つけておきなさい。いろんなことのちゃんとできないあなたでも、自分自身である証は、きっと見つけられるはずなんだ。

2010-03-17[n年前へ]

酸性の洗剤とアルカリ性のそれを混ぜ合わせたら毒素が生じることはだれでも知っているけれど… 

 角田光代の「今、何してる? 」の「相性」から。

 その人といることによってのみ、自分のある部分が強調される。幼さや、几帳面さや、わがままや従順さや。自分ですら気づかなかった面がづいに顔を出して驚くこともある。かっこ悪さ、クールさ、嫉妬深さ。
 やっかいなのは、プラスの反応ばかりがでてきてもけっして万事快調にはならない、ということで、その逆に、とことんマイナスばかりが並んでいるのに関係が長続きする場合もある。酸性の洗剤とアルカリ性のそれを混ぜ合わせたら毒素が生じることはだれでも知っているけれど、自分が出会っただれかと一緒にいることで、何が生じるのかは予測すらつかない。生じたものが自分にどんな作用を促すのかも。

どうして言葉と言葉すれ違うと化学変化でめちゃくちゃになるの?

種ともこ 「You're The One」

2010-03-18[n年前へ]

仕事を聞かれて、会社名で答えるような奴には、負けない。 

 安田輝男 「あの広告コピーはすごかった!―心に響いた優秀コピー900選 」から。

 仕事を聞かれて、会社名で答えるような奴には、負けない。

紫垣樹郎 「リクルート ガテン」@'1997

2010-03-19[n年前へ]

同じものを見るという「奇跡」と「幻」 

 角田光代の「今、何してる? 」から。

 親とかきょうだい、もしくは恋人は友達と、とても親密なある一日を過ごしたとする。(中略)その一日について、ともにすごした人と照合してみると、びっくりするほど記憶が違う。私は空を横切る飛行機を見ていて、彼/彼女は散歩中の巨大猫を見ている。私はサテンで男女が大喧嘩しているのを見ていて、彼/彼女は行列のできるラーメン屋を新発見している。
 だれかとともに一日を過ごして、何から何まで同じものを見、うりふたつの記憶を持つという奇跡のようなことは、きっとある。そして私は気づく。恋人でも友達でもない、未知のだれかとも、同じものを見、同じ記憶を共有することは可能である、と。

 繰り返し、そんな「奇跡」を夢見ます。そして、いつもこの言葉を反芻(はんすう)するのです。

 仮に、同じ流星を遠く離れた恋人同士が見ることができたとしても、悲しいことに、たいていは違うところを見ているのである。
 それは、同じ場所で同じ映画を見ても、必ず違う部分を見ているのと似ている。われわれは他人とまったく同じものを見ることができない。残念だが。

お笑いパソコン日誌

2010-03-20[n年前へ]

到達できるのはたかだが<よりよい近似だ>ということ 

 ロゲルギストの「新 物理の散歩道〈第4集〉 」の 「文科と理科」から。

 また自然科学には<絶対に正しい理論>はなくて、われわれが到達できるのはたかだが<よりよい近似だ>ということ―教条主義のアンチテーゼ―をさとらせることができれば申し分ない。

2010-03-21[n年前へ]

"15-0”と「15才の君へ」 

 テニスで"15-0”という点数を表す言葉、フィフティーン・ラブ "Fifteen-Love"と宣言する声を聞くと、「十五の愛」とか、「十五歳の恋」とか「十五年の愛」とか、そんな風に聴こえてしまうことがある。

 1995年の関西・淡路大震災から15年が経った。関西電力の「15才の君へ」というコマーシャル・ビデオを観ているとき、ふと、そんな"15-0”の幻聴を思い出した。

君たちがいたから、15年でここまで来られた。
君たちこそが、希望の光。

 "0"を、なぜLoveというのだろう。それは、ゼロが卵に似ていて、卵を意味するフランス語の音から来ているのだ、という説もある。

The origin of the use of "love" for zero is also disputed; it is possible that it derives from the French word for an egg (l‘oeuf) because an egg looks like the number zero.
 あの時のゼロの卵たちが、今では十五歳になっていく。やはり、何だか、"Fifteen-Love"という声が聞こえてくるような気がする。

 拝啓、この手紙を読んでいるあなたは、
どこで、何をしているのだろう。

アンジェラ・アキ 「手紙~拝啓 十五の君へ

2010-03-22[n年前へ]

「科学が何を実現するか」を科学は答えない 

安斎育郎・板倉聖宣・滝川洋二・山崎孝「理科離れの真相 (ASAHI NEWS SHOP) 」から。

 「科学をいかなる価値の実現のために役立てるべきか」という深刻な問いに対する答えは、科学それ自身からは出てこない。(中略)問いに対する答えは、本質的に価値観の選択の問題であり、科学のありようを指導する別の原理を必要とする問題である。

2010-03-23[n年前へ]

「自分ならできるというその自信。」 

角田光代・鏡リュウジの「12星座の恋物語 」を読む。

 そうだあのとき、あたしは彼をうらやましいと思ったんだ。…でかいことをしたいと公言できるそのシンプルさ。自分ならできるというその自信。そして実際、自分の手のひらで、自分の足で、未知の世界にぐんぐん分け入っていこうとする、その強さ。あたしにはないものばかり内に秘めている彼。

 「こんなものを作りたい」と思ったなら、自分一人で作る。いつも、そうすることができれば、それが一番気楽でよいと思う。

 けれど、自分一人では作れないものがある。そんな複合的なものを、そんな大きなパズルを、もしかしたら作れるかもしれない、と思ったこともある。けれど、そんなものを、きちんと作ることができなかったことを、思い出すたび、いつも後悔する。パズルのピースを失くしたことを、いつも情けなく悔しく思う。

2010-03-24[n年前へ]

「贈る言葉」 

昭和の中頃を描いた、西岸良平の「三丁目の夕日」は、もうずっと昔の物語なのだろう、と読む人は誰しも思うのではないだろうか。それなら、「3年B組金八先生」はどうだろう。それも、やはり、昭和の中頃を描いたずっと昔の物語なのだろうか。

 1979年の10月26日から、翌年の春先までの期間、半年にも満たない期間に放映されたのが「3年B組金八先生」だ(第1シリーズ)。その短い期間に、どれだけ密度の高いものが詰まっているように感じたろうか。どれだけの気持ちを感じたろうか。

 「我々もまた、次の世代、そのまた次の世代のために、何か人間が幸せになれるようなことを残さなければならない責任があるのです。そのために諸君は今、受験勉強をやっているわけです。もし東大に入って大蔵省の官僚になれる人がいたら、人間の本当の幸せのために1万円でも多く予算をぶんどってきなさい。大工さんになる者は家族たちの笑い声がいつも絶えないような、そんな素晴らしい家を作ってください。(中略)そしてこの川の流れ込んだ海の向こうでは、受験戦争どころか本当の戦争で傷つき、肉親を失い、食べ物すらない、そんな少年少女たちがいることをお前たちは忘れるな。

3年B組金八先生 第1シリーズ 「第十六話」

 ふと…考える。もう、ずっと昔に「3年B組金八先生」は、前世紀の古い物語になってしまっていたのかもしれない。21世紀になって、すでに十年以上が経っている。時代が「平成」という名前になってから、すでに二十年以上過ぎている。あんな「贈る言葉」を、もう古く感じる時代になっているのだろうか。

 戦後が一段落して、これからバブルが来るっていう第2シリーズの頃が、一番いい時代だったのかもしれないね。

「”≠腐ったミカン”加藤優」を演じた「直江喜一」

2010-03-25[n年前へ]

「個性の差異」や「感情や思考」と「行動」と 

 十二の星座、それぞれの男女、全部で二十四人を主人公にした二十四の物語 角田光代・鏡リュウジの「12星座の恋物語 」から。

 すべての人が星座によって十二パターンの性格に分類できる、とは私も信じていません。(中略)私が書きたかったのはむしろ、人の差異でした。十二人集めたら十二通りの個性があり、二十四人集めたら二十四人分の個性がある。自分の思考回路や行動原理がいつも正しいわけはなく、まったく異なる人もいる。また、頭では正しいことがわかっているのに、いつもいつも正しいことばかりできるはずもない。という、そのことを、この短い小説で書けたらいいなあと思っていました。

 男性、女性、それぞれの星座の色々な人たち、そんな二十四人の物語を、読みたい星座の読みたい性別から適当に読み進めていくと、「あぁ、これが物語というものなんだ」と実感させられます。

2010-03-26[n年前へ]

科学万博が見せてくれた21世紀への夢や希望 

 「テーマ展 科学万博 - つくば’85-記念品と資料で振り返る25年前の祭典-」のチラシ(PDF)裏に書かれた言葉から。

 あの時、科学万博が見せてくれた21世紀への夢や希望を、現実の21世紀を生きる私たちが忘れずに引き継いでいけるよう、この展示会をご覧いただければ幸いです。

 そして、その1985年に発行された、(「グラフィケーション」で連載されていた(坂村健、渡辺茂、村上陽一郎、竹内啓ら19人による)対談11編が収録されている)グラフィケーション編集部編「科学技術を考える 」の冒頭に掲げられた言葉から。

万博会場の自動翻訳機を使って、エスキモーとケニア人が対話している。いまや、世界中が科学の力で結ばれている。ロボットにピアノを弾かせたり、似顔絵を描かせることが流行している。しかし、そんなことができたからといって、世界中に渦巻いている異民族間、異文化間の問題が何か一つでも解決したわけでもない。

1985年6月 グラフィケーション編集部

2010-03-27[n年前へ]

「減点法」と「加点法」の「見方」 

 十二の星座、それぞれの男女、全部で二十四人を主人公にした二十四の物語 角田光代・鏡リュウジの「12星座の恋物語 」から。自分の星座や性別や、あるいは、誰かの星座や性別から始まる、角田光代が綴る「物語」を読んでみれば、その言葉に、少し惹かれるかもしれません。

 私をふった恋人は減点法で人を見て、店長はその反対、どんどん点数をプラスしていくつきあい方をするんだろう。
 私は善人ではないし、たぶん女性としての魅力もそんなにないんだろうと思う。けれど、私をふった彼氏が知らなかったことを店長は知っている。彼氏が見てくれなかったところを見てくれる。自分がすばらしい人間とはゆめゆめ思わないけれど、でも、そんなに捨てたもんでもないはずだと、ようやく私は思うことができる。
 おばあちゃんになったっていいや。私のだめなところも、弱いところも、全部受け入れてくれる夏の陽射しみたいな人と出会えるならば。時間の経過とともに、そういうの全部、ひとつひとつプラスに換算してくれる人といっしょにいられるならば。

2010-03-28[n年前へ]

「聴き手の興味をひく、魅力的な内容」 

 「論理的にプレゼンする技術 聴き手の記憶に残る話し方の極意 (サイエンス・アイ新書) 」の「はじめに」から。

 あなたの手元にある「カード」が、聴き手が欲しいカードと完全に同じという奇跡は、現実にはまず、存在しないのです。
 「聴き手にとって、自分の手の中にある材料には、いったい何が足りないのだろう?」「そもそも、自分が話をしようとする聴き手は、いったいどんな人たちなのだろう?」ということを考え、考え抜いて、自分の手元にある材料やカードをそろえなおす作業を繰り返すことで、初めて「聴き手の興味をひく、魅力的な内容」が、あなたの手の中に現れてくるのです。

 (下に)この記事の「関連お勧め記事」として出ているだろう、『「わかりやすい」=「正しい論理」という大きな勘違い』も、合わせて読んで頂ければ幸いです。

2010-03-29[n年前へ]

飲んでいることを忘れたいから酒を飲むという「星の王子さま」に登場する問答を。 

 角田光代の「酔いがさめたら、うちに帰ろう。 」(鴨志田穣)への書評から。

 なぜ酒を飲むのか、飲んでいることを忘れたいからだという、「星の王子さま」に登場する問答を幾度も思い浮かべた。
 いってはいけない場所は避けて生きる。それが正論だが、人生は正論にはおさまらない。生きることはかくも理不尽である。それでもこの小説が絶望に彩られていないのは、「帰りたい」、そう切望する場所を、理不尽な「僕」が諦(あきら)めることをしないからだろう。

 「酔いがさめたら、うちに帰ろう。 」の「僕」は、とても理不尽で不器用で、その理不尽で不器用な「僕」が生まれてからの話、そして、「彼女」と描く-西原理恵子-のもとに、やはり限りなく不器用に「帰る」までの話である。「帰る」ことができた一節には、「帰りたい」と切望したその場所の大きさと魅力が透けて見えてくる。

2010-03-30[n年前へ]

27年余りの刑務官生活で…。 

 坂本敏夫「少しだけ強くなれる手紙 ~ 今、不安と悩みを抱えながら生きる君たちへ ~ 1通目」から。

 そこで私は大学をあきらめて大阪刑務所の看守になって宿舎をもらったのです。
 27年余りの刑務官生活でたくさんの囚人とその家族の人生に関わりました。

2010-03-31[n年前へ]

今日の平準化された世界では・・・。 

 無料で購読できる、最上級のグラフ誌GRAPHICATION No.167 中の昼間 賢 『世界史に取り残された「地方語」の輝き』から

 今日の平準化された世界では、正の特徴があれば無論のこと、負の特徴でも、ないよりはいいのだろう。それを逆に用いれば、うまくいくこともある。
 大事なことは、プラス(マイナス)アルファを持つことだ。二つの眼球が一つの目であるように、物事の認識には二つ以上の視点が必要である。
「本当の自由は、脇ですることにあるんだ」と語るダニエル・ロッドー。中心が消えた今日の世界では、自分の特徴を、他者との関係において、いかに行使するかに自由が介在する。ただ一つ手放してはならないもの、それは実感だ。