2010-05-01[n年前へ]
■それが見たくて、いつもポッケにアメをいくつもつめる
西原理恵子の「毎日かあさん4 出戻り編 」から。
途上国のストリートチルドレンたちは、お金をあげても、親にとられてしまうので、まるで表情がない。
けれど、お菓子をあげると笑う。こどもの顔で笑う。
私はそれが見たくて、いつもポッケにアメをいくつもつめる。
2010-05-02[n年前へ]
■川の底からこんにちは
映画「川の底からこんにちは」から。
上がる上がるよ、消費税。
金持ちの友達、一人もいない。
来るなら来てみろ、大不況。
その時ゃ、政府を倒すまで。
夢や希望も持てない毎日を送る、まさしく現代の若者を象徴するかのような主人公の佐和子を含め、この映画に登場する様々な世代の人たちは閉塞感を抱えながら中途半端に生きてきた人ばかり。けれど人間らしくて、どこか私たちに似たところもある。
「人間のダメさや醜悪さ、ドロドロとしたものの向こう側にしか人間の魅力はないと思うんです。そこを通過していかないと、本当の幸福や愛は見えないと思う」
2010-05-03[n年前へ]
■True Colors@Glee
米FOXのミュージカル・コメディ"Glee"から、"True Colors"。
If this world makes you crazy,*bear 耐える・背負う・抱える…
and you've taken all you can bear*,
you call me up.
Because you know I'll be there.
2010-05-04[n年前へ]
■テキ屋のクジに一等賞は入っていない!?
学生時代、「みやげもの販売」というバイトをした。もう今の時代にはないだろう、アルバイト雑誌に載っていた「みやげもの販売」という求人情報を見て、電話すると「すぐ来てくれ」と言う。喜び勇んで、電話で教えられた住所に行った。すると、そこは大きめの普通の家だった。しかし、家の中に入ると広めの和室の壁には、「○×組」という提灯が並んでいる。その家は、普通の名前も持っているけれど、「○×組」という名前も同時に装備しているらしかった。そういえば、玄関に変な看板があったことを思い出し、家を出るときに確認してみると、そこには確かに「○×組」と小さく書いてあった。
「みやげもの販売」といっても、決して名産お土産を売るわけでなく、お祭りが開かれている場所で「くじ」や「綿菓子」や「金魚(スーパーボール)すくい」といった「みやげもの」を販売する店だ、ということがわかった。つまり、そこはいわゆるテキ屋業を営んでいたのである。
できるなら、このバイトには採用されたくないな・辞退したいな…という気持ちとは裏腹に、「じゃぁ、明日から来てね」と「姐さん」に言われ、次の日から色々な街で開かれている「お祭り」会場に行くことになった。そして、テキ屋の店員として、夏の間中、働くことになった。それは結構ツラく、そして楽しい毎日だった。
楽しかったのは、何だか祭りという特殊な場所で時間を過ごすことができる感覚や、こどもたちが祭りの中で興奮して楽しくしているさまを見ることができるからだった。そして、ツラかったのは、たとえば、たとえば、「くじ」の担当になった時だった。「くじ」の中には、そもそも一等賞のあたりくじなんか入っていなかったし、「二等賞や三等賞が当たったとしても、適当にごまかして絶対に景品は渡すなよ」ということを、姐さんや氣志團の綾小路翔みたいな実にハンサムな(バイトではない)常勤の先輩に強く言い渡されていたからだ。はずれくじを握って残念そうな顔をするこどもを前に、その一等賞の箱の中には何も入っていないんだよ、ということを考えるのは何だか切なかった。
結局、こどもの笑い顔を見るのはとても楽しく、こどもの泣き顔を目の前にすると少し辛かった。…その楽しさと辛さで差引き計算をしてみたら、やはり、昔のことだと思えば、「楽しかった」ということになるのだろうか。
2010-05-05[n年前へ]
■「世界観の変化」と「新製品の登場」
角田光代の「いつも旅のなか 」から。
私たちの生まれ育った国で、変化を味わうのは至難の業(わざ)である。もちろん、コンピュータの普及とか携帯電話によるコミュニケーションの変化とか、そういったことは体感できるが、それは変化ではなくて、単なる新製品の登場である。何か世界観みたいなものが大きく変わる、揺らぐ、それを全身で理解するということは、おそらく七十年代以降、あり得ないというのが私の意見である。
はつ恋
ウォークマンやケータイという新製品が登場したとき、それは、世界の見た目を大きく変えたような気がする。世界、それ自身を変えたのかどうかはわからないけれど、自分の世界の中にいるままで、街中を歩き、電車に乗ることができるようになった。その結果、たとえば電車の中であれば、それぞれの人の個別の世界が独立に存在することが、あからさまに見えるようになったように思う。
「世界観」はわからないが、「世界の見た目」はずいぶん変わった。「見た目」が変わるとき、「見る目=観」は一体変わらないでいられるものだろうか。
2010-05-06[n年前へ]
■誰の指図も受けない世界で見つけたもの
小林太郎の「美紗子ちゃん 」
誰の指図も受けない世界で、
見つけたものは、
消えないものばっかの消しゴム、
芯の無い鉛筆。
いらないものばっかの世界で、
君を忘れていく夢。
2010-05-07[n年前へ]
■上岡龍太郎の「理」と「情」
「探偵ナイトスクープ」から。
関西には、「探偵ナイトスクープ」という人気番組がある。(中略)'93年2月のある週の放送だった。事情があって道端に放置されている二宮尊徳の銅像があるのだが、それをきちんととしたところに再び置かれるようにしてもらいたい、との依頼が番組に送られてきたのである。
学校をいくつか回るのだが、どの学校にも断られる。トミーズ雅が不思議に思い、ある学校の校長に尋ねたところ、二宮尊徳は、「お国のため」というような思想が強制された戦前・戦時中の教育のシンボルであり、そのような悪用・悪影響の心配があるので、学校で引き取ることは出来ないのだ、と説明される。
結局、どの学校にも断られるのだが、大阪市内のある保育園が引き取ってくれることになる。じつはこの保育園には、すでに一体の二宮尊徳像があったのだが、もう一体置くということにしたわけだ。依頼者のおばあさんも大変喜び、これで一応番組的には「一見落着」という感じなのだが、ところがスタジオの場面に切り替わると、上岡局長が、「探偵」の行動に苦言を呈する。なぜ学校などの教育施設に置くことにこだわったのか。放置されて路傍に置かれているときでも、すでに賽銭のようなものが供えられていたという。それなら、商店街とか、個人の庭に置いてもらうという方法もあり、そうすれば、ずっとスムーズにいったのではないか。
上岡は、おそらく彼個人の考えと感覚にもとづいて、この番組の作られる方針、そして視聴者に訴えたであろう「情」の部分に疑いを示し、彼一流の口調で切り捨てたのである。
自分が信じる「理」にしたがって、テレビ的に作られる「情」を拒み断罪する。上岡龍太郎は、それが出来る芸人だった。おそらく上岡は、あの学校長の形式的な態度などは、もっとも嫌った人であろうが、そのことと、彼自身の考えや感覚にもとづいて何を信じるかということ、またテレビが強いてくる(大衆的と称されるような)「情」への安易な協力・同調を拒むこととは、また別のことがらだった、ということだろう。
2010-05-08[n年前へ]
■「カムバック(期間限定)」
「警部補 矢部謙三」が最終話を迎える。石原刑事という名とともに、前原一輝が期間限定で「カムバック」するのだろうか。
「じゃあ、兄(あに)い、グッドラックじゃけんのぉ~」
@宝女子村@TRICK(第1シリーズ 第4話
「あにい!? あにい!?」
「おかえりなさい」
「ありがとぉ」
警部補 矢部謙三 「最終エピソード 前篇」エンディングロール流れる中で。
2010-05-10[n年前へ]
■走る街を見下ろして、のんびり雲が泳いでく。
斉藤和義 「歩いて帰ろう」から。
急ぐ人にあやつられ、右も左も同じ顔。
寄り道なんかしてたら、置いてかれるよ。
すぐに。
走る街を見下ろして、のんびり雲が泳いでく。
だから歩いて帰ろう。
今日は歩いて帰ろう。
2010-05-11[n年前へ]
■Come on up! 旅に出かけよう!
タケカワ・ユキヒデが曲を書き、加橋かつみが歌う「ニルスのふしぎな旅」から。
カモナップ、ニルス!旅に出かけよう。
準備なんかいらない。
春を探しに、空を行けば、初めて見るものばかり。
カモナップ、ニルス!旅を続けよう。
仲間たちと一緒に。
冬の訪れ、淋しいけど。
みんなと地球の上さ。
2010-05-12[n年前へ]
■僕が一番欲しかったもの
ある大学でこんな授業があったという。
「クイズの時間だ」
教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。
壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」
教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」
そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。そして、砂利を壺の中に流し込み、 壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」
学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。「この壺はこれでいっぱいになったか?」
学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」
と教授は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、 大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、 君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果、それ自体失うだろう。
2010-05-13[n年前へ]
■ブルースから流れる「歌の三段構成」
「グラフィケーション」 2010 No.168 から、赤木昭夫の「失われた道を求めて」より。
(アメリカの黒人たちの)四回もの大移住は、アメリカに大きな文化遺産をもたらした。第一回目には、ドラムに合わせて足踏みで踊るという、リズムという音楽の基本要素がアフリカから伝わった。
二回目の移住の過程で生まれたのが、ブルースだ。ブルースの歌詞は、という三段構成になっている。
- 苦しみをつぶやき
- 嘆き
- だが耐えるしかない
次に三回目の、セントルイス、シカゴ、デトロイトなどの工業都市への移住の中で、リズム&ブルースが生まれたが、という三段構成になる。
- 怒りや苦しみをぶつける
- ぶつける
- そして解放される
そこからロックが生まれた。ロックン・ロールの元祖には諸説あるが、セントルイスで育ちシカゴでデビューしたチャック・ベリーもその一人だ。
もはやロックとなると、もうつぶやいたり、嘆いたり、諦めたりしていない。しかし、ブルース以来の、音楽の運びの基本の三段構成は継承。
ちなみに、四回目の移住ではレゲエ文化が新たに加わった。
2010-05-14[n年前へ]
■アイルビーバック(10)
夜遅く、猥雑で笑えて、毒があって苦い番組をやっていて、その味が魅力的で毎週見るようになった。それが、TRICKだった。主演の仲間由紀恵は惹かれ、その仲間由紀恵を「微乳ネタ」でからかう前原一輝演じる刑事「石原」からも目が離せなかった。
夜遅く、警部補 矢部謙三のエンドロールで、野際陽子の上を流れていく「前原一輝」の名前を見ながら、石原刑事を見る。矢部謙三の後で動きまわる、前原一輝演じる刑事「石原」を眺める。
「兄(あに)ぃ、兄(あに)ぃ」
「ついてくんなって言うとんやろ」
エンドロールに流れるそれぞれの名前には、TRICKに関わった年数が、書かれている。あぁ、TRICKを一番最初に観たときから、もう十年が経っているのか。
「先輩~、そろそろ、矢部さんのもとに帰ってきて下さいよぉ」
「わしは、みんなの思い出ん中で生きれれば
それでええんじゃよぉ」
「グッドラック、じゃけぇ」
TORIKU (youtube)
2010-05-15[n年前へ]
2010-05-17[n年前へ]
■「ずっと」も「好き」も、どこにもないから
西原理恵子原作の、映画「パーマネント野ばら」に対する、森山京子の言葉。
誰かを愛さずには生きていけない。愛しているという思いこみでも、かつて熱烈に愛したという記憶でもいい。心の傷に蓋をし、タフな明日を迎え撃つためにも、その熱の微かな残りを抱きしめていたい。
テレビで、おそらく宣伝番組なのだろう、映画「パーマネント野ばら」を作り上げた女優三人が「女の嘘」というものについて話をしていた。誰だろう、菅野美穂でもなく、小池栄子でもなく、池脇千鶴だったろうか、女の嘘というモチーフに対して、「女が男につく嘘」の話をしていた。…「パーマネント野ばら」に描かれているのは、そういう味の嘘でなない、ように思う。
「ずっと好き」はどこにもないから、『私は、毎日、「嘘」をつく』…けれど、それは他の「誰か」につくのではない。その「嘘」という名の物語を語る相手は、「自分自身」である。騙(かた)る相手は他の誰かでなく自分自身だということにこそ、哀しさと切なさと真実がある、と私は思っている。誰かを信じさせる「嘘」ではなく、「自分」を信じさせる嘘だからこそ、切実で哀しくて、そしてリアルなのだと私は思う。
私は毎日、小さな嘘をつく──。
それから、王子さまとお姫さまはキスをして、
二人はいつまでも幸せに暮らしました―。
そんなお話は この世に ないけど―。
好きやずっとなんて、ないことは、
とっくのむかしから知っている。
だから、わたしは、
毎日、小さなウソばかりついている。
2010-05-19[n年前へ]
■空豆の中にはいつも何かが入ってる
西原理恵子の「パーマネント野はら」から。
最初に娘をみたとき、空豆の夢を見た。
どこともしらない空の上に空豆があって、
のぞくと、私の娘がはいっている。
私は、私の空豆をみつけることができて、
うれしくてしかたがない。
また、こんな一節は、「営業ものがたり 」の「うつくしいのはら」から。
兵隊さんに土をかけたら、次の年、
そこから空豆の木がはえた。
青い空に空豆がきれい。
そして何年もして、その空豆は、
私のおなかにふってきた。
うつくしいのはら西原理恵子が描く空豆の中には、女性の大きなおなかのように、いつも赤ちゃんが入ってる。そんなものが入ってる。
あおい そらと そらまめ
あいしてる
2010-05-20[n年前へ]
■たくさんの空豆
西原理恵子「毎日かあさん 5 黒潮家族編 」から。
ゆっくりおりてきたその空豆をのぞくと、
中にはみんなこどもが入っていて、
「まだかな まだかな」
って顔をしている。
あのたくさんの空豆を、
今でもよく思い出す。
2010-05-23[n年前へ]
■人の十年分の一年
「世界の果てまでイッテQ」で、珍獣ハンター・イモト(イモトアヤコ)のVTRを観ながら。
アイツ(イモト)、一年で、他人(ひと)の十年分生きてるなぁ。
内村光良 (ウッチャンナンチャン)
2010-05-26[n年前へ]
2010-05-27[n年前へ]
■人生の岐路である選択肢を選ぶということ
「彼女たちのドラマ―シナリオライターになった女性たち 」の中で、大石静が語る言葉から。
人生の過程で、人はいろいろなことをあきらめなければいけない。人生の岐路である選択肢を選ぶということは、その他の選択肢をすべて捨てるということを意味します。小さな子供のときにはいろいろ可能性があるように、大人は言いますが、実は無数の可能性を断念して生きていくのが人生なんです。
2010-05-28[n年前へ]
■「ひとり」という名の寂しい鳥の物語
本棚を眺めていると、寺山修二「赤糸で縫いとじられた物語 」という題名の本があった。あまりに懐かしくて、思わず手にとってしまった。確か、高校の図書館で、誰かにこの本を薦められ、手に取り読みふけったような気がする。
同じ鳥でも飛ばないとりはなあんだ?
それはひとり という鳥だ。
壜の中の鳥